第13話

暖かいご飯とお味噌汁の味にほっといたします。よく食べ過ぎていて飽き飽きしていた漬物も今日という日は一段と美味しくいただけます。

「ほら、私のもあげるわ、ちゃんとよく噛むのよ」

 隣にいた佐恵子さんがぽいぽいと私のご飯にまたお漬物をのせていきます。さすがにもう呆れて佐恵子さんの、私を気の毒に思っているように装っている顔に抗議します。

「自分が嫌いだからって、親切な顔して体よく押し付けるのはよくないわよ、佐恵子さん」

「やっぱりここまで来るとばれてしまうのよねえ」

「気づかないのがおかしいほどあからさまなのがいけないわ」

 佐恵子さんの好き嫌いも今になって始まったことではありませんが、こういう時改めてため息をつきたくなるところです。

「でも、私、本当に良かれと思ったの」

 佐恵子さんは唇を尖らせます。

「学校卒業したというのに、また勉強しているらしい友人を気にかけているの、これでも」

 そこまで顔に疲れが出ているでしょうか、己の頬を抑えて、首をひねります。

「仕事終わりの方はどうにも気が抜けてしまうのかしら」

「そうでしょうよ」

 佐恵子さんは澄ました顔で食事を平らげていきます。私よりも遅く食べ始めたというのに、早いことです。

「ごちそうさまでした」

 立ち上がって食器を片付けに行きます。すると、それと入れ替わるようにスミさんがやってきました。

「あら、そういえばもう夕飯の時間でしたね」

 ちょうど今思い出したように、用意された食事を眺めます。

「はい。まだ温かいうちに召し上がってください」

「金井さんは」

「すでに召し上がっておられました」

 それならいただきましょう、とスミさんは私の向かい側の席に着きました。皆が皆、同時刻に食事をとってしまえば、優さまに用を申し付けられた時にすぐには動けないのです。

 スミさんは手を合わせたあと、ゆっくりと食事をなさいます。箸の使い方一つ一つはとても私などより洗練されておりました。座った姿もやはり一本筋が通っているように見受けられます。普段はこのようにスミさんと食事をともにすることはありませんので、目新しいものは何もないというのに新鮮な心地がいたします。

 私が食事を終えて食器を持っていくと、洗い物をしていた佐恵子さんにひったくられました。私がやっておくから早めに休んでおきなさい、と親切心なのか、そう言われてしまいます。好意は素直に受け取って、私は湯呑にお茶二杯をいれると、食堂に取って返しました。

「お茶をどうぞ」

 ありがとう、とスミさんはほんの少し目元を和ませました。このようになさっていると良家にお仕えしている優しい老婦人というように見えてきます。てきぱきと物事を指図するのではなく、もう一歩引いて、みんなを見守るような立場で微笑みながら、過ごされるような方に。スミさんはすでにもう引退なさってもいいお年なのです。

 箸が机に置かれる音がしました。食事を終えたスミさんが改まった様子でこう切り出しました。

「みや。つい先ほどまで優さまとお話してきたのですが」

 私にはスミさんがこう切り出すわけをすでに知っておりました。遮ることもできず、私はその続きを待ちます。

「優さまがあのようなことを頼まれるなんて、夢にも思いませんでした。優さまはあなたを大層買っておいででしたよ」

「あのようなこと、ですか」

 スミさんが何を思っておられるのか、その表情から伺い知ることはできませんでした。いいえ、私自身が知りたくなかったのです。私のしていることは、私が一番よく知っているのです。スミさんの手が湯気をたてた湯呑に伸ばされていくのを私は見つめていました。

「ええ。これからの時代女にも教養が必要だ、舶来の書物に興味がありそうなので仕込んでみることにした、とおっしゃって」

「見て見ぬふりをしろ、と」

 私はあとを引き取ってそう付け足します。スミさんは頬に手を当てて、困ったように息をつかれます。

「そう。あの方は気づくのが遅いのです。土壇場になって、目移りしてしまう。ご自分の行動の不自然さに、長年お仕えする私が気づかないはずがないでしょうに。おそらく、旦那様もとうに気づいておられるでしょう」

 旦那様が、と私は疑問の声を上げかけて、納得します。旦那様ならばすべてを見通されていても不思議ではありません。天蔵家を一代で大きくされた旦那様は人並み優れた眼力をお持ちだということは皆が知っていることです。そうでなければ、裸一貫同然でここまで財閥を大きくされることもなかったでしょう。表では稀代の傑物、裏では化け物と呼ばれているのを、私は今までに幾度も聞いてきました。いずれにしても、普通の人ではありません。

 以前交わした言葉を思い返して、私は背筋が伸びる心地がいたします。あの眼差しを前にすればいつもより殊更に気を張らずにはいられないのです。

「旦那様はことの成り行きを見守っておられるのかもしれません」

 そうでしょうね、とスミさんは肯定し、息をつかれました。

「あのお方はいつもそうです。私などでは見通せない遠くを見ておられます。そして、人がしていることを天から見下ろしているのです。息子である優さまでさえ、旦那様は自分のこととは思わず他人として扱っているのですよ。惑っている人を見るのがお好きなのは、困ったことです」

 少し話しすぎたということに気づかれたのか、スミさんは咎めるように手を口に当てます。

「そのことはともかくとして。みや、あなたはこれからどうするのです」

 話の矛先を向けられた私は、その鋒の鋭さに怯んだように息を呑みました。喉元の白く汚れない肌につうっと一筋の血が流れ出る様が脳裏に描かれます。

「私は」

 言いかけて、目の裏が真っ赤に染まったように思います。私は即答できなかったのです。それが一つの答えでもあり、私自身の過ちでした。

「きっと、何も気づかないふりをするのだと思います」

 スミさんは私の言葉を聞いて、少しの沈黙の後、私を見据え、語気荒く言い放ちます。

「それですむと本当に信じているのですか」

 まるでそれですむはずがないとおっしゃっているようでした。

「私は、信じています。なぜならスミさんが懸念されていることは、使用人としてもっともしてはならないことだと承知しているからです」

 そして、無邪気に私を信頼してくださる月子さまを裏切るまねにほかなりません。

「ですので今回のことは、純粋に優さまのご好意なのでしょう。甘えてしまうようで心苦しいのですが、他国の言葉を勉強してみたいと思っていたのも事実です。できれば、この機会を逃したくないのです」

「それがあなたの本音なのですね」

「はい」

 それでほかに何も含みがないというように、私は力強く頷いたのです。

「そういうことにしておきましょう。私たちとしても、外国からのお客様を屋敷に招いたとき、言葉を解することができる子が一人いたら助かりますからね」

 天蔵家はそれほど交友関係が広いのです。金井さんの他にも言葉がわかる使用人がいれば、何かとやりやすいこともあるでしょう。

 諦めたように目を伏せたスミさんはそれからうっすらと顔に心配そうな表情を張り付かせて、こう続けました。

「ですが決して忘れてはいけません。みや、あなたは使用人です。天蔵家の使用人としてふさわしい行動を心がけなさい。ここでこれから途方もない時間を過ごすのなら、一層努力していくしかないのです」

「知っております」

 よろしい、とスミさんは唇を緩ませて、目を和ませました。それでもその顔にできた陰影は必ず拭えるものでもなかったのです。

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