第25話

月子さまにはすでに決まった婚約者の方がいらしたのだそうです。けれど、相手にはすぐに婚約するわけにはいかないさる理由があったようで、荻野家はそのあと持ち込まれた天蔵家との縁談を進めることになりました。ただし、荻野家としてはさして乗り気ではなく、かつ天蔵家よりも上位の家柄だったために、この縁談の際、一つの条件を設けられたのだそうです。もしも御成婚される前に、元の婚約者の方の事情が片付いたならば、荻野家は天蔵家との縁談を破棄するということでした。それほど荻野家にとっては天蔵家が格下であったのでしょう。そして元々の縁談がいかに魅力的であったのかが伺えます。

 ですが、荻野家の誤算は当の月子さまで、いざ優さまとの縁談が破談になりますと、納得することができないで、天蔵家まで来られたのです。

「それでも、納得するもしないも同じことです。月子さまはあちらの方に大変気に入られているそうです。それにそのお方は公爵家の長男だとかで荻野家にとって願ってもない組み合わせです。旦那様も恩が売れると考えておいでだったのでしょう。優さまにとっても、その方は軍医時代に直接ではないものの、上司にあたる立場だったと聞いています」

 優さまの代わりに説明してくださったのは、スミさんでした。私が慌ただしく荷造りをしていますと、スミさんが優さまに頼まれたとかで、部屋を訪ねてきたのです。

「月子さまは、贅沢なお方ですね」

 私は視線を窓の外に向けました。寒々しく灰色に染まる空からは今にも白いものが混じりそうです。時折、この窓は風でがたがたと揺れるのです。冬ともなれば、この乾いた音は誰かが窓を叩いているようでした。

「求められていても、求めている人をとろうとするのですから」

「さあ、人生というものはどうにもならないこともありますからねえ。月子さまも懸命だったのでしょう。ご自分の思いには正直なお方ですもの」

 外界の空気を知らずに清浄に育ったその瑞々しい花に、傷をつけてしまってはいけなかったというのに。大事にされなければならないお方だったのに。

「スミさんは私のしたことを愚かだと思われますか」

 スミさんは私を安心させるように微笑まれます。

「そのようなことで愛想をつかせたりなどしませんよ。使用人たちはみな、私の可愛い娘や息子と思っていますからね。あなたは最善を尽くしました。みや、よくがんばりましたね」

 優しい言葉に私は不覚にもほろりと涙がこぼれてきそうになりました。

 着物の袖で涙を拭い、風呂敷を背負います。深々と、感謝の気持ちを込めて、この面倒見のいい老婦人に頭を下げました。

「スミさん、今まで本当にお世話になりました」

「ええ。残念です。実はね、みや、あなたを私の代わりに使用人頭にしようと思ったこともあったのですよ」

「そこまで買ってくださったことに感謝いたします」

 久弥の学費のためにと始めたことですが、ここは私にとってとても大事な居場所でした。

 佐恵子さんに挨拶だけでもしておきたかったのですが、今は仕事の最中でしょう。手紙だけおいておこうと思います。

「あと、これは優さまからですよ」

 スミさんが手に持っていた風呂敷を私の腕に押し付けました。ずっしりと腕が引きつられそうになって、慌てて抱え直します。布の切れ間から、本の表紙がのぞきます。あっ、と声をあげます。次第に笑みがこみあげてきました。

「借りている本も持っていけと仰せでしたよ」

 優さまらしい餞別ではありませんか。ますます可笑しくなってくすくすと笑ってしまいます。

「優さまも大概変わった方だと思っていましたが、あなたもこのようなもので上機嫌になるなんて本当に変わっていますねえ」

 呆れ顔になったスミさんはふいにしんみりとした口調でこう付け加えました。

「だからこそ、あなたは優さまの目に留まったのでしょうね。少し、わかるような気がしますよ。あなたは間違いなく、優さまの特別でしたよ」

「はい、十二分に大事にしていただきました」

 優さまには私の真心を返そうと思うのです。私は、優さまとともに行くだけの度胸は毛頭持てません。それをするには臆病すぎるのです。それに時間だって足りませんでした。この濃い数ヶ月は、人を恋に落とすには十分ですが、将来を考えるほど長くはありません。現状のまま答えを出さなければならないのなら、こうするほかなかったのです。仮にもっと時間があったならば、別の答えを出すこともあるかもしれなかったでしょうが。もちろん、それが詮無きこととは承知していますけれども。

「達者にするのですよ」

「はい」 

 外に出れば、木立の陰から白亜の屋敷の一角が見えました。今も優さまはあの屋敷の自室に座っていらっしゃるのでしょうか。それともどこかにお出かけなのでしょうか。

 今はご機嫌もよろしくないことでしょう。でも、夕方には少しはよくなるはずです。なぜならば、夕食に出てくるのはウィーナーシュニッツェル、あの方の好物なのですから。

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