第24話

ここ最近の散らし書きを読み返してみれば、あれこれと話題がとっちらかった状態で放置されておりました。我ながら一貫性にかけるところがあるのではないかと疑います。それともあまりに突発的なことがいくつも組み合わさったせいで、まだまだ気持ちがついていっていないということでしょうか。

 ときはすでに二月の半ばをすぎようとしています。なかなかに冷える日が続きますが、幸いなことにいまだ風邪などは引いておりません。ですが周囲に熱が出て休む者が二度三度あって、その埋め合わせで忙しくなりました。そう、こんなときにまたも突発的で、印象深い出来事が起こったのです。

「優さまはいらっしゃるかしら」

 朝早く、霜がきらきらと水晶のように光り始めた頃のこと。玄関の掃き掃除をしていると、後ろから声がかけられました。それが月子さまの声らしく思われたので不思議に思います。月子さまのご訪問の予定は聞いておりませんでしたし、ここ最近どうしてか月子さまのお姿を拝見する機会はなかったものですから。

 それに加えて、このような早い時間に。ごく普通の平日でしたので、ますます訝しく思いながら振り向きます。

 ぎょっとしました。

 月子さまの眼が兎の眼のように真っ赤に充血していたのです。加えて慌てていらっしゃったようにいつも綺麗に整えられていたお髪にほつれがございました。

「月子さま」

 私が名前を呼びますと、赤らんでいた顔がさらにくしゃりと歪んで、淡い真珠のような粒がぽたりぽたりと頬を撫でてゆきます。

「ごめんなさいね。ここに来てはいけないのだとわかってはいるのだけれど。いてもたってもいられなくて」

 涙で掠れた声が胸を切なく打ちます。月子さまは何を悲しんでおいでなのでしょう。以前は不安で泣かれましたが、このたびは心の底から悲しんでおいでなのです。

 ハンケチを差し出しますと、月子さまはありがとう、とおっしゃって、私のものを手に取られました。

「本当にみっともないわ、私ったら」

 手の中のハンケチが月子さまの涙で萎れていきます。

「いいえ。そのようなことはございません」

 月子さまを安心させるように、できるだけ優しげな口調で首をふってみせます。

「それよりも、どうして月子さまがこちらにいらっしゃったのかが気になります。まだ朝早くですし、このようにお見苦しい姿をお見せしてしまい、申し訳ございません」

 優さまが、と月子さまの口から彼の人の名が飛び出したとき、私の胸の内が切なく波打っていくのがわかりました。しかし、月子さまはそのようなことを気にもとめずに、私の袖を引きます。正面で瞳と瞳がぶつかって火花が散ったように思えました。

「私との婚約を解消されるとお聞きしたのです。ですが私、突然のことでよくわからなくなってしまって」

 月子さまは私に滔々と訴えかけます。まるで私に何かを求めるようにじっと私を上目使いで見つめるのです。

「ねえ、みやさん。あなた、ご存知ないかしら。どうして優さまは婚約解消をなさったの。我が家との縁談は願ってもないものだったはずなのに。私には優さまのお心がわからないのです。どうしてあんなにあっさりと婚約破棄を受け入れたのでしょうか」

 どうして、どうして。

 とうていすべての問いに応えうる立場にいない私には次々と溢れてくる泉の雫におろおろと立ち尽くすことしかできませんでした。

「御義父様だって、反対なさらなかったと聞くわ。この縁談を持ちかけてきたのは、御義父様と聞いているのに」

「旦那様には、旦那様のお考えがおありなのでしょう」

 慰めにもならない慰めを呟いて、私は小さく息をつきました。

 最後に旦那様とお話させていただいたのは、正月明けに別荘から帰ってこられたときでした。車から降りられた旦那様は、お迎えに小走りで表に出てきた私に手荷物をあずけますと、フン、と鼻で笑われました。

 やっぱりしでかしてくれたわ、女(め)狐(ぎつね)め。

 思わず旦那様を見返しますと、私の驚き顔がさぞや面白かったのか、さらに声を上げて可笑しそうに笑われるのです。

 いやいやいや。だからこそ人生とは面白いものだ。思いもよらぬ者が思いもよらぬ物に引っかかるものだな。

 ちっとも得心がいきません。私は首を傾げながら旦那様の後方を歩きます。

 早く続きを見せて欲しいものだ。悲劇か喜劇か、感動か。筋立ては好みだからこそ、つまらぬ幕引きは許さないぞ。

 要領の得ないお言葉ばかりで、さすがに辟易してしまいます。

 あの、芝居の話でしょうか。思い切って尋ねますと、そうとも、と煙にまかれるような返事が返ってきます。

 世間という舞台で踊る役者の演技を楽しむことこそ、余暇の楽しみというものだ。

 話はこれで終いでした。金井さんが扉から出てきて、旦那様と何やらお話を初めたものですから、それっきりとなってしまったのです。




「旦那様には、私たちには見えぬ物を見ているのでしょう。私などには及びもつかぬ尺度でものを計り、それでこそ成功なされたのです」

 私はどこか頭の奥がぼうっとした心地になりながら、とりとめのないことを告げました。

「だったら、優さまは。優さまは、何をお考えか、あなたご存知ないかしら」

 懇願の瞳は、きっと私を通して優さまをみておられる。月子さまは優さまに正面切って不満を言えない代わりに、私に零されているのでしょう。優さまの前の月子さまは恋したての乙女のように何かを思う存分述べることが叶わないのです。

「私にはわかりかねることなのです、月子さま。それは一介の使用人が知ることは許されないでしょう」

 私はいまこのときまで、優さまが婚約を取りやめたことさえ知りませんでした。その私には答えることは酷なように思われました。あるいは、思うまいとしていることですが、優さまが婚約を取り消された一因は私にもあるのかもしれないのだと思うと。

 優さまが月子さまとご結婚されなくてよかったなどと安堵する自分の心を覆い隠せるよう、それだけを一心に念じていたのです。

「申し訳ございません」

 頭を下げますと、月子さまは口に手を当てられて、いいえ、こちらのほうこそごめんなさいね、と緩慢に首を振られます。その首の白さと細さといったら。へしゃげてしまわないかと感じるほどでした。

「あなたはなんにも知らなかったのだものね。優さまのお心が見えないことはいつものことだもの。あのお方は、かつて一度も私に心を許して下さったことがなかったの」

 首が前のめりとなって、たおやかな百合の花の茎が折れるかのようでした。体を丸めて、月子さまはさめざめとまた泣かれるのです。

「私の何がお嫌いなの。ああ、私で駄目なら、一体どんな方なら、あの方は心惹かれるというのです。ねえ、みやさん。あの方には他に恋人でもいらっしゃるの」

 私がみます限りではそのような方はおりません。この言葉はけして嘘ではありませんでした。でもはたして胸を張って真実であるとは言えないことが、私の罪悪感の原因でしょう。

「あの方は私の気持ちを知っているはずなのに、どうして」

 黒く輝くつやつやの髪が私の目の端を横切ったとたん、胸をはっとつくものがありました。涙に濡れて惑う月子さまは美しい。月子さまは露を纏っている時がもっとも美しい花なのです。私が優さまの立場なら、この顔を拝見するために、この方を泣かせたいと考えます。

「月子さま、どうか落ち着かれてください。そうでなければ、このみやが泣かせたものだと責められてしまいます」

「そうね」

 赤く染まった眼が肯定の色を見せます。

「もう少しだけ、ごめんなさいね」

 頬を伝う涙が途切らせることができないのでしょう。月子さまのお顔が晴れることがありませんでした。

 涙を拭かれたら。私は月子さまに囁きかけます。

「優さまをお呼びいたしましょうか」

 かつかつと下駄が地を叩く音が間近に近づいてきました。女性のものではない、男の足音、それも私と月子さまがよく知るお方のものでした。

 綿入れの羽織に手袋と襟巻きをきっちり着込んだそのお方は、私たちの眼前で足を止めます。

「荻野嬢、使用人の仕事を邪魔するものではないだろう」

 私と月子さまを見比べて、眉をひそめてみせます。さきほどまで機嫌が悪くはなかったせいか、その表情の変わり様が手に取るようにわかりました。

 月子さまが怯えた様子でハンケチを殊更にぎゅっと握り締めます。

「優さま」

 かの方が言ったのはそれだけでした。そのたった一言に月子さまの思いのすべてを集約されているのでしょう。

 優さまは鼻を鳴らすと、月子さまから目線を逸らして私の方をご覧になります。

「今晩はウィーナーシュニッツェルが食べたい」

「え、あの」

「食べたいんだ」

 念を押されてしまわれては、月子さまのことを脇において返事をするしかありませんでした。

「はい。かしこまりました。その、ウィーな、シュニッケル、なるものを料理長に頼んでおきます」

 一度だけでは料理名を覚えられませんでした。優さまが異国の言葉を流暢に発音なさってしまうので、聞き取りにくかったのです。

「ウィーナーシュニッツェルだ。薄く叩いた豚肉に衣をつけて焼いた料理だ。俺の好物だからな、覚えておくように」

 私は莫迦のように三度も口の中で言葉を転がして、間違いなく覚えたことを確認しますと、反射のように優さまを見上げます。そして、ああ、いけない、と自ずと悟ってしまったのです。優さまの目元が和まれている。頬は緩み、手は今にも私に伸ばされてくるような気配さえ感じるのです。

 優さまは一見して感情が読まれにくい方です。けれども、ある程度あの方を見つめている方ならば、その機微がわかるほどにはわかりやすい方でした。

 すべてを覚悟します。きっと優さまはわざとこう振舞われているのです。本当に月子さまを突き放すことを望まれているのだと確信せずにはいられませんでした。

「どうしてですか、優さま」

 像のように棒立ちになっていた月子さまはようよう口を開きます。柳眉を逆立てて、体を震わせます。月子さまはお怒りでした。それももっともなこと。私は月子さまに対して罪を犯しているのです。その信頼を裏切り、自身の婚約者を誘惑した悪女です。たとえ、そのすべてが事実でなくとも、それは月子さまにとって真実であることに違いないのです。

「どうして、みやさん。どうして、あなたなの」

 その声までも震えています。申し訳ありません、と私は手をついて土下座してでも謝るべきなのでしょう。けれど、その姿は私に好意を寄せてくださった優さまにも傷をつけることになるでしょう。優さまには見せたくありません。

 言葉を飲み込んで、黙り込みました。私は厳密に言えば当事者ではないのです。月子さまと優さまの問題で、私はその行方を見守ることになった使用人でした。

「お前が責めるべきなのは俺の方だけだ、荻野嬢。だが、責められるべきなのはそちらも同じのはず。これは約束とは違うだろう」

「ですが、私は本気でした。本気でこの縁談を本物にしようと」

 優さまは月子さまの言葉を遮ります。

「我が家はそちらの要望を取り入れただけだ。荻野という大家と繋がりを持ちたかった卑しい商家の主が息子に命じただけに過ぎない。高貴なお方には、手も触れられない身分であるもので」

 優さまはとびきりの悪い顔をなさっている。お言葉は嫌味をたっぷりまぶしておいて、さあ召し上がれとばかりに月子さまの鼻先に遠慮なく突きつけます。

「結構なことですよ、荻野嬢。ご婚約、おめでとうございます」

 他人行儀な口調でした。かわいそうに、月子さまはわっと泣き伏してしまいます。

 私は黙って優さまの横顔を見つめておりました。

「みやさん」

 やがてか細い声で月子さまが私の名を呼びます。

「ね、お願いよ、取らないで下さる」

 優さまを取らないで下さる。

 私はこのとき、玄関の異変に気づいた同僚たちと金井さん、スミさんが順々に様子を伺いに来たことを感じていました。月子さまが私にすがって泣いておられる、この姿もとうに人にさらされておりました。月子さまのお言葉を聞き取った人もいるでしょう。

 もう、すべてを隠し通すことはできないのです。私は袋小路に閉じ込められたのと同じでした。

 私は月子さまを見、次は優さまをただじっと見上げました。そうしてからやっと口を開いたのです。

「優さま、私には荻野家と天蔵家の事情など何一つ知りません」

「説明したほうが良いか」

「ご都合が悪くなければ」

 言葉が口の中で上滑りしていくこの心地は、なんだか自分が他人になったかのような錯覚をおこさせます。

「みやさん」

 突如として月子さまが鋭く私を呼びました。反射的に顔を向けますと、思いのほか暑い衝撃が頬を走ります。平手の音が聞こえたのは一拍のちのことでした。

「取り上げないで頂戴っ。私から優さまを取り上げないでっ」

 月子さまが子供のように喚きます。髪を振り乱し、手足をしきりに震えさせて。目を丸々とさせている私を突き飛ばしました。幸いなことに、よろめくだけで倒れ込むにはいたりませんでした。

「やめろ、荻野嬢」

 優さまが軽々と月子さまの腕を上で拘束してしまいます。その厳しいお顔は怒りで染まっていました。

 私はぼうっとなりながら、豹変した月子さまのお姿を眺めていました。やがてじわじわと憐憫の情が溢れてきます。

「月子さま。どうかお気をお鎮めください」

 かの方が睨まれた先にいたのは間違いなく私でした。そのことに胸を痛めます。

「お願いいたします。御身の名誉のためにもどうか」

 優さまが月子さまの腕を離されても、もう暴れることはありませんでした。

「だめよ」

 打って代わって月子さまは目を伏せて、唸るようにそう言いました。

「みや、優さまを取らないで下さる」

 今度こそ、決定的でした。私は答えを出さなければならないのです。このような大勢の人の前で、優さまの前で。

 ほう、と息を吐きます。

「ねえ、お願いよ。みや、あなたは私にも誠実に仕えてくれたでしょう」

 懇願するように手を合わせ、真剣そうな口ぶりで月子さまはそうおっしゃりました。それに合わせて、私は首を縦に振ります。

「はい。月子さまは未来の奥方様、と仰いでおります。その気持ちに変わりはありません」

 私は優さまを一瞥し、そして逸らしました。そのことで私がこれから何を言おうとしたのか先読みした優さまが声を荒らげます。

「みやっ」

「はい」

 私は名を呼ばれても平然を装っていました。そう、以前の私と同じように。でも違うのは、胸の内では心臓が激しく音を立てているのです。優さまは続けざまに早口で言葉を継ぎます。

「月子の言葉に惑うな。いいか、月子を選べばお前はここを辞めざるを得なくなる」

 それはそうでしょう。優さまが私にご執心であることはもう屋敷中に広まってしまいました。スミさんは額に手をのせて、しきりに溜息をつかれていますし、金井さんは私に向かって首を振ります。もうかばいきれないということでしょう。同僚たちの目線はひたすら痛いばかりです。彼らからすれば私は道を踏み外した娘なのでしょう。

「だが、俺を選べば、ここを辞めることにはなるが、俺がついてくる。絶対、こちらのほうが商談としては双方に有益だと思わないか」

 はあ、ときょとんとしたのち、私はくすりと微笑みました。私より焦燥に駆られているのが誰か、気づいたのです。

 私は深々と月子さまに頭を下げました。

「月子さま、私をどうか許さないでくださいませ」

 月子さまへと語りかけます。

「捨てきれぬ思いを捨てきれなくなってしまった私の落ち度なのです。ですがけっしてやましいことは誓ってございませんでした。これは優さまの名誉にかけて確かなことです」

月子さまが呆然として動きを止めました。優さまが驚いたように私を凝視しているのがわかります。私が素直に認めたことがさぞや意外なのでしょう。

私はさらに続けました。

「私は優さまに囲われるつもりなど毛頭ございません。そして、お金で納得するものでもなく、そのようなものをいただく気もありません。すべては私の胸一つに納めます。ですから」

 目頭が熱く緩んでいくのを感じながら、私は体から強ばった力が抜けていくのを感じていました。

もう終わりなのです。この方とはきっと二度と会えないのでしょう。そんな予感が頭をよぎりました。

「ですから、月子さま、どうか幸せになられてください」

 世間一般には、私は遠慮して身が引いたものと見えるでしょう。けれども、これは私にとってけじめでした。全部を一旦断ち切らなければ、よい方向には進まないのです。優さまや月子さま、そして私にとっても、これは必要なのだと、信じておりました。

 最後まで、使用人らしく、毅然たれ。私は涙を押しとどめ、しゃんと立ちました。

 嘘をつかないこと、それこそ、私が唯一お二人にお贈りできる「誠実」なのです。

 視線は月子さまから優さまへと動きます。

「優さま、お世話になりました」

「ああ」

 優さまは何かを口にしようとして、幾度かの失敗のあと、

「理由を聞いてもいいか」

「私は、天蔵家の使用人ですから」

 不思議と晴れ晴れとした顔をつくることができました。優さまに惜しまれていた、望まれていたとわかって、私はそれだけで幸せでした。求めてくれる誰かがいたことが、それだけで人生の大きな財産となることを、優さま、あなたさまは知らないのでしょう。

 私がどれだけ嬉しかったか、あなたはご存知ない。私がどれだけ優さまに惹かれていたか、それもあなたが知ることはないでしょう。

 悲恋だったとは思いません。私は最初から最後まで苦しんでいたけれど、幸福だったのですから。

「人を振っておいて、よくもまあ、そんな顔をするものだな」

 優さまは渋面を作られます。

「振ったなどとは思っておりません。これはどうしようもないことなのですから。お仕えしている主人と使用人の色恋など御法度を犯すわけには参りません」

 優さま、私の言葉にようく注意してお聞きくださいませ。私は心の中で呟きます。

 これは賭けであり、私の願掛けでした。気づかなくともいい。でも、私をずっと求めて下さるのなら、気付いて欲しいとも思います。

「優さま、せっかくですから、最後に破ってしまう約束を一つくださいますか」

「なんだ」

「迎えにきてくださるという約束です」

「それを破ってしまうという前提でつけるのか」

 変なことをいうものだな、と優さまは呆れ顔を作られます。

「どういうつもりだ」

 私は言うべきか否かを躊躇いつつ、結局は口を開いてしまいます。

「必ずしも守られる約束などありません。かといって約束をしなければ淡い期待も抱けないからです。もしかしたら、迎えにきてくださるかもしれない、と少しだけ期待してみたくなったのです」

 時を定めなければ、私が死するときまで、待ち続けることができるのです。それは素敵な考えであるように思いました。だって、一人きりで生きていくには、人生は長すぎます。

 優さまはふいに手を伸ばし、私の頭を柔らかく撫でられます。

「お前の言っていることはひどく矛盾している。わかっているか」

 はい。私は猫のように目を細めていたでしょう。

「勝手なことを申していることを重々承知しています。見限られてしまわれても、仕方ないとも思います」

「臆病な女だ」

 言葉は厳しいのに、優さまの声音には甘さがありました。子供を甘やかしているようななだめ声です。

 もしかしたら、この方にもいつかお子様ができて、このような顔をみせるのかもしれません。将来のことを考えてしまえば、私はこれ以上ないほど、醜い思いに囚われます。きっぱりとけじめをつけようとしているのに、妄執を抱きそうになってしまうのです。

 だから、やっぱり優さまから離れるのは正しいのだと信じましょう。

 手を頭に乗せられたまま、優さまのお顔を見上げます。優さまは動揺されたように、ぱっと手をよけられました。

「臆病にもなります。優さまの妾(めかけ)になるために虎視眈眈(こしたんたん)と狙いつつ、ここで働いていたわけではありませんもの」

「それもそうだな」

 優さまは私の軽い冗談に応えて声を上げて笑い、やがてその笑みも消えていきました。

「なあ、みや。約束してやるから、もう少し期待していろ。それに信用もしてほしい。俺は約束したことは守る。忘れるな」

 信用という言葉に胸をつかれます。はたして、私は今までこの方を信用したことがあったでしょうか。臆病というのもまさに当てはまります。私は自分の身を守るために、あるいは自分の傷を浅くすませるために、傷つかない安全な場所からこの方に好意を寄せていた。

 優さまよりも、私のほうが何千倍も不実ではありませんか。

 信用しろとあちらから手を伸ばしてくださる優さまに、私は自分が思っているよりも救われていたことにようやく気付いたのです。

「そうですね。私は、優さまを信じております」

 優さまのほうが驚いた顔をなさったのが可笑しかったです。しかしながら、私もかくもきっぱりと告げられることができるなどとは知りませんでした。

 では、とその場を辞去しました。月子さまはもう何もおっしゃらずに、地を見つめておりました。スミさんや金井さん、同僚たちの横をすり抜けたあと、私はふふと笑い、ついでに涙が溢れてきました。

 でも熱い涙が冷たい風にさらされて、冷水に変わります。それが乾ききるまで頬には冷たさが残ります。私は芯まで凍えてしまいました。

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