第9話

いってらっしゃいませ。

 左右一列に居並ぶ使用人たちが一斉に朝のご挨拶をして、旦那様方を送り出します。旦那様、そして優さまが目の前を通って行かれました。

 お二人は横からの声に気を散らされることなく、まっすぐと道の先を見据えておられます。堂々となされた歩き姿です。この方たちは雲上に住んでおられる。私たちとは違うのだと全身で主張されているようです。

 行ってしまわれた途端、他の使用人たちから安堵の溜息が漏れます。朝一番に気が緩む瞬間です。

「さあ、みなさん。お屋敷をくまなく掃除するのですよ。今のうちから一年の汚れを落とすつもりで磨くように」

 スミさんの声でみんなそれぞれの持ち場へと移動していきます。

「なぜ今年はそこまで急がれるのですか」

 スミさんは私の方を振り向かれます。

「藪入りを今年は二十八日からにするのですよ。今年は優さまが静かに屋敷で過ごしたいとおっしゃって」

 優さまは使用人が大勢いることに落ち着かないのでしょう。

「月子さま方のお誘いを断られたのですよね」

 私の言葉に、スミさんは憂鬱そうに頷かれました。

「困ったものですよ。先方とはいずれ縁続きになるというのに、仕事仕事と事あるごとに本当に渋っていらしてねえ」

 それほど、気に染まない縁談だったのでしょうか、あんなに美しい月子さまとなのに。

「私には、わかりません」

 どうあがいたって、私にはわからないのです。

「みや。あなたの意見はどうであれ、ここでは口にしてはなりませんよ」

 スミさんは心配そうなお顔をなされて、ぴしゃりと厳しい口調でおっしゃいます。

「近頃のあなたは基本を忘れているようで、非常に危ういように思います。ふ美子の二の舞にならないように」

 ふ美子さんというのは私がここに来てまもなく辞めていった方です。表向きは、縁談が決まったという理由で。でも、使用人の間では暗黙の了解のように知っていた事実がありました。ふ美子さんは、天蔵家のご子息を慕ってしまいました。けれど、優さまは、決して気づきませんでした。いえ、気づいていながら黙殺したのです。ふ美子さんの視線から逸らして、優さまはそのままご自分の行くべき道を進んでいかれ、横を向こうとも、振り向こうともなさらなかった。

 ふ美子さんは耐えきれませんでした。耐えきれないで去って行ったのです。

「私は初心を忘れたことはありません」

 言葉に力を込めて、私は一気に言い切りました。

 天蔵家に誠心誠意お仕えする。この白亜の宮殿のようなお屋敷を初めて目の前にして、私は高鳴る鼓動を抑えながら、スミさんにこう言ったのです。

 私は、ここで「使用人」になるのですね。

 ちっぽけな私ですが、もし誇りというものがあるのなら。それはきっと天蔵家の使用人としての品格なのです。背筋を伸ばして、屹立する姿。私が望むのは、主人に心からの信頼を寄せられること。

「それに、二の舞になんて、なるはずがありません」

 私はスミさんの憂慮を少しでも軽くできるように微笑んでみせます。上手くできたかは自信がありませんが。

 スミさんは私の事情を知っています。それならば、私が言葉に含ませた意味もわかるはずでした。

 結納を交わした相手は、女中と駆け落ちをしました。私がされたことを月子さまに返すようなことにはなってはならないのです。それこそひどい皮肉ではありませんか。

「あなたって子はどうしてそこまで」

 言いかけて、スミさんは頬に手を当てて、ほうと息を吐きます。ほんのかすかに白くなっているようでした。

「スミさん、私、今で十分幸せなんです」

 幸せだから、小躍りしてしまいそうなほど。

 私は華やかな帝都にいる。働き甲斐のある職場に出会って、同じ仲間もいて、心を砕いてくださるスミさんのような方がいる。

 息の詰まる小さな故郷という名の牢に閉じ込められるよりどれだけよかったことでしょう。家族と離れているのは少し寂しいけれど、それでもこれが最善の道だったのです。

「これからも、何も変わらないことを心から祈っています」

 失礼いたします。

 私は持ち場へ急ぎます。空を覆う雲は暗く、この先のことを暗示しているようで不安になりました。




 最近はとみに日があっという間に沈んでいきます。夕日に追いかけられるかのように、私は忙しくお屋敷の中へ飛び込みました。掃除が終わり、次は料理長の手伝いとして、夕食の準備に携わらなければならないのです。そうして、玄関近くを歩いていますと、近づいてくる車の音がします。旦那様か優さまかがお帰りになったのです。

 誰もお出迎えに参っている様子もないようでしたので、私が行くことにします。

「おかえりなさいませ」

「ああ、ご苦労」

 差し出された優さまの鞄を受け取ります。

「今、お食事の用意をしておりますので、もうしばらくお待ちください」

「いや、今夜はまた出かけることになるから、食事はいい」

「はい、かしこまりました」

 ここまで一通りおっしゃったあと、優さまはゆっくりと私の方を振り返りまして、目を見開かれました。どうやら、出迎えをしているのが私であることに初めて気づかれたようです。

「珍しいな」

「はい。そうですね」

 常ならば、金井さんやスミさんといった上位の方が行うことで、たとえそのお二方でなくても私よりも年かさの慣れた使用人がそれに充てられているはずです。きっと今日は思いもよらぬことがあって、指示された時間よりもずれたご帰宅になったのでしょう。

「優さま。今夜のお出かけは何時ごろになりますか」

「六時半に出て行く」

「かしこまりました。ではそのように手配いたします」

「ああ、頼む」

 優さまのお部屋の前に着きました。ご自分で鍵を取り出され、開きます。

「鞄は机の上に置いておいてくれ」

 部屋には大きな書き物机がありました。そのことを言っているのでしょう。ご指示通りにしますと、優さまは扉近くに立ったままでした。

「ほかに何か御用はございますか」

「貸した本は順調か」

 さらりとあまりに自然に話を変えられましたので、私は一瞬惚けますと、どうお答えしようか考えあぐねてしまいます。

「読んでは、いますが、辞書を引きながらでも難しいです。お返しするのがだいぶ遅れてしまうかもしれません」

 そうか。優さまは考え事をするように顔を俯かれています。私はどうしたらいいのだろうと手持ち無沙汰に視線を床に落とします。落ち着いた赤色の絨毯です。きっと高級品なのでしょう。

 優さまのお部屋はとても片付いています。使用人を入れたがらずに一人で掃除なさっていると聞いていますが、本職の私たちと同等に行き届いているように思いました。

「もし、なのだが」

 優さまが口を開きかけ、さっと閉じられます。言ってはならないかのように唇を噛み締められるのを、私は見ていました。

「はい、優さま」

「いや、いい」

「はい」

 この時、ほっとしたのは言うまでもありません。優さまのご様子が平生(へいぜい)と違い、平生の言動と異なっていることほど、私を不安にさせるものはありません。

「失礼いたします」

 顔を見まいと優さまの横を通り抜けました。足早になっていたかもしれません。

 いつもと違うことが一つ。それは必ず、その後の平生という名の水面に一滴の雫(しずく)を垂らして、波紋を呼びます。影響を受けずにはいられません。

 無意識のうちに私は首を振っていました。まるで、嫌な予感を振り払うように。

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