第19話
一月一日は、厳かに幕開けました。東の空から、神々しい初日の出が、すべてを清めるような優しい光を降り注いでいるのです。
「あけましておめでとうございます」
今日は特別に日の出前に起きなくても良いとスミさんから伺っておりましたので、太陽が顔を見せるころまで眠っておりました。このように怠惰な朝を迎えたのは久方ぶりのことです。目覚めたところ、ちょうど佐恵子さんも眠気まなこをこすりながら起き上がってきたところでしたので、改まって互いに新年の挨拶を交わします。
昨日は除夜の鐘が鳴り終わるまで起きておりました。金井さんやスミさんが珍しくもお酒を嗜まれていたので、そのお酌をしたり、お夜食をつくったりとハメを外された夜でした。優さまは鐘が鳴り終えた途端に眠ってしまったのだとお聞きしています。別荘にいらっしゃったのなら、旦那様とともに神社に参拝なさっていたでしょうが、今年はそういうわけにはいかないのでしょう。
使用人宿舎の廊下でスミさん、金井さんとそれぞれ行きあうと、これまたやはり格式張った挨拶を交わします。
「あとは優さまね」
「ええ。もう起きていらっしゃるかしら」
このようなことを言い合いながら、優さまのお部屋の前につきます。この時間ですから早くお眠りになった優さまならとうに起きていらっしゃるはずです。
しかし、扉を叩いてもお返事はありません。
「まだ眠っていらっしゃるのね」
佐恵子さんが呟きます。声が低くなるというのも、眠る優さまを起こさぬようにという配慮でした。
「そうね。私たちが起こすわけにもいかないし、またあとにしましょう」
私たちは扉に背を向け、去ろうとしました。私はそのさい、偶然にも窓の外を一瞥したのですが、そこに優さまを見とがめましたので驚きました。
「佐恵子さん、あそこにいらっしゃったわ」
え、と佐恵子さんも驚いた様子で私の視線の先に目を凝らします。
「あら、たしかに。後ろ姿だけだからちょっとわかりにくいけれど。みやはよくわかったわねえ」
優さまは庭の木立の中に消えていくところでした。防寒のわた入りの羽織は来ていらっしゃったようでしたが、まだまだ今の時間は寒いものです。風邪をひかれてしまわれては大変です。襟巻きもなさっておりませんでした。
「何か暖かくなるような防寒のものを持っていったほうがいいのかしら」
「さあ。私は一瞬しかみていなかったのだもの」
外は寒いからイヤねえ、なんて佐恵子さんはぶるりと震えてみせます。
「佐恵子さんに行けだなんて言わないわよ。気がついてしまったのだもの、私が行くわ」
私が小さく笑ってみせますと、佐恵子さんの顔がゆるみます。
「すぐに戻ってきてね。仕事はたくさんあるもの」
「わかっているわ。迷惑はかけない」
少し急ぎ足になって、宿舎に取って返します。部屋の中に目的のものを見つけてひっつかんで、優さまのあとを追いました。
木々を縫うように続く道を辿っていきます。ふと秋のころを思い出します。雨の中、差し出されたこうもり傘のことです。あのころは木も華やかな衣を身にまとっていたものでしたが、今はすべて落ちてしまっているものも多いです。
視線を巡らせながら、あたりを彷徨っていますと、優さまの大きな背中が見えてきます。からんからんと軽い下駄の音が寒空に響きます。私が見ている間にもゆっくりと歩まれていきます。
朝日はくっきりと見えていたというのに、いつのまにか雲が薄く空に覆っていました。
「優さま」
あの方は私の声をしっかりと聞き取られて振り向かれます。
「何か用か」
優さまの息が白いことに私は新鮮な心地になりました。この方も、私と同じように生きていたのです。
「いいえ。ただ、外に出られるのなら、もう少し厚着をなさってください」
私のもので恐縮ですが、と私は自分の襟巻きと手袋を差し出します。優さまのお部屋のものを勝手に拝借するわけにはいきませんので、こうするしかなかったのです。
これを拒まれても仕方がありませんが、気がついていて何もしないというのは使用人としての良心が咎めるのです。
優さまは私の手元を眺めたと思ったら、ふいと背けられます。
「人のことを心配するよりは、自分の格好を鑑みるべきだろう」
すぐにその意を察して首を振ります。
「私はいいのです。すぐに戻るつもりでしたから」
「俺は大丈夫だ。その辺を散歩して戻るだけなのだからな」
大丈夫と言われてしまえばこれ以上はただのお節介というものでしょう。それよりも寒さが身に堪えてきました。
「お前がつけておけ」
つけたら、少しだけついてこい。優さまはそのように続けられました。私に断る事などできません。おとなしく、襟巻きと手袋をつけて後ろをついていきます。
優さまが足を止めたのは小さな祠でした。大掃除の際には使用人もここをきれいにしましたので存在は知っていました。しかし、まさか優さまがここにまっすぐに向かわれていたことなど思いもしませんでした。
しゃがまれて、手を合わせる優さまにならいます。
下駄が地を擦る音が聞こえたころに、そっと閉じられた眼(ま)蓋(ぶた)を開きます。
立ち上がれば、ちょうど私を待っておられるかのように、優さまは両腕を互いに袖にいれたまま、近くの木立を眺めながら立っております。
「お時間をおかけしました」
「そうでもない」
優さまは来た道を戻らずに、ふらりと別の道へと入っていかれます。
葉が落ちた木もあれば、冬にも目が覚めるような緑を纏った木々もあります。どれもよく庭師によって剪定されたものです。天蔵家らしい威風堂々とした佇まいをされています。
この庭は季節折々によって、道沿いに見せる花は様々となるよう取り計らっております。視覚を楽しめるような鮮やかなものもあれば、歩く中に埋もれたように咲く花にも目を留められるようにも工夫されているのです。
優さまはその道からも外れてしまいます。
塀にも近い庭の片隅に、赤い椿が咲いておりました。木々が生い茂っているように作られた庭であったはずなのに、その一角だけはこの一本の椿の他は芝生ばかりが広がっています。椿が島とすれば、芝生は大海でした。ならばぽたりと落ちた花の一つ一つは何と例えるべきでしょうか。
「ずっと思っていたのですが」
ぽつりと本音を零します。優さまが答えてくださらなくてもいい、私の独り言です。
「このお屋敷で、椿は一本だけです。その一本はこうして隠されるように、それでも目立つように植えられております。思えば、不思議なことです」
濃緑の葉は風にも強く、私の短い髪が揺らされていても、震えているように見えるだけ。これが椿だと気づいたのは、赤い花をつけたあとのこと。去年の冬のことです。
「父はこの花を好んでいるからだろう。だが多くを植えても興ざめなだけだといい、一本のみを植えて、散っていくのを楽しんでいるようだ」
優さまはそうおっしゃいながら、その木に近づいて、こぼれ落ちている花を見つめられます。今、何をお考えなのでしょうか。私は遠くに控えながら、ぼうっとしておりました。
すると、赤い花がぼとりと落ちました。重い椿の花は頭を垂れて、やがて耐え切れなくなってしまったのです。
「潔く落ちるものだと思わないか」
優さまは椿がお嫌いではないのでしょう。饒舌になられているようでした。
「潔すぎませんか」
椿の木と、落ちて色あせていく花の様子はまったく潔いとしかいいようがありません。
「椿の花が落ちるさまは、武士が頭を落とすのと似ているという。我々は庶民だからな、そう思うこともあるだろう」
我々、などと優さまは一括りになさる。優さまは私との間に横たわっている溝の大きさに気づいておられないようでした。
「嫌いなのか」
優さまの瞳がすうっと細められたような気がいたしました。観察されていると思いますと、落ち着いてその場にいるのも辛くなってきます。優さまは私の本意を探っておられるかのようです。
でも、そのようなことをしても何の意味があるというのでしょう。優さまが私に特別な関心を抱かれていなければありえないことです。それがどのような種類であれ。
昨夜の結論が揺るがされるのを感じて、私は固く唇を噛みました。そのようなこと、あっていいはずがないのだと、心の中で念じます。
「いいえ、好きです。真っ赤で、華やかで」
私は正直に申し上げます。
でも、腐り切る前に自ら落ちる。私には決してありえない道なのです。きっと私が椿を見るときに感じるのは羨望でしょう。こうやって愚図愚図と思い悩むばかりで何も前進していないどころか、中途半端で立ち止まっている私と比べ、椿はとても潔いのです。
「優さまは椿がお好きなのですね」
我が意を得たりとばかりに、優さまはわずかながら喜色の混じった表情をなさいます。そのお顔のなんと魅力的なことか。皮肉めいた笑顔ではなく、子供のように気を許したお顔をなさっている。この場には、私一人しかいないというのに。
「お前と同程度には好きだな」
私は鼓動が跳ねて、じんわりと熱が上へと伝っているのを感じるしかありませんでした。
それは私が椿を好きな気持ちと同じなのか、優さまが私に抱いている好意の程度と同じなのかわからないではありませんか。
「そのような曖昧なことをおっしゃって」
優さまは芝生の上に舞い落ちた椿を一つ取り、私の掌の上に落とします。まだ落ちたばかりの瑞々しい赤の輝きに目を奪われます。その花は霜が溶けかかって、きらきらと光ります。
きっとこの椿は雪が降った時がもっとも美しいでしょう。芝生の絨毯よりは、雪の方が赤に映えるでしょうから。
「お前はその曖昧を望んでいたのだろう」
優さまはとうとう踏み入ってこられた。濁していたことが露になっていく。その声が存外に静かであったことは思いも寄りませんでした。
「はい」
私は何を間違っていたのでしょう。この、落ちる寸前の椿に似た関係はたやすく壊れてしまうものであったというのに。
「これからも望んでおりました」
手の中の椿は今もまだ朝の中で呼吸しています。冷たい空気の中に暖かな光が射すことの優しさは代え難く、今もこの庭を照らしています。
「やはり気づいていたか。そうだろうとも、お前が気づかないはずがない。仕事にしても、神経を張り巡らせているのだからな」
優さまも、私が気づいていたことに気づかれていたのでしょう。それでいて、これまで踏み込まないでいてくださったことも、優さまが気をつかってくださったことの表れでしょう。
「よく、見ておられたのですね」
「それも気づいていただろう」
「はい」
優さまの視線に気づいて、目をそらしたこともありました。それとなくやってのけたものと思っておりましたが、甘かったようです。
「嫌な女だな」
優さまは喉の奥で笑われます。
「これが一番丸く収まる方法だと思っていたのです。現に優さまはそうしてくださった」
私は掌におさまる椿を見つめ続けています。優さまがどのような気持ちでおっしゃっているのか気づかないように。
「猶予はなくなった」
年が改まったからな。優さまの口調ががらりと変わります。静から動へというような感情がにじみ出てきます。この方は、ここまで心情を吐露なさる方だったのでしょうか。
「俺にも、お前にも忙しい年になる」
「確かに、忙しい年になるでしょう。まだ日取りは決まっていなくとも、月子様とのご婚礼がある年となるのですから。使用人として、忙しく立ち回ることになるのでしょう」
月子様は、優さまとの将来を夢見ていらっしゃる。
「そういう意味で言っているのではないと知っていて、そう耳に痛いことばかり言うのか、その口は」
優さまは閉口なさって、私の口をつまんで引っ張ります。寒いというのに、ここまでされてしまっては、痛みも尋常なものではありません。解放されたとたんに口を手で覆って、優さまを見上げます。その唇は可笑しそうに緩んでおりました。
「こうまでなさる必要はなかったのでは」
「すぐに逃げようとするお前が悪いのだ。もう観念しておけ」
優さまもごぞんじではありませんか。私は静かに首を振ります。
「外に出て働く女というものは、世の中の風を知っています。数年前の私なら、何も考えずただ嬉しがるばかりだったでしょう。今ならば、そう思うことの危うさにも気づけます」
「そうだろうとも。耳にするだけで、女中と家の旦那などの色恋沙汰などには枚挙の暇もない」
優さまはまさにその核心をつかれます。そう、私たちの関係など、まさに「女中と家の旦那の色恋沙汰」にほかならないのです。口さがない人々に噂される類のもの。しかしながらまだ表に現れないだけですでに中はつまっています。
「私も噂に聞くこともありました。ですが、誰だって自分がその人に成り代わるなどとは思ってもいないものです。そして、優さまがそのようなことをされるお方だとは思いもよらないことではありませんか」
「ああ、愚かなことだな。俺は阿呆の阿呆、真性の阿呆になってしまったのだと思うことにしている。どうにかしているのだ」
優さまは何か面白いことにもいきあたったかのようにくく、と低く笑います。
「今の今になって、気づくこともあるようだ」
優さまの瞳が熱っぽいように思えるのは私の気のせいでしょうか。私はそっと目を伏せました。
「優さま、何も私でなくてもいいではありませんか」
「俺である必要もないはずだな」
まるでとっくに私が優さまをこの上もなく慕っているようではありませんか。
当たらずも遠からず。否定すればするほど、嘘だとわかってしまうでしょう。
「やはり、ままならぬものじゃないか」
「そうですね」
以前とは違って、心の底からそう肯定することにためらいはありませんでした。
「あの、一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「なんだ」
「どうして、本を貸してくださったり、わざわざ言葉まで教えてくださるのですか」
優さまは私の手の中で眠る赤い椿をつまみあげます。あっ、と声をあげる私を横目に眺めすがめつ、自らの掌に収めます。
「惚れた弱みというやつにほかならないのだろうな」
私は惚けておりました。視界に映る赤さのみに心を奪われて、優さまの骨ばった男性らしい手をも見つめてしまいます。
「だが必ずしもそれだけではない。学問には、求めれば等しく機会が与えられるべきだと思う」
他国の文化に触れることはきっとお前にとって有益になる。優さまはそうおっしゃるのです。
「言葉を知ることは、他の国の人々の考えを理解するのにも役立つ。いつまでも向上心を持つべきなのだ、お前のように」
「優さまは私を買いかぶりすぎです。そのようなこと、思ったこともございません」
「それなら、俺の目は節穴になったのだろう。ありがたく受け取っておけばいい」
「やるならば、徹底的に、と」
「そうとも」
我が意を得たり。優さまはそう言いたげに頷かれます。
「愚かでないお前なら、そうそう軽はずみな誘いには乗らないだろう。読みたい物語があったから乗ったのだということはとうに察しはついているからな」
私が読みすすめている一冊の本。確かに、あの本を読みたいと思わなければ。
そもそも目に留めなければ。
私は数々の軽はずみな行動をすることもなかったのかもしれません。
「いいえ。私は、愚かなのです」
かつて、佐恵子さんは私を賢いと評しました。でもそんなことは決してなかったのです。完璧な使用人には程遠く、私は隠しておくべき、偽らざる言葉まで口にしています。
優さまの持つ赤い椿。今もまだ瑞々しいのを私はいまだに見つめ続けています。
「優さま」
すでに体の芯まで冷えてしまいました。襟巻きと手袋をしたところで、コートも着ていないのですから。ぶるりと体を震わせます。優さまだって、同じでしょう。
「お願いいたします。これ以上は、もう」
おやめください。日々の平穏をわざわざ乱すことはないのです。その思いをにじませて、私は優さまを見上げます。
「そうできたなら」
優さまは熱い息を漏らします。空気が白く染まりました。
「俺はこんなことをお前に告げたりなどしなかった」
優さまは嘘などおっしゃらない。その真摯な言葉が耳朶を打ったとたん、私は逃げ出したいのをぐっとこらえました。
「なあ、お前の弟は、本当にお前の弟なのか」
唐突に話を転換されたことに戸惑いを覚えます。優さまは至極真面目に聞いておられるようでした。
「と、言いますと」
私はほっとしつつ言葉を継ぎます。
「血がつながっているのかと聞いている」
答えを申し上げれば、と私は前置きをします。
「はい、ということになります。ですが、実の弟ではありません。私と久弥はいとこ同士なのです」
「なるほどな。得心した」
優さまはあまり嬉しくなさそうに相槌を打たれます。眉間に皺がよられたまま。私の発言が気に障ってしまったようです。
「あの、それが何か」
「教えん」
「そうですか」
私がなんとなしに優さまの顔を見つめ続けていますと、優さまは焦ったように歩かれます。
「優さま、次回からはちゃんと防寒なさってください。私ども使用人とて、万能ではないのですから」
「わかっている」
私が優さまの横に出ますと、優さまは私に合わせるかのように歩調をやや緩めました。
「こうやって静かに元旦を迎えるのもいい。普段が喧騒にあふれているとことさらに」
優さまのお仕事はとてもお忙しく、多くの人びととの関わりが必要なようで、このお屋敷にもひっきりなしに来客があります。そして私たち使用人の存在もまた、優さまの周囲をとりまいております。
「そうですね。それに人が少ないと、その分、近しくなれるような気がいたします」
優さまは何を思われたのか、またも椿を私の掌に握らせます。いったい、優さまはこの赤い椿の花をどうなさりたいというのでしょうか。
「違いない。おかげで馬鹿なことをしでかそうとしている」
はっとして、優さまの静かに凪いだ面差しを見上げて、その色を伺います。ですがそのはっきりとしたものが浮かぶ前に、こうおっしゃったのです。
「お前が初詣に行くことは俺が許さん。ここにいて、世話を頼むからな」
「優さま」
私は抗議の声をあげましたが、ずんずんと下駄は大股に遠くに離れていこうとします。
「時間がないのだ。三日までにすべて読み終えるのだろう、お前に正月などないと思っておけ」
暴君のようなことをおっしゃった優さまでしたが、それでいて、私よりも堪えた顔をなさっているのも優さまでした。まるでご自分のわがままだと頭からわかっているかのように。
だから、私はこれ以上、何も言うことはできなかったのです。
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