第17話

思考というものは不思議なもので、そのときはそのまま流せてしまっても、ふとした瞬間泡沫のように浮かんできたくせに、ずるずると居座ろうとするものがあります。

 かつての婚約者がどうなったのか、なんてさして気にするべきではないのは知っていますが、一度心に留めてしまうといつまでも私に何とも言えぬ苦さを味わせることとなりました。久弥に告げられたときはたしかに驚いたけれども、たいして気にしていなかったというのに。

 縁談のときに一度、結納のときにもう一度。会った回数はたった二回だけでした。それでも、結婚するとわかっているからこそ、それなりの覚悟を持つものです。この人と夫婦になるものだと、思い込むのが普通なのではないでしょうか。

 相手が決まったそのときに、他の誰かという選択はなくなってしまうのです。目の前の人を旦那様と仰ぐようになることはほぼ決まった将来の姿なのです。

 だから私も当時はこう思ったものです。ああ、この人とこれからの人生を歩んでいくのだと。気弱そうだけれども、間違っても悪いことはしない、いい人でよかった、とも。

 今から考えれば、そのときも気乗りはしていなかったのでしょう。恋人と縁談相手で板挟みとなっていたはずです。心優しいその人は、どうにもならないところまで追い詰められて、逃げてしまうしかなかったのです。

 そして、幸せになって村に帰ってきました。きっと相手は、私のことなどとうに忘れてしまっているでしょう。縁談が壊れて、思っていたことがすべてひっくり返ってここにたどり着いた私のことを。優しいから、どうしようもないから、忘れてしまった。

 責める権利など私にはありません。ただ、選ばれたことが羨ましいのです。

「もう外が暗くなってまいりました。もう夕食のお時間ですので、切り上げませんと」

 陽光の残滓が差し込むさまに目を細めます。優さまに意識が疎かになっていることに少しでも悟られぬように振舞っていましたが、そのことも優さまにはお見通しのことだったでしょう。だんだんと眉間の皺が深くなっていくのを恐ろしく思いながら、それでも丁寧に言葉の意味や解説を加えて下さるので、どうにかこうにかついていきます。

 集中できないものを無理やりしていたことから解放されて、ほっと息をつきます。

「上の空なところがあったな」

「はい」

 案の定、見抜かれていました。俯いて、頭を下げます。

「申し訳ございません。ほかのことに気を取られておりました」

 素直なものだな、と優さまはふいと横を向かれて、皮肉を込めた口調でおっしゃいます。

「あの、何かお気に障ることを申し上げたでしょうか」

「いいや」

 気に食わないわけではないのだ。優さまは壁にかけてある鏡に目を留められました。そのまま動かなくなります。奇妙に思って、よくよく鏡を見ますとその理由がよくわかりました。

 大きな鏡は映る広さも大きいものです。私が椅子に座っているちょうどその位置から、

鏡越しに、優さまのお顔がありました。そして私の姿もくっきりと。

 優さまは鏡を通して私を見、私もまた鏡で優さまを見ています。鏡を介して、お互いを見つめているような錯覚に陥りました。ぱっと顔を背けずにはいられません。鏡に映った自分の顔というのも、あまりにまぬけで惚けています。口までだらしなく半開きにしてしまって、表情だってどうしようもなくゆるんでいます。こんな顔で優さまの前に出ていたなんて。仕事中の顔は、このようなふうではなかったはずなのに。

 なんと情けないことなのでしょう。意識して、引き締めた顔をつくります。

 優さまが振り返る頃には、いつもどおりの私が映っていたはずです。

「ままならぬものだと思っただけだ」

 静かに優さまは曖昧に濁した言葉をおっしゃいます。

「お前もままならぬものだと思うか」

 何をさしているのか。優さまが示唆なさっていることは何か。ぼやかしたお言葉には同じくぼかしたように曖昧な言葉を返すしかありません。使用人として、ふさわしい言葉を。

「はい。ままならぬものです」

 優さまは喉の奥で笑います。分かっていないだろうというような自嘲が混ざっていました。

「何がままならぬのか、聞かないのか」

 声が一段と深く、低くなります。からかうようで、面白がるような甘みを含んだお声です。今まで一度たりともそのように声を出されたことはなかったのが、どうして。どくどくと心臓が早鐘を打ち始めます。今、このうえもなく顔は上気しています。光の当たり具合でごまかせることを祈るしかありません。

「お聞きしてもよろしいのですか」

 せめて平静を装って、普段の私なら聞くであろうことを口にします。

「別にたいしたことでもない。いろいろだ」

 いろいろ、と私は口の中で呟いて、言葉を舌で転がしてみます。

「これ以上、聞く気はあるか」

 直感で、首を横に振りました。

「それこそ、恐れ多いことです。使用人として分を越えすぎてしまいます」

 いいえ、きっとすでに分は越えているのです。こうやって優さまに本を読んでいただいて、たくさんのことを教えていただいている。それのどこが天蔵家の使用人というのでしょう。知っていながら、抗えないのです。

「実にお前らしいな。使用人として卒がない」

 優さまはそうおっしゃりながら、どこか不満げに唇を引き結びました。

「だが俺の望む答えではなかった」

「申し訳ございません」

「使用人はすぐに謝るものだな。そうやって謝り癖がついていくのか」

 意地の悪いことをおっしゃいますが、私にはその真意がどことなく読み取れてしまうのです。おそらく優さまが望まれたことは、使用人としての答えではなく、私個人が興味津々に、はい、とお答えすることだったのではないでしょうか。

「旦那様方にご不快な思いをさせましたら、頭を下げるのは当然のことです」

「俺が不快な思いをしているように見えるか」

「はい、恐れ入りますが、そのようにお見受けいたします」

「お前のせいだな」

 外がだんだんと闇に沈んでいく中、優さまは私の瞳を捉えます。それに受けて立つように、しっかりと見返したあと、頭を下げました。

「はい。申し訳ございません」

「ずるいものだ。謝れば許される。謝るのを禁じてやれば、すこしは変わるだろうか」

 どのように変わることを望まれるのですか。私は心の中で問いかけます。口にすれば、それこそ我が身が破滅しそうに思えるからこそ、口ではなく、目で訴えるのです。

 何もお答えしないでいると、優さまもまた何もおっしゃらないままです。それなのに、出て行けとも言われないのです。窓の外のみで時間が流れているような閉塞感が漂ってくるように思えました。まんじりとして動けないのです。

 優さまが私の答えを求めていらっしゃるのはわかっています。ですが私はお答えするわけにはいきません。でくのぼうのように黙って待つしかありませんでした。

意地と意地がぶつかり合って、その終焉はやはり優さまでした。

「もう時間だろう。早く給仕の手伝いにでも行け」

 かくして私は優さまから解放されましたが、それは灰色の味気ない勝利に違いありませんでした。




 食卓につかれた優さまは黙々とお食事を済ませます。控えている私たちはそれを眺めるほかは、壁際に立つばかりです。

 旦那様も口数の多い方ではありませんが、食卓につかれた時は、スミさんや金井さんと二言三言は言葉を交わしておりました。まして今優さまは一人でお食事をとっているのを見ますと、やはり寂しいもののように映ります。優さまご自身はそのようなことを思っているとは思えないことですけれども。

「優さま、明日のご予定は何かありますでしょうか」

 スミさんが穏やかにこう尋ねるにあたって、重苦しい食卓がようやく和らぎました。

「仕事を片付ける以外は特にないな。外出の予定もない」

「かしこまりました」

 優さまは軽くワインを含まれます。杯が空になるのと同じく、立ち上がって食堂を出て行かれました。

 目が合わなかったことに胸をなでおろします。

「では食器を持っていきます」

「ええ、頼みますよ」

 私と佐恵子さんは両手で食器を持って、隣の厨房の流し場に置いて、洗います。調理台の上を見れば、私たちの賄いもすでに四人分用意されていました。年末年始も料理長は通ってきますが、ひけるのが早いのです。

「食堂の片付けが終わったら、私たちも食事を取りましょう」

 こちらを覗いたスミさんがおっしゃった言葉で、私と佐恵子さんは顔を見合わせます。

「はい」

 二人して声を出して、二人して笑みをこぼします。

「今の時期って、ほかの子たちがいないから、洗い物も楽なものだったのね。こんなふうに人が少ないのも貴重な気がするわ」

「そうよ。居残りみたいだけれど、こうやって屋敷で静かに年を越すのもいいものだわ」

 佐恵子さんの言葉に相槌を打って、手早く洗い終えてしまいます。

 賄いは使用人棟に持って行きました。

 席についてまもなくスミさんと金井さんがやってきます。

「あら、先に食べてもよかったのですよ」

 いつ戻ってくるかわからないでしょう、とスミさんがおっしゃるのを、私は笑顔で首を振りました。

「いまちょうど食べようとしていたところです。それに賄いの洗い物もまとめたほうがよろしいかと思いまして」

「それもそうねえ」

 スミさんが席に着き、金井さんも座ります。

「スミさん、細かいことはもういいじゃないか。あまり人もいないことだし、少しぐらい甘くたっていいさ」

 金井さんは旦那様がいらっしゃる前では大変毅然とした態度で臨んでおられる方ですが、私たち使用人の前では柔らかくなる方です。おそらく根は穏やかな方なのでしょう。

「いただきます」

 あらかじめ使用人棟でお米を炊いておいたので、お櫃のなかのご飯はかろうじて温まっています。お汁も温め直しておきましたので、喉奥に熱さが染み入ります。

「そういえば今日、旦那様から電報が届いていたよ。主に仕事のことを聞いていらしたけれども、お屋敷にも特に変わりないと返しておいたよ」

「ええ、それでよろしかったと思いますわ。年の瀬が迫るばかりですよ、こんなときにそうそう大事が起こってはたまりません」

 使用人がこの場に四人しかいないからでしょうか、金井さんとスミさんの雑談も気の抜けたものとなっているようでした。

 去年もそうだったのですが、ごく少人数でお屋敷を切り盛りしていますと、常にはない一体感というものが芽生えてまいりまして、思いもよらぬ幸運が巡ってくるのです。少しだけ豪華な夕食をいただいたり、いつもより親しくお話させていただいたり、と天蔵家の使用人としてやりやすくなったりするのです。

「ああ、そういえばみやは弟と会ったそうだね。なかなか里帰りしないのだから、今のうちにたくさん会っておきなさい」

「はい。お気遣いいただきありがとうございます」

「今日朝に訪ねてきたのを見ましたが、なかなかしっかりした子のようでしたよ」

 そこまでおっしゃったスミさんはふと、あらまあ、と何かに気づいたようなお顔をなさいます。

「そうでした、お土産にカステラをいただいたのですよ。このあと、切り分けてみなさんで食べてしまいましょう。みや、優さまにはあなたが持って行きなさい」

 止まりかけた箸に目を留め、なめらかにおかずをつまみます。

「わかりました」

 ねえ、みや、と隣の佐恵子さんがこちらを向きました。

「弟さん、出発前にまた挨拶にくるのでしょ。私にも挨拶させてね」

「うん。そうね」

 はたと気づきます。初詣のことを今のうちに言わなくてはならなかったのでした。

「あの、実は初詣のことなのですけれど、弟と行ってきても構わないでしょうか」

 おふたりは考え込まれている様子でした。佐恵子さんが声をあげます。

「差し支えなければ、私も一緒にいってきてもいいですか」

 スミさんが思案げに息をつきます。

「そうねえ、今年は優さまもいらっしゃるし、みなで初詣とはいかないでしょうしねえ」

「優さまは初詣には行かれないとおっしゃっていたのかい」

 金井さんがそう尋ねますと、スミさんは首を振ります。

「いいえ、まだです。一応お聞きはしますが、屋敷に残られるでしょう。そうなると、お留守番が必要になりますわねえ。みや。カステラを持って行く時にお聞きしておきなさい」

「はい」

 食べながら、考えずにはいられませんでした。優さまとお話する楽しさと苦しさの両天秤はいつだって、苦しさの方が優っています。それでも逃げられないで、立ち向かうしかないままならなさというものを。優さまと違う意味であれ、私もまた、ままならぬものがあるのです。

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