第53話 自分自身

「今の俺は冷静じゃない。一緒にいたらきっとまたローラを襲う。体も心も傷つけてしまう。だから、俺が落ち着くまでは俺の前に姿をあらわさないでほしい」


 ヴェルデにそう言われて部屋を追い出されてから、ローラは結局その後一度もヴェルデに会えなかった。ヴェルデは夕食の席にも姿を現さず、ローラは不安を募らせる。


 夜になり、寝室で寝る支度をしていたローラだが、いつも一緒にいてくれるヴェルデの姿はそこにはない。


(今日は、ヴェルデ様はこのままここには来ないのかもしれない)


 ティアール国で失踪を企てたあの日から、一日も欠かすことなくヴェルデは夜になるとローラのそばを離れずにそばにいた。サイレーン国に来てからも一人になって不安にならないように、辛い夢を見てもいつでもすぐに抱きしめられるように、ヴェルデはいつでもそばにいて寄り添ってくれていた。


 でも、そのヴェルデは今いない。薄暗く、静かな寝室にローラの呼吸音だけが鳴り響く。


(一人が、こんなに不安なものだなんて思わなかったわ)


 いつの間にか、ヴェルデに頼りっぱなしだった自分の心に気づいて驚愕する。百年前、エルヴィン殿下と婚約していた時、王城ではいつも一人だった。エルヴィン殿下が寝室に訪れることは一度もなく、それを寂しいと思うこともいつの間にか無くなっていた。それが当然なことだと思っていたのだ。


 あの頃はなんとも思わなかった暗闇、静寂、風が窓を叩く音、木々の揺らぎ、屋敷内の遠くから聞こえる微かな話し声や誰かが動く音、その一つ一つが今では自分は一人ぼっちなのだと思わされ不安を掻き立てる要素になっている。そして、その不安が、自分は命を狙われているのだという更なる不安と恐怖を連れてくるのだ。


(ヴェルデ様がいない夜が、こんなに怖いものだったなんて……)


 ローラはぎゅっと自分で自分を抱きしめた。


(私はいつからこんなに弱くなってしまったのかしら……それとも、強いと思っていた自分は、強がっていただけ?)


 自分を抱きしめたまま静かにため息をつくが、そのため息すら微かに震えている。


(ヴェルデ様はどうしてあんなに、悲しそうに辛そうに、怒っていたのかしら)


 ベッドの端に座りながら、窓の外の月を見つめながらヴェルデのことを思う。ヴェルデの様子がおかしくなったのは、エルヴィン殿下の末裔であるイヴが現れてからだ。


(……きっと、エルヴィン殿下に瓜二つのイヴに動揺していた私のせいなのよね)


 エルヴィン殿下と瓜二つ、しかも声まで似ているのに、性格は全くの正反対なイヴ。そんなイヴにローラは明らかに動揺していた。しかも、そんな相手に、自分の命は百年前から今までずっとエルヴィン殿下の末裔たちに命を狙われ続けていると告げられたのだ。


(イヴだって、私のことを恨んで命を狙ってもおかしくないはずなのに、自分でイライザから掛けられた末裔への呪いを解こうとしている。強い人なんだわ)


 もはやイライザの言葉はイヴたち末裔にとって絡みついて解けない呪いのようなものだ。それを、自分の代で断ち切ろうとしている。一族としての生き方ではなく、自分は自分として生きたいのだと言った時の真っ直ぐな瞳は、嘘偽りのない瞳だった。


 エルヴィン殿下もイヴのような人間だったなら、もしかしたらわかりあうことができたかもしれない。きちんと話をして、時に笑い合い、共に寄り添い歩んでいくことができたかもしれない。エルヴィン殿下とイヴは瓜二つゆえに、どうしてもそう思ってしまう。


(考えても仕方のないことだわ。イヴはエルヴィン殿下ではないのだもの)


 イヴは「自分」として生きたいのだと言っていた。そのイヴにエルヴィン殿下を重ねるのはイヴに失礼すぎる。ローラは瞳を閉じて深呼吸をする。


(私は、ヴェルデ様とこの国で生きていくと決めたのだから。今の私は、もう百年前の私とは違う)


 顔を上げてしっかりと前を向いたローラの瞳は、月明かりの光に照らされてキラキラと輝いていた。


 コンコン


 ノック音にハッとしてローラはドアを見つめる。


「ローラ、入ってもいいかな?」

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