第14話
「明日なのですが、夕方まではお暇をいただくことになっておりますので、ご不便をおかけしてしまうと思いますが、よろしくお願いいたします」
「用事か」
眉一つ動かさず、机から目を離さず、優さまは言葉短くそうおっしゃいました。
「はい」
優さまの読んでおられた書類が四隅まできちんと整えられました。体を起こして、こちらを見ます。
「それは、大事なものだと思って、差し支えないのだろう」
はい、と私がきっぱりと答えましたので、優さまはそうか、と特に何かをいうことはございませんでした。
「お前が帰りしだい、ここに顔を出すように。先ほどの続きからだ」
優さまの手が机にある本に置かれます。白いうさぎを追いかけて、地下の国に迷い込んでしまった少女、アリス。この子はみやの周りにはまずいない、ちょっと変わった子です。誰もいないのに一人でしゃべり続けてしまうし、チョッキを着た白うさぎが人の言葉をしゃべりながら通り過ぎたって、別に変だとは思いません。それどころか興味を惹かれて、追いかけてしまうような、大胆不敵な女の子なのです。
「はい。続きが楽しみです」
アリスは地下の国でも自由に動き回ります。そこにいる生き物たちにいくら振り回されようと、彼女の持つ色は何ら輝きを失われないのです。アリスの冒険に心奪われないはずがありませんでした。
「文型は大体教えたはずだ。夜にでもさらっておけ」
優さまが視線を彷徨わせます。戸惑っているのだとなんとなく察せられました。
「だから、そこまで嬉しそうな顔を見せることもないだろう」
前も同じようなことを言ったな。優さまはそう言って、一番上の書類を手に取られます。
私は慌てて表情を作り直しました。
「失礼いたしました」
「失礼ではないだろう。どうしようもなくさせられるだけだ」
私は優さまがこちらを見ていなかったことに感謝しました。優さまがもし、私を動揺させるものを映した瞳を向けてしまっては、それこそどうしようもなくさせられるのです。
優さまの危うさにははらはらさせられます。この方の発言はさらさらの絹のような肌触りであるはずなのに、しみ込んだ水の冷たさにどきりとさせられるのです。
「申し訳ございません。最近は」
と、ここで私は自らの口を閉ざしました。これ以上は、余計な言葉というものです。踏み越えてはならない分というものを、この時私は確かに感じていました。日頃から使用人として、この言葉はふさわしい、ふさわしくないなどと自分で取捨選択をしているものですが、なかなかどうして、今回ばかりは危うく取りこぼしそうになってしまいます。口をついて出てきそうになる言葉はどれも言い訳めいていて、馴れ馴れしく、ともすれば心まで卑しい女のように媚びているようにさえ聞こえるものばかりです。
「利口な判断だな。使用人としてはそれ以上言わないほうが賢明だろう」
正しいという口振りであるはずなのに、優さまはまったくそれが不満であるかのように眉間の皺を深くされました。
「いや、やはり気になる。続きを」
たまらず私は顔を伏せました。優さまらしからぬお言葉でした。優さまは私を気にかけすぎておられます。その意味を突き詰めて考えてみれば。私は途方もない泥沼にはまり込む気がしてならないのです。
「優さまのお心に留め置く価値もない、ささいなことです。ご容赦ください」
「弱音は吐き出さないとは。立派な心がけと褒めてやりたいところだが」
優さまの唇が一文字に結ばれ、すぐにほどけていくのを私はその目で見ていました。
「天蔵に仕えるならば、主に合わせることも必要なのではないか」
「そうでしょうか」
私は即座に否と申し上げます。言っておきながら、なぜ自分がそう反論できたものか、不思議でなりません。
「どうしてだ」
優さまは興味深そうに私を見上げます。特に確固たる理由を持って口を開いたわけではありませんので、その場で懸命に頭を働かせました。どうして、そう言ってしまったのか。私は自問自答を繰り返します。
「主に合わせるのは、もちろん最上のこととは思います。ですが、仕える旦那様のすべての望みを叶えることとは違うのではないでしょうか」
我々にもここにお仕えしているという矜持がございます。
優さまは私の話に耳を傾けられているご様子でした。
「私が弱音を吐くことはそれに反します。優さまにお聞き苦しいことを申し上げるわけにはまいりません。どうか、お聞き届けくださいませ」
深々と頭を下げてみせます。私はなんと愚かしいことか。何事もなくやり過ごす術をとうに身につけているはずなのに、この期に及んで逆らっているのです。自分の意思で頭を上げているというのに、それをもたげて、優さまのお顔を真正面から拝見することができないものかと期待しているのは。
「困らせるつもりではなかったのだがな」
幾分か声を落とされて、優さまはそうおっしゃいます。それこそ、自分が困っている、というような声色でした。
「とりあえず、顔を上げておけ。俺は使用人であれ、そうそう頭を下げられてはたまらないのだ。何を考えているのかわからんからな」
「そうなのですか」
私があまりに反応よく顔を上げたせいか、優さまは声を抑えて笑っておられました。まるで子供のように顔をくしゃくしゃにしています。その滅多にお見せにならない笑顔が、その見えない手で無遠慮に私の心をかき乱していくのを、私は確かに感じていたのです。
弟はわざわざ使用人宿舎の方まで迎えにきました。
坊主頭に近い短髪に、それに乗っかっている制帽。黒い学生服は少しよれているように思いましたが、きちんと清潔にされています。弟は以前と変わらぬ姿でしたが、ただ、背ばかりはだいぶ差がついてしまいました。もう、私の頭などは弟の肩にも及びません。男性でいっても大柄ではないでしょうか。
「久弥」
少年というよりは青年といってもいい格好になった弟が照れくさそうに手をあげます。外の寒さのせいか顔に赤みが差しています。
「久しぶりね。高等学校進学おめでとう」
「うん。姉さん」
襟巻きに顔をうずめながら、久弥はこくりと頷きます。
「せっかくここまできたのだから、スミさんにご挨拶していって。確か今はこちらにいらっしゃったはずだから」
「うん。そのつもりで来たんだよ」
そこへ折よくスミさんが通りがかりました。私の横にいる久弥を見て、破顔されます。
「まあ。あなたが久弥さんですか。みやから聞いていますよ」
私の上司にもあたる老婦人の丁寧な応対に、久弥は面食らったのでしょう。一瞬どもってしまったのを、私は苦笑いしてしまいます。
「ど、どうもはじめまして。突然お邪魔して申し訳ありませんでした。こちら、つまらないものではありますが、カステラです」
スミさんは微笑ましげに風呂敷を受け取りました。
「いいえ。まあ、カステラですか。嬉しいですわ。私たちの職業は甘味が不足しているものですから」
「そうですね。ありがとう、久弥」
ううん、たいしたことでないさ、と久弥は口ごもりながら首を振ります。
「年越しは帝都で過ごすと聞いたけれど。今どこに泊まっているの」
「高等学校で知り合った友達の兄という人が帝大に通っていて。その下宿先にご厄介になってる。心配しなくてもちゃんとやっているよ」
「そうなのね。ちゃんと行儀よくしているのよね」
「当たり前だよ」
弟を持つ姉の性というものでしょうか、子供の頃は散々とわんぱくな様子を見ていたものですから、大人に近づきつつあると知っていても、不要な心配ばかりしてしまうのです。弟は苦笑いで応えます。
私は手早く羽織と襟巻き、手袋を身につけて、スミさんに目礼いたしました。
「では、出かけてまいります」
「ええ、いってらっしゃい。日暮れ頃には帰っておきなさい」
「はい」
スミさんの穏やかな顔をあとにして、私と弟は帝都を歩き始めました。
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