第10話
それからほんの一刻も経たないうちのこと。私の前には空気までさらにひんやりしそうなものがありました。ずいと小さな皿ごと押し出されて、私は皿と厳しい面持ちの料理長の顔を見比べました。
厨房に慌てて駆け込んできた私を咎めもしない代わりに、この皿を押し付けられたのです。
「私の意見で本当によろしいのですか」
確かめるようにもう一度繰り返します。
「いいとも」
料理長は垂れた皺をも震わす勢いで肯定します。
「新しいアイスクリイムの味がどうなのか旦那様方にお出しする前に確かめたいんだよ」
「冬にアイスクリイムなんて、体が冷えないでしょうか」
お止めしたのだがね、と料理長は苦い顔をなさって、首を振ります。
「旦那様の気まぐれだとさね。先に出すスープで体の芯まで温かくしておくようにするしかないさ」
ほれ、はよ食え。私は料理長の声で硬い椅子に座り、スプーンを手に取りました。あまり量はありませんので、お腹を壊すことはないでしょうが、見るだけで寒々しいと思うのは仕方がありません。
白いアイスクリイムに蜂蜜がかけられ、とろりとやがて溶け出していきます。調理場は他より温度が高いのです。
口に入れてみれば、甘いのです。舌を凍えさすというのに、甘さを訴えかけてきます。
「美味しいと思いますよ」
そう言ってもう一口、とスプーンで皿からすくいます。
料理長も座って、自分でも確かめるように別の皿からアイスクリイムを食べます。
「うん。なかなかだ」
「蜂蜜は食べる直前にかけたほうがいいですね」
「だなあ。見た目を考えてもそうしたほうがいいだろうな。給仕のほうにも伝えておいてくれ」
「わかりました」
あっという間に食べ終えてしまいます。アイスクリイムは夏の食べ物とばかり思っていたのですが、体に障らない程度なら、乙なものです。
そういえば去年のお盆ごろ、一度だけパーラーにアイスクリイムを食べに行ったことがありました。私は薮入りに故郷に帰るわけにはいかず、その代わりにとお休みの一日を使って出かけたのです。
瑠璃の杯にのる白いアイスクリイム。パーラーの前、たった一人で子供のように小銭を両手で握り締めまでした私がどうしても食べたかった物でした。
その味はあまりの美味しさに笑んでしまうほどでしたが、けれどそれはわずかな間だけのこと。冷たさが喉を滑り落ちた時には、私は自分が恥ずかしくなりました。アイスクリイムに舌鼓を打っているのは私だけで、周りは皆明るい顔でおしゃべりを楽しんでいます。パーラーは食べるだけのところではありません。楽しむところでもあるというのに。私は一緒に楽しむ相手がいませんでした。私は周囲から浮いたまま、黙々と食べ続けます。それは甘いというよりは冷たい味でした。アイスクリイムは体を冷たくさせる食べ物なのです。
「これ、本当に美味しいですね。余っていたら、欲しい人に振舞ってみたらどうです。料理長からのおすそ分けと聞いたら、みんな喜びますよ」
「だがねえ」
「年末ですもの」
私はいいことを思いついたかのような笑顔をつくってみせます。
「私一人が味見なんて勿体ないですし、年末の大掃除で忙しい使用人たちに甘味を差し上げてください。スミさんには私から話を通しておきますから」
余っていなかったら、その分をお手伝いしますから、と私がさらに念押ししますと、料理長はがしがしと禿(は)げ上がった頭をかいて、首を横に振った。
「まったくみやちゃんは末恐ろしい女になるなあ」
「まさか」
「人をおだてるのが上手いんだな、これが。俺のカミさんに似てる」
これがおっかないんだあ、と料理長は大口を開けて笑います。
「女ってのは、どいつもこいつも中身は恐ろしいもんさ。世の中の風潮がどうであれ、実は男に立つ瀬はないのさ」
料理長はここの近くから通いで来ています。その奥様というのにお目にかかったことはないのですが、ずいぶんと尻に敷かれているというようなことを聞きます。
「私はただ、みなで楽しみたいだけですよ」
芯まで冷えるのはもうたくさん。冷たさよりも甘さを感じたいのです。
「俺のことは無視でか」
私は料理長の前に両手を掲げました。
「お疲れの料理長には後で私が肩をもんで差し上げようと思っていまして」
「抜け目ねえなあ」
さらに料理長の笑い声が響くのを聞きながら、私はスミさんに話すべく、調理場をあとにしました。
みやらしい配慮よね、と佐恵子さんは机に向かっていた私の背に声をかけました。
「アイスクリイムなんてあまり食べないから、とても美味しくいただいたのだけれど」
「よかったじゃない」
皮肉めいた言い方をしないで欲しいものです。
ベッドの上で掛け布団の中に丸まっている佐恵子さんは振り返っても顔を見せません。黒い後ろ髪ばかりが目につきます。
「私、みやには一生勝てないのよ」
「佐恵子さん」
佐恵子さんは「何に」勝ちたくて、「どうして」勝ちたいというのでしょう。「勝つ」ことも「負ける」ことも私には何一つ変わらないような気がするのです。だってどちらもその心しだいなのだから。
「私がここを辞めてしまったら、きっと私は負けたまま逃げ出した気がするの」
それは嫌、嫌なのよ。
私は布団の中から聞こえるくぐもった声に耳を傾けます。
「でも私はみやみたいには動けないし、みやみたいに完璧に卒なく動くこともできない。みやほどには上の人に可愛がってももらえない。結婚なんて、逃げ道なのかもしれないわ」
それなら、その逃げ道さえ見つからなかったとしたら。私には、こうして生きるしかないのだとしたら、必死に働くしかなかったのです。
逃げ道のある幸福を思えば、私は佐恵子さんが羨ましいのです。
「私が完璧だったことなんてないのよ、佐恵子さん。知っているでしょう、ここに入ったばかりの頃の私を」
「知っているわ」
旦那様方への礼儀の表し方の一つ一つも覚束無いこともありました。頼まれたことさえ満足にできないで、たくさん叱られました。佐恵子さんは私よりも長くここに勤めていて、私の間抜けっぷりを十分にわかっているはずなのです。
「でもすぐに慣れた。今ではみんなに認めてもらっている。私じゃ、あんなふうにはなれないの」
佐恵子さんはまるで何かを悟ったように淡々と語ります。自分ではもう無理と、線引きをし終わっているのです。
「だから、納得して引き下がるしかないのだわ」
「結婚がそんなに嫌なの」
佐恵子さんは違うわ、と小さな声で言います。
「家庭に入ることが悪いことだなんて、とても言えない。でも、もう少しだけ自分の足で行けるところまで行ってみたかったの」
女が仕事を続けるという難しさは、今まさに私たちに降りかかる問題です。ずっと仕事をしたいと願っても、家のために縁談を受け入れ結婚する。そんなあり方が多いのです。
「こんな大きなお屋敷にお勤めして、旦那様方がここで暮らしていらっしゃる。普段なら新聞でしかお目にかからないような偉い方もここを訪れるのよ。見聞きできるものが途方もないくらいたくさんで、とても嬉しいのよ」
「そうね」
世の中というものはたいそう広く、私たちには及びも付かないことを教えてくれます。庶民と雲上の方々のその間に私たちが住んでいます。私たちだけが狭間の出来事を知っているのです。
「ねえ、みや。どうせなら、せめて私よりは長くお屋敷に勤めてね。それでこのお屋敷の行く末を見守ってちょうだい」
「佐恵子さんの代わりに、ね」
先回りして言いますと、佐恵子さんはくすりと笑います。
「その通りよ。変なこと言ってごめんなさい。もう寝るわ」
「おやすみ」
夜は静かなものです。すべての音を吸い込み、すべての色をなくしてしまうのです。色をなくしているために、人の目はそれを嫌って、夜には目を閉じるのかもしれません。夜には、内緒話が似合います。静かに語り合うその時というのにも、何も色はつかないように思いますから。
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