第18話
夕食後ではありますが、よろしければ、と優さまにカステラとお茶の入った盆をお持ちしますと、優さまは視線だけをこちらによこされたあと、ああ、わかった、と言葉少なにおっしゃいます。
「では、こちらの空いたところに置いておきます」
書類で雑然とした机の上の隙間を縫うように、カステラの小皿と湯呑を置きました。
部屋に置かれていた蓄音機のラッパのような傘の先から、しっとりとしたヴァイオリンの音が流れておりました。
「優さま」
「なんだ」
優さまが持っていらしたペンが机の上を転がっていき、書類の束にあたってとまります。それと同時に体を起こされます。眼鏡を机に置かれ、眉間を揉みほぐすような仕草をされますと、無造作にカステラを鷲掴みにし、豪快に口の中に放り込みました。
菓子のくずのついた指先を舌でなめられてからやっと私のほうを見とがめられたようでした。
「スミさんが、優さまが初詣に行かれるかどうかを知りたがっておいででした」
静観していた私ですが、ここに至ってようやく本題を切り出しました。けっして優さまのきわめて男性的な振る舞いに見惚れてしまったのではありません。私の中で思い切る努力を有したのです。
「初詣か。すっかり失念していた」
お茶をすすられて、書類に目を通されます。さして関心をもたれたようでもないようでしたので、行かれないものだと思いました。
「残った使用人たちは行くつもりなのか」
「そうですね、去年は残った者で出かけましたが、今年は優さまがいらっしゃるので、残られるのならば、誰かしら残ることとなります。ご安心くださいませ」
なるほど、と顎に手をあてて、視線は書類に釘づけです。集中なさっているので、ここはいったん下がるべきなのかもしれません。
「行くのか」
誰が、だなんて優さまは口になさることはありません。この方はいつも言葉が足りないのです。それでもその中の言葉の一つ一つがこの方の本心に裏打ちされていることぐらいは私にも気づけることでした。そして私は表面の言葉に背かず、本心に背を向けてきたのです。
「はい。佐恵子さんも行きますので、残るとすればスミさんか金井さんとなると思います。命じられれば私も残るつもりではありますが」
「お前の弟はまだ帝都にいたのだったな」
唐突に優さまが書類を放り出し、私を見詰められます。その熱情のこもったような瞳のゆらぎに胸の中が真っ白になりました。
「一緒に初詣に行きたいのだろう。お前はそう望むはずだ」
決めつけられているものだと感じましたが、それは確かに正しいことでしたので、緩慢に頷きました。
「そう、ですね。私はそうそう藪入りに帰郷はしません。弟と過ごすこともこれからそうはないでしょう」
たとえ肉親であろうとも時が経てば絆も薄れて、縁も薄れていく。目を凝らして見直せば、それは思い出というものにすり替わっているのです。ときには手繰り寄せておかなければ、私は一人きりになってしまう。それが何よりも怖いのです。
「わかった。行かないと伝えておけ」
瞳がそらされたことに、ほっとせずにはいられませんでした。
私は常通り一礼して部屋を出ていきます。動揺をみせまいと懸命に足を動かして。
ご一緒してみたかった、とはおくびにも出さないで。
「Down, down, down. Would the fall never come to an end?」
私はこの一節が大好きです。優さまのお声で語られて、その響きが好きになりました。日記に書きつけて、優さまが語ったような発音を思い出しては、掃除の時も、風呂の時も、口ずさみます。
「それ、いつも言っているけれど、なんて意味なの」
眠る前のわずかな時間に、佐恵子さんがこのようなことを尋ねてきます。口に出していたつもりではなかったので、面くらう気持ちもありつつ答えます。
「えーと。ぐんぐんぐんと下へ、下へ。その穴には果てがないのでしょうか」
良い訳ではないけれどね、と私はひらひらと手を振ります。
「誰が訳したの」
「私よ」
すごいわね、と佐恵子さんはまじめに感心したようでした。ちょっとだけ誇らしい気持ちになって、私は言葉を継ぎました。
「優さまは厳しい方だからね、訳もある程度は教えてくださる前にできておかなくてはならないのよ」
「学校の予習みたいね」
「そうね。大変だけれどやりがいがあるわ」
私には少しだけ不満があるのよ、と佐恵子さんは口を尖らせます。
「私の相手をしてくれなくなったじゃない。いっつも勉強、勉強って」
くすりと微笑まずにはいられませんでした。
「子供みたいよ、佐恵子さん」
いつだって正直に生きているのですから、佐恵子さんの心には鬱屈とした思いというものは存在しないのではないでしょうか。私が佐恵子さんを眩しく思えるのはこのような時です。
「今だけなの。今しかこんな機会は得られないわ」
自分の身に染み込ませるように言葉を紡ぎます。そう、このときしか手に入らないものを逃したくはないのだと。せめてこの時間だけは、私のものとしてみたいのだと、願っているのです。
あとで浅ましいことをしたと私は後悔するのでしょう。
「みやの考えていることはよくわからないわ」
「私でもよくわかっていないもの」
ただ、私が持つ小さな日記だけが、心の揺らぎをそのまま写しているのです。
「ねえ、それで済むと本当に思っているの」
佐恵子さんの声に突然、はりというものが表れます。私の言葉に怒りを覚えたのか、入っていたはずの寝台からがばりと起き上がる音がしました。
「今はそうでもないけれど、正月明けにはみんな戻ってくる。みやのしていることが衆目にさらされるのよ。どうみられるか、とっくに知っているでしょう。みやは賢いのだもの」
ええ。目線を書かれたノートを滑らせます。お世辞にもきれいとは言えませんが、この一文字一文字が私の努力のあり方をあらわしています。
異国の言葉を知るのは、とても楽しい。その文化の違いに触れることの喜びを、知ってしまった。きっと、いま、不思議の国を旅しているのは私です。醒めてしまう夢に浸って、面白くて心躍る夢を見ている。でも、醒めてしまってもアリスはがっかりなどしないで、笑顔で日常に帰ってしまうのでしょう。私と同じように。
「やることは簡単なのよ。みんなが戻ってくる前に、終わらせてしまえばいいのだわ」
手元の薄い本。手書きで綴られた言葉と、とても奇妙な挿絵たちがここにつまっています。冒険はとても短いのです。
「みやはそれでもいいのかもしれないわ。でも、優さまが終わらせてくださるとは限らないでしょう」
ずいぶんと含みのあることを佐恵子さんはいうのです。
「どういう意味」
「優さまもまた旦那様の子だということよ。忘れないで、あの方は、天蔵家の後継者なの。上手くやり過ごさないと、みや、あなたは」
ぐっと詰まったあと、佐恵子さんは己の体を両腕で抱いて、押し殺した声でこう囁きました。
「囲われて、もうどこにも行けなくなる」
まさか、佐恵子さんからこのような重苦しい言葉を聞くことなどあるとは思いませんでした。軽い驚きとともに、そんなはずがないと心の中で首を横に振ります。
「好かれることに越したことはないわよ」
心配性の佐恵子さんを安心させるように笑みを見せます。
「そのほうがお屋敷でやりやすいでしょう。それに近づきすぎることなんて、ないわ。ちゃんと気をつけているもの」
何よりも、決定的な一歩を踏まぬように、薄氷の上で演技をしているのです。愚かな私は、陸にあがろうとしないで、きらきらと陽にあたって輝く氷に魅入られてしまっています。
「それに全部、私の気のせいなのよ。そうに違いないわ」
そうしなければいけません。自分に言い聞かせるような言葉を口にするのとともに、私は自分の胸におのずと湧き上がってきた決意の奇妙さに苦笑せずにはいられなくなりました。これではまるで、あの方に特別に好かれているのが前提にあるようです。
そもそも自分を顧みて、あの方に好かれるところなど考えてみれば何一つないのです。やはり気のせいでしょう。私は奢って、有頂天になっていた。そうそう人の好意を勝ち得ることなどないはずであるのに。
それにあの方には美しい婚約者がいらっしゃる。今更覆らぬ事実があるというのに、怯える必要などどこにもないのです。
それなのに、私ときたら、芸人のように愚かしくも思い込んで、必死でありもしない好意をかわそうとしていたのです。一人相撲もいいところ。ああ、なんて恥ずかしい。
心配する事など何もなかったのです。私はいつもどおり振る舞えばいいのです。そう思えば気も楽になるもので、目の前の霞が少しばかり晴れていったように思えたのでした。
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