第22話

一つの物語が終わるときに、この胸に残るものはいったい何物であるでしょう。その名を知ってみたく思います。

 優さまの声が「アリス」の物語の最後の一文を紡いだとき、去来したものを私は一生忘れたくはないのでした。

 優さまが一つため息をつきまして、私はゆっくりと本の世界から現実へと覚めていきます。

「終わりました」

 教本となっていた本を閉じて、私までも息を吐き出します。

「長かったけれども、どうにかこなせるものなのですね」

 手元に残った夥しい紙の束は、私が必死に優さまの講義についていった証であり、私自身への勲章なのでした。

「ああ、そうだな」

 頭に大きな手が乗せられました。子供にするように、愛おしげに撫でられて、にわかに緊張を覚えます。

「優さま」

 私は手放せるうちに、本を差し出します。

「ありがとうございました。すぐにこちらを月子さまにお貸しください」

 優さまは受け取られて、ためらいもなく本棚に戻します。そして、新たな本を二冊、取り出されました。

 今まで読んでいたものとは違って、きちんとした活字が印刷されています。二冊とも赤い布張りで美しい装丁が施されていました。金文字でこう書かれていたのです。今ならば、私にも読めました。

「Alice`s Adventures in Wonderland」

「Though the looking-Glass and What Alice Found There」

 不思議の国のアリスの冒険。鏡の中を通り抜けて、アリスがそこでみたものは。

 どちらも出てくるのはアリスです。

「今まで読んできたものは、アリスの雛形に過ぎない。現在、より多くの人々に読まれているのはこのアリスの冒険という本だ。帝国でも翻訳本が発売されているな」

 優さまの手の中に収まった二冊と、優さまを見比べてしまいます。

「こちらの本もお貸しくださるということなのでしょうか」

「そうとも」

 優さまのお言葉には迷いがありませんでした。だから、そのためか、私はまたもためらいなく頷いてしまったのです。優さまの差し出される本は、抗いがたい芳香を放つ花と同じ。私は誘われるがままに蜜を求めて、降り立ってしまうのです。

「ありがとうございます」

 私は本へと手を伸ばしますと、拍子に優さまの手を掠めてしまいます。どきりと心を波立たせましたが、気づかぬように平然と振る舞いました。

「ですが、優さま」

 ああ、早口となっています。気づかれてはいないでしょうか。

「私は優さまの本意がわかりません。なにゆえ、ここまでしてくださるのか、すべて得心がいっているわけではないのです」

 優さまは本棚にもたれかかられて、腕を組まれました。

「そんなことは考えなくてもわかるだろう。お前への貢物(みつぎもの)だ」

「貢物、ですか」

 以前に「惚れた弱み」と評されたのもそうですが、優さまがそのようなことを冗談でもおっしゃるとは思いも寄りませんでした。私は優さまの奥様や愛人や婚約者でも、ましてや思いを通じ合った恋人でもないのです。

「私に貢いでも、お返しできるものは何もありませんのに」

「ものなど期待していない。ただ、お前がこの本でわからないところが出てきて、俺に尋ねてくるのを待っているだけだ」

 優さまは、私のことを想っておられても、一切私に触れようとはなさらない。けれど、その代わり、言葉で私を落ち着かせなくさせます。今だって、頬が紅潮して、目も上げられないのです。

「ひどい方です。月子さまをお忘れでしょう」

 きりっと唇を引き結び、目をしっかとあけて、子犬のように私は唸ります。

「忘れてなどいない。だが、まあ、そうだな、お前が荻野嬢を盾にしているのはあまり気分のいいことではないな」

 私は黙りこくりました。優さまが指摘しているのは事実にほかならないからです。

「ものを与えるのは簡単なことだ。宝石でも与えてやれば、大体が感謝される」

 二冊の本を抱え直し、私は外の窓を向かれた優さまの横顔を見つめます。優さまと目が合っては落ち着かなくなってしまう私にとって、こうして忍んでそっとお顔を見つめるのがもっとも心地よい一瞬でした。

「だが、それはさして特別なことではないだろう。時間を割け、手間をかけたもののほうが忘れない。そして、知識は己の財産となる。お前を決して裏切ることはない。その知識に触れるたび、お前はそれを教えてくれた人を思い出す」

 優さまはおかしな方です。こうして一人の人として眺めてみると、常なる人とは異なったところがおいでです。こちらのお屋敷にいらっしゃる身分や名のある方々と比べても、やはり違うのです。

 優さまはまだお若いですが、大学へ進学して、軍医としてお勤めになって、留学もされてと、めまぐるしいほどたくさんの経験をなされています。その価値観やものの考え方が他人と似るはずもないのです。

 どうしてそのような方がよりにもよって使用人の私に関心を持たれてしまったのでしょうか。及びもつきません。

「目にも見えないものならば、たしかに私もあまり気後れしないでいただくことができますね。人に隠す必要もありません」

「そうとも。もらっておけ」

 横顔の頬に浮かんだものは優しさというものでしょう、優さまがどこか気のゆるんだご様子で目だけこちらを向かれます。

「わからないところがあればいつでも聞け。これまでのようにつきっきりで教えてやることはできないだろうが、手紙でも書いて扉の隙間にでも差し込めば、答えてやる」

「はい。ありがとうございます」

 私が一礼して出ていこうとしますと、ちょっと振り向けと声が飛んできました。くるりと振り向いてみせますと、一歩二歩とこちらに近づいて、手を伸ばされます。まさか髪先まで神経が通っているわけではないでしょうに、首を縮めずにはいられませんでした。

「髪が伸びたな」

「え」

 髪を撫で付けますと、たしかに切った当時よりは伸びています。肩先ほどの長さとはもう言えないでしょう。

「そうですね。長くなりました。以前の長さとは比べ物になりませんが」

「また伸ばすのか」

「はい。断髪は落ち着きませんもの。伸ばして結い上げようと思っています」

「そこまで行くのにどれほどかかるだろうな」

 優さまが皮肉の混じった笑みを浮かべます。髪を一二度触って、すぐに離されます。

「仕方がありません。自分で切ったのですから」

「俺のせいで、とは口が裂けても言わないか」

「言いません」

 私は下の床を見つめます。ああ、大きな傷が一本筋についています。

「こちらとしては、責められるほうが幾倍もいいのだがな」

「なぜです」

 顔を上げますと、優さまがぱっと顔をそらされるのが見えました。またも眉間に皺がよられています。表現するならば、困ったという表情でしょうか。まだまだお若いというのに、老けるのがはやくなってしまいそうです。

「あのな」

 ため息をつかれてしまいます。頬を掻かれて、目はあらぬ方向へと向けられておりました。

「俺とて、あのときは頭に血が上っていたとわかっているのだ。それでお前は髪を切って、怪我もした。普通なら恨みつらみもあって、荻野嬢のようにかしましく騒ぐだろうに、そうしない。そこをぐっと我慢するのがお前という女だろう。目だけは雄弁にものを語っているというのに、口には出さない」

 きっと完全に惚れてしまったときはそのときだ。お前の目線に惚れてしまった。

 私は金魚のように口をぱくぱくさせて、顔の色まで朱に染めていたことでしょう。まともにものが見えていたとは思えません。

 「惚れる」だなんて、私には縁遠い言葉のはずだったというのに。

「あの、それは」

 困るのだろう。優さまはご自分こそが困ったような顔をなさっています。人から見れば些細な変化でしょうが、使用人としてお側にいればこそわかることもございました。

 しかしながらそれは優さまとて同じことなのでしょうか。こういって私の思いを代弁されます。

「立場というものがある」

 私は静かに頷きました。

「ですが正直に申し上げますと、己の気持ちほど不確かなものはございません」

 優さまは月子さまをよくは思っていらっしゃらないかもしれないけれど、将来的にどうなるかは誰にもわかりはしないのです。あるいはおしどり夫婦となって、比翼の鳥、連理の枝ともいうべき、仲睦まじい夫婦となるやもしれません。

「お前はどうしたいというのだ」

「何も。何もわからないのです」

 優さまはさぞ苛立たれていることでしょう。私とて、自分が情けなくなりました。身分違いの恋に生きるには、夢をみてはいられないし、きっぱりと諦めてしまうには覚悟が足りないのです。

「時間が欲しいのか」

 毅然とした言葉で問われます。ひけめの多い私ですが、願っていることもございます。しゃんと背筋を伸ばして生きておられる方の近くにいて、恥ずかしくない人でありたい。私は胸に芽生えた小さな決意の芽を守りたいと思ったのです。

「はい。時間がかかるでしょうが、きっと納得できる答えをご用意いたします。優さま、どうか待っていただけないでしょうか」

 私は優さまの目を見て、はっきりと言いました。自信があるわけではけっしてありません。これはいうなれば、矜持なのです。使用人としてではなく、私個人としての矜持です。この方をけっして失望させまい。私がそう望んでいるのです。

「いいとも」

 その言葉にどれだけほっとさせられたことでしょう。私は一礼して辞去しました。

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