第11話
お屋敷の窓ガラスを雑巾でさっと拭いて現れた曇りのない景色に、車から降りられる月子さまのお姿が映りました。掃除道具を端の方に置き、身だしなみを正して、玄関の扉を開けます。
「ごきげんよう」
月子さまは寒さのためにほんの少し頬や鼻の先が赤くなっておりました。
「優さまはいらっしゃるかしら」
差し出される羽織や襟巻きを受け取りながら、私は頷きます。
「ええ。本日はご在宅です。今、お伺いを立ててまいりますので、まずはこちらへ」
客室にお通しすると、月子さまはソファに沈みこまれました。
「今年ここに来るのもこれで最後になりそう」
どことなく、浮かない顔つきをされています。元々抜けるように白い肌がさらに透き通って頼りなく見えるからでしょうか。最近、体の線が細くなったようにも思います。
「みやさんはもうご存知でしょう。お誘いを優さまに断られてしまったの」
哀しいと感じているのに、月子さまは無理に笑みを形作られました。
「お仕事なのだから仕方がないのだけれど、親戚の中には優さまを悪く言う方々もいるんですって、お母様が言っていらしたわ。お父様は不機嫌そうにだんまりを決め込んでいるの」
「そうなのですか」
優さまはご自分の一挙手一投足がどう人の目に映るのかよくご存知のはずでした。天蔵家という財閥の家に生まれたということは人に注目される人生になるのですから。
優さまのされようには少し配慮が欠けているように思うのは私だけでしょうか。月子さまにももっとお優しくされてもよいはずなのです。だって、将来の伴侶なのですから。
「だから、それとなくでいいのだけれど。優さまに考え直してくださらないか、進言をお願いできないかしら」
それでお考えを翻すことはないでしょうが、もう少しだけ。
座っておられる月子さまは互いに手をさすり合わせて、息を吐き出します。この部屋はまだ温まってはいないのです。
「はい、確かに承りました」
私の承諾の返事を聞くと、月子さまはそのままゆっくりと首をひねって、窓の外をみやります。
「ああ、雪が降っているわ。これが初雪ね」
「もう年末も近いですから」
一年が過ぎるのも早いもの。一陣の風のごとく吹き抜けていくよう。吹き抜けたあと、私には何が残っているのでしょうか。それを知るために振り返ることが怖くなります。
「来年はいい年にしたいものだわ」
月子さまは胸に手を当てられます。胸の内にある何かを隠すように。
「優さまと結婚するのも来年になるもの」
そうです、月子さまと優さまは夫婦となられる。そしていずれはこの天蔵家を二人でもりたてられる。その姿を拝見することも叶いましょう。
私はまるで初めてこのことに気づいたような心地がいたします。たとえお二人がどのような気持ちであろうと、おふたりは夫婦になる定めにあるのです。
「そうですね」
私は胸の奥にくすぶるものを無視いたしました。どれだけそれが私の胸を締めつけ、忘れることを拒否しようとも、きっと耐え忍ぶこともできましょう。届かないと知っているからこそ、手放せるものもあるのです。
私は優さまの部屋のドアを叩きます。
「優さま、月子さまがお見えになっております」
「今、いく」
ドアが開きました。優さまの目が私を捉えます。
「何の用か聞いているか」
「いいえ、何も伺っておりません」
ですが、と私は意を決します。私は優さまとそうお話できる機会など持てません。今のうちに聞いておくほうが間違いはなくてよろしいでしょう。
私は、優さまのお顔を見ないよう、進む廊下の先ばかりを目を向けます。
「月子さまは、年籠りの件をたいそう気に病んでおいででした。あちらにも面子というものがございますし、月子さまも期待していらしたでしょうから」
優さまの足音がぴたりと止まりました。おそるおそる体を捻りますと、優さまがこちらを睨むような目つきをなさっています。
「つまり、暗に誘いに応じろと言いたいわけか」
「いいえ」
私は首を振ります。
「お断りになられるにしても、もう少し角が立たないようになさればよろしいのです。私のような者が言うのも僭越ではございますが」
優さまにも優さまの事情というものがございます。誘いをすべて受けるわけにはいかないということは私でも知っていることです。
「お前は月子に入れ込んでいるな」
あまり嬉しくなさそうな声音です。現に眉間に皺が寄っておられました。そのようなしかめっ面をなさるほどのお年でもないでしょうに。
「はい。月子さまは大事に育てられた方で、大事にされるべきお方です。私たち使用人一同も心から月子さまを若奥様として仰ぐことになるでしょう」
好意を寄せられ、それを好意で返さないでいられるはずがないのです。月子さまが私を信用してくださるとわかるほど、私は月子さまをお守りしないではいられません。月子様にはそうさせるだけのお力があるのです。
「誰からも愛されるお姫様というやつか」
優さまは冷めておられました。
「だからかくも弱々しいつくりをしているのだろう。人の同情をひくために」
「優さま」
私の顔に非難の色が見えたのか、優さまはほんのわずかに愉悦ともみえる笑みを刻みます。
「月子に人としての価値はない。あるとすれば、何も知らない無垢さをキチガイのように愛でたがるある種の男にとって、だがな」
世間一般ではああいう女が受けるのだろう、と優さまは無関心そうに言い捨てます。
「お前にも受けているようだ」
私はとっさに何かをいいたい思いにかられました。
優さまと私では立つ位置が違うのです。優さまの「月子さま」と私の「月子さま」は違うのです。私は優さまの胸の辺りを見ながら、答えます。
「月子さまは私にとっては天上の方です。清浄に包まれて、綺麗なものばかりを見て、育つことはとても難しいことです。月子さまのような方はとても貴重なんです。だからこそ、人の憧れの的になるということもあるのですよ」
少し喋りすぎてしまったようです。足がすっかり止まっていますし、あまり使用人らしくはないことを口にしてしまっています。
「失礼いたしました。口が過ぎました」
「別にかまわない」
最近の私は口が軽くなってしまったようです。お仕えするべき相手とこのように踏み込んで話をするようなことは以前にはありませんでした。慣れるうちに気が緩んだわけでもないというのに。
私は、優さまがお咎めにならないで聞いてくださるといつのまにか知っていたのです。元々は私たち使用人に厳しい方であるというのに、不思議なことです。
「優さま」
だから私はもう一歩だけ踏み込みました。優さまが許してくださるぎりぎりの線を見極めるように顔色を伺いながら。
「月子さまにお優しくしてください。あの方は優さまを一心にお慕いしているのです」
そこには何の打算もありません。婚約者だからという理由だけではなく、月子さまは優さまに好意を抱いてしまいました。相手から返されるともしれない思いばかりを膨らませて、月子さまは優さまの背中を見つめておられる。
優さまは動揺されたように瞳を彷徨わせて、髪に手をやります。
「どうにもお前は月子に肩入れするきらいがあるな。お前は天蔵家の者だということを忘れてはいまいな」
「はい。月子さまを将来の若奥様として敬意を持って接しております」
優さまは私の言葉に納得されたわけではないらしく、さらに言葉を継ぎ足します。
「今仕える相手は月子ではないだろう」
「存じております。旦那様、優さまをはじめとした天蔵家の方々です」
「その言葉、肝に銘じておくことだな。お前の言動にはいささか不安を覚える」
私はもう何度目かになる忠告を受け取ります。
優さまはもはや私の方をご覧にはなっておられませんでした。体はこちらに向けておられるものの、顔はまったく別方向にあります。
「私は、優さまにまで心配をおかけしているのでしょうか」
「そういうことではない」
「そうですか」
わからないからお聞きしたのですが、結局は曖昧なままです。優さまは私の先導を追い越します。私は慌てて、その背中にお声をかけます。
「優さま。こちらの応接間ではなく、こちらの右の客室です」
優さまは角でものの見事に直角に方向転換をなさいます。その動きの良さと言ったら、軍隊の歩兵の行進なみともお見受け致します。
優さまが途端に私を睨まれます。
「お前、先に場所は告げておけ」
慌てて頭を下げます。以前ほどではありませんが、眼光の鋭い切っ先にはっとさせられるお方です。
「失礼いたしました。以後は気をつけます」
客室にその影が滑り込むのを見届けて、私は持ち場に戻りました。
月子さまと優さま。所詮使用人の立場ではおふたりをとやかく言えません。おふたりがどんな御夫婦になろうとも、私ごときでは改善することも悪化させることもありません。そのことが何よりも私を安心させるはずでした。
ですが、先ほどの優さまのご様子では。きっと私は優さまに少なからず影響を与えることになると感じ取ってしまったのです。優さまは以前と変わられてしまった。もう私が髪を切り落とした前のような言動はなさらないでしょう。以前の優さまなら、私に行き先を尋ね
忘れるようなことをなさらなかった、何の隙のないお方でした。
それとも私の目が変わってしまったのでしょうか。私は一瞬だけそう考えて、違うと結論をつけます。私は何も変わりません。客観的に見る限り、優さまの態度が軟化したとしか思えないのです。
私は急に怖くなってまいりました。私の気のせいであれば、一番丸く収まるでしょう。だから、私はこの気づきも小さな日記に封じ込めておきましょう。あとはすべて忘れたふりをするのです。私は使用人、黙って話を聞き流すのは得意ですから。
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