第23話

姉さん、ご健勝にされておられますか。正月以来、ますます冷え込んで参りましたので、家族一同、心配しております。我が家のほうでは特にめぼしいことが起きるわけでもなく、つつがなく過ごしております。



 先日は、お勤めに忙しい中、時間を割いてくれてありがとうございました。最後はあのような形で別れてしまい、出立前の挨拶にも出向けなかったこと、申し訳なく思っています。

 ですが、姉さんの無事をこの眼で確かめたことで、主な目的は達成しておりますので、僕のことはお気遣いなく頼みます。父さんも母さんも、僕があちらの様子を話すと、とても安堵していたようでした。

 天蔵の若様、おそらく最後に会ったあの方だと思うのですが、その方にもよろしくお伝えください。

 姉さん、くれぐれもお体にはお気をつけて。父さんと母さんは、いつでも姉さんの帰りを待っています。僕にもできることがあるなら、いつでも相談してください。

 では、またいずれ。

                                          久弥



廊下の窓硝子(がらす)から傾きつつある光が入り込み、影を映し出していきました。一寸の間だけ目に留めて、外の冬景色を眺めてみます。昨夜は雪がうっすらと積もりましたが、今の時分には溶けてしまって、濡れた草葉が水晶の輝きを宿しています。

 そこで立ち止まってみたのは私の気の迷いのせいでしょう。先日届いた弟からの手紙の内容はひどくたわいもないものでした。久弥はとても優しい子です。そして賢い子です。私と優さまの関係にも気づいているのかもしれません。もしも気づいていたらと思うと、心が重苦しくなります。私は久弥に何も悪いことはしていないはずだというのに、重大な過ちを犯してしまったのではないか、と疑っているのです。

 唐突にみや、と呼び止められると、そこにいたのは雑巾を持った佐恵子さんでした。

「こっちに人手が足りないの。階段掃除を手伝って頂戴」

「え、ええ。いいわ」

 ちょうど担当場所の掃除が終わって手が空いていたところでしたので、私は頷きました。

 正面玄関入ってすぐの大階段はいつも佐恵子さん含めて二三人で掃除されていますが、今日に限って佐恵子さんしかいないようでした。私も今日は先に別の用事を片付けなければなりませんでしたので、スミさんに掃除担当を外していただいていたのでした。

「ああ、みんな旦那様やら、金井さんに御用を申しつけられていてね。手が空いてて、頼めそうな人がみやぐらいしか思いつかなかったのよ」

 佐恵子さんの説明に得心がいきます。

「わかったわ。何をすればいいの」

「とりあえず、階段両脇にそれぞれある壺を新しいものに入れ替えて欲しいの。そのついでに壺の置いてある台も磨いて頂戴。あ、新しいものはもう倉庫のわかりやすいところに置いてあるから、すぐにわかると思うわ」

「古いものは」

「スミさんが一応点検なさるから、新しい壺が置いてあったところにそのまま置いておいて」

 壺は大変高価なものですから、ことさら気を使わなければなりません。そろりと、とりあえず慎重に壺を一つ抱えて、倉庫に向かいます。

 倉庫は屋敷内でも当然、奥まったところにございます。廊下をずっと歩いていますと、一つの扉が開きました。

 見れば、優さまとスミさんでした。さして隠すような会話ではないからか、私にも聞き取れる内容でした。

「優さま。これで失礼いたしますが、くれぐれも先方に角を立てる真似はなさいませんように。普段から言葉が足りていないこと、きちんと自覚くださいますよう」

「まったくだ。気をつけることにしよう」

 お二人が話されているお姿はまるで親子のようです。実際、優さまをここまで育てましたのは、スミさんに違いありません。

 私の方といえば、お二人の前を横切っていいものか、一瞬躊躇をしておりましたが、すぐに二対の眼が私を向きます。

 スミさんはさっと逸らして、優さまに一礼したのち、私の横をすり抜けていかれます。

 私もスミさんにならって、優さまに失礼いたします、と一言断ってから、扉の前を横切っていきます。

 そろりと通り過ぎ様に優さまを見上げますと、目線が交差しました。ですが、優さまは何もおっしゃいません。冷たいわけでもないのだけれども、眉根を寄せて何事かを考えていらっしゃいます。

 私とて、優さまにかける言葉など見つかりませんでした。いいえ、本来ならば、気軽に言葉を交わせるはずもないお方だったのに、迷ってしまうこと、それ自体が過ぎた贅沢というものでしょうか。

 伏せた目を意識して正面に向けます。

 倉庫で新しい壺を抱えて、取って返します。

 すると、先ほどの扉が再び開いておりました。何気なく視線を滑らせますと、中で椅子に座り、書物に目を通されていた優さまのお姿がありました。

 私の足音に気づかれたのか、ふと私の方を見やります。私はまた目礼して通り過ぎました。

 玄関に残されていたもう一つの古い壺を持って行く時も、優さまはそこにおられました。そして、帰りも同様でした。

「あら、ありがとう。私の方も終わったから、休憩しましょう」

 佐恵子さんが私を手招きします。あとに続こうと足を踏み出しかけましたが、おのずと止まってしまいました。

 優さまのお様子を思い出したからです。

「佐恵子さん、先に行って。私、少し用事を申し付けられてしまっていたのを忘れてしまっていたわ」

 珍しい、と佐恵子さんの目が丸くなります。

「なら、しょうがないわ。早く済ませてらっしゃい」

「もちろんよ。少しだけだもの」

 少しだけ、少しだけ、と心の中で念仏のように唱えます。

 思った通りに、優さまはまだ扉を開け放したままでした。

「優さま、失礼いたします。お茶をお持ち致しましょうか」

「いいや」

 打てば響くような返事がすぐさま返ってきます。「それよりも扉を閉めてくれないか」

 かちゃりと扉が閉まる音が奇妙なほど大きく聞こえました。このお部屋に二人きりとなったことに、今更ながら緊張してまいります。この動揺が優さまに伝わなければいいのですが。

 最近は優さまとは行き違いになることが多くて、優さまに返事を待ってください、とお願いして以来、言葉を交わすのは初めてだったのです。

「随分と久しぶりである気がするな」

「はい」

 優さまは普段と何も変わられておられない様子でした。

「渡した本は進んでいるか」

「はい。前読んだものと重なる部分が多いので、なんとか自力でもできそうです」

 優さまが渡された本をぱたりと閉じられます。それは見覚えのある装丁をしておりました。そう、優さまに以前お借りした書物、そっくりそのままでした。

「優さま、そちらの御本は月子さまにお貸しするものと聞いておりましたが」

「そうだな。確かに言っていた。荻野嬢が望んだからな」

 目が眇められます。言葉に毒を感じてしまい、我知らず一歩引いたように優さまを拝見します。

「荻野の要望をなるべく聞き入れなければならないから、約束してしまったが、だがいざとなれば、嫌になってしまった。元来は、本当に大事なものは人に貸そうとは思わないものでな」

 優さまは優しくないお方です。でもそれだけ、正直な方でした。

「荻野嬢がこれを受け取ることは二度とないのだろう」

 いい天気だと世間話をするように優さまは淡々と告げられます。

 月子さまは優さまを追いかけども、優さまは振り向かれない。優さまは今まで一度もご自分から月子さまを望まれたことがないのです。背中を見つめる視線を振り切って、手を伸ばした先にいるのは、ほかならない、私だったのです。

 このようなことを話されて、優さまは私がなんと答えることをお望みなのでしょうか。

「荻野嬢からすれば、不可解なことだろうな。世間に一歩も出たことのない、温室でしか咲けない花ならば、なおさらに」

 嫌悪感そのもの、といった表情で優さまは吐き捨てられます。

「優さま、大事に育てられることで、美しく咲くものもあるのではありませんか」

 そうではない、と優さまは首を振ります。

「お前は荻野嬢を神聖視しすぎだろう。あれは弱い。だが同時にしたたかでもある。愛されるように振舞っているからな。そういう術(すべ)が元から身についている。俺からすれば、そのあざとさが目についてしまうのだ」

 私は己の身を振り返ります。

「あざとさ、でしょうか」

「転んでも助けてくれる、助けを求めれば必ず誰かが答えてくれる、特別な好意を抱けば、相手も必ず返してくれる。そんな幻想の中こそが、荻野嬢の生きているところだ」

 悪いがこっちは庶民育ちだ、実のないままごとには付き合う気にはなれないのだ、と優さまはおっしゃって、ふと口を閉じられました。視線が本に触れて、優さまの長い睫毛(まつげ)が目にかかりました。

「それこそ、永遠に茶会を楽しんでいる、間抜けなマッドハッターだ。同じ場所に留まって、そうやって夢の深いところを彷徨って、目覚めようとも思わない。アリスだって抜け出してきたものを、この婚約こそが馬鹿馬鹿しいお茶会そのものだと気づいていない」

 私には優さまのおっしゃっていることの半分も理解できませんでした。未だに、そのマッドハッターなる人物が出る章までたどりついていないのです。

「先に進めば、裁判にかけられ、首を斬れと喚かれる。お茶会だなんて、口当たりのよい部分までしか進まないのは、ずるいと思わないか」

 私は何も言えずに黙り込みました。

「何も言えないのももっともだ」

 優さまは静かに立ち上がりました。棚の上から紙袋を取り出しました。

「口が過ぎた。忘れてくれとは言わんが、あまり気にしないでくれ。これをやるから」

 手振りで中を開けるようにと示されます。開けてみれば、そこには一個のあんパンが入っておりました。

 私の好物でしたので、笑みが溢れそうにもなりましたが、はっと気がついたことがあって、優さまを見上げます。

「こちらをいただいてもよろしいのですか。でも、私だけそのようなことをされてしまいますのは」

「たいしたものでもない。ここで食っていけ」

 遮った優さまは窓辺を眺めて、早口にそうおっしゃいます。

「これはスミにも言っていないものでな」

 さらに言葉を付け加えて、優さまは私を恭しくソファーへと導きます。いつぞやの、私のために扉を開けてくださった姿を彷彿とさせました。

「ありがとうございます」

 私は結局座ってしまいます。

もったいない、と思ってしまったのです。優さまが私のために何かをしてくださるのなら、それだけで貴重な宝物を手にしている気分になったのです。

「美味しいです」

 優さまの前で一人食べるのは気が引けましたが、口に運んでみると、自分の顔に喜色が見る間に浮かんでいくのがわかりました。私は存外にわかりやすい人間であるようです。

「こんなに美味しいあんパン、初めて食べました」

「当たり前だ。元祖の味だからな」

 優さまが呆れ顔で正面の椅子に腰掛けました。「しかしながら、お前は食べ物でも釣れるのだな」

「はあ」

 一寸考え込みます。

「確かに食べることは好きですけれども」

「ああ。そうだろう。栗鼠(りす)が木の実を齧っているように見える」

 優さまが気を抜いたような表情をなされます。それだけでこの方の雰囲気はがらりと変わります。財閥の御子息よりは、大学の研究室で本に埋もれる学者のようです。どちらも自分にとてもご縁など望めないはずだというのに、ぐっと親しみを感じてしまいます。

「優さまが餌付けをなさっているのですか」

 食べかけのあんパンから顔を優さまへと向けますと、優さまは唇を引き結びました。

「餌でどうにかなるのか、お前は」

「いいえ」

それでも、と心の中で付け足します。

優さまにしていただいたことは忘れません。

今、このときを留めておけたらいいのに、と私は願っていました。私にとっての幸せとは、きっとこのようなささやかながらも、貴重な瞬間にこそ訪れるものでした。優さまと向かい合って、ゆっくりお話をして過ごすこと。

 私が知る中でもっとも優しい時間でした。

「優さまは栗鼠がお好きなのですね」

 ぴくりと優さまの眉が上がります。私の言葉の真意に気づかれたのでしょうか。

「ああ、そうだな。なついてくるのを待っているのだがな。お前ならどうすればいいと思うか」

 さあ、と私は空とぼけてみせましたが、口元まで持っていった紙袋を膝の上に乗せました。

「警戒心の強い栗鼠ならば、それこそじっくりと時をかけるしかしようがありません。警戒心を解くのも怖いのです。根気を持って当たられれば、いつかは」

 それこそ勝手な言い分でした。すべては私の都合のような気がして、言葉とともに下がった頭をおいそれと上げることもできません。

「俺にも時が必要だな」

 吐き出すように優さまは告げられます。不機嫌というよりは事実を確認なさっているような口調でした。

「何にせよ、時があれば」

「はい、時があれば」

 そこは黄昏と夜の狭間です。あんパンの餡の美味しさを噛み締めながら、私はたわいもない時を過ごします。巻戻せはしない代わりに、握り締めてこぼさないように。

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