目覚めの記憶


 あたし、結構頑張った。



 頑張って。

 頑張って。



 確かにそれは、あたしなりにだろうけど。



 それでも。



 頑張って。

 頑張って。



 ……で、そろそろ疲れたから眠ろうと思った。



 "永遠の眠り"。



 それなのに。



 結構頑張ったのに。



 あたし、頑張ったのに。



 …あたしは眠らせてもらえなかった。



 いい匂いがする。



 これ、何の匂いだろう。



 初めて……じゃない匂い。



 ダージリンティの匂いに似てる?



 シトラスフルーツっぽい?



 …何だかよく分からないけど…いい匂い。



 とっても落ち着く。



 あー…これ、何の匂いだろう…。



 ……にしても。



 頭が痛い。



 すっごく痛い。



 割れてる。



 これ、絶対頭割れてる…。



 何だっけ。



 何があったんだっけ。



 あたし何したんだっけ。



 あぁ、そうだ。あたし眠ろうとして。



 スクランブル交差点に飛び込んで。



 そしてあたしは…



 頭痛い。



 肩も。



 背中も。



 腰も。



 耐え難い痛みに、閉じていた瞼を開けると、霞む視界に……茶色い天井。



 骨組みの鉄筋がむき出しの、茶色い天井。



 もうこの時点で、絶対に病院じゃない。



 病院がこんな天井な訳ない。



 ここは……



「あ、起きた?」


 優しい声色の問い掛けと共に、遠くで動く気配に、天井を見つめていたあたしがゆっくりと視線だけを動かすと、あたしの真横で止まった気配はあたしの顔を覗き込む。



 自棄に目に付くアッシュブラウンの短いソフトモヒカン。



「大丈夫?」


 ……。



「どっか痛む?」


 ……。



「起き上がれそう?」


 ……。



「お茶か何か飲む?」


 ……だ、



「おーい、聞えてるぅ?」


 …誰…?



 見た事のない顔と聞いた事もない声に一抹の不安を覚え、辺りを見渡そうと視線だけを動かしてみても、あたしの視界はあたしを覗き込むアッシュブラウンの男の人で占められていて、辺りを見渡す事なんて出来ない。



 おーい、なんて言いながら、あたしの目の前で手の平をフリフリと振るアッシュブラウンの男の人は、泳ぐあたしの目を追いかけて来るけど……この人はあたしの知り合いなんだろう……か?



 見た覚えのない顔だけど…。



 聞いた覚えもない声だけど…。



 …何だか親しげ。



 もしかしてあたし……記憶喪失になった?



 てか、記憶喪失って、記憶喪失だって分かるの?



「おーい、アヤカちゃ~ん。聞えてるぅ?」



 あ!それあたしの名前!



 名前知ってるって事は、あたしの知り合い?



 やっぱりあたし記憶喪失?



 てか、記憶喪失って、自分の名前覚えてるの?



 じゃあ、この頭痛は記憶を思い出そうとして痛むっていうあれ?



 …でも、あたし何にも思い出そうとしてないけど…。



 なのに頭が痛いんだけど…。



「おーい、アヤカちゃん?」



 あたし、あの台詞言っていいのかなぁ?



 ドラマとか漫画でよくあるあの台詞。



 記憶喪失の人がよくいうあの台詞…



「アヤカちゃ――…」


「誰、ですか?」


 ドキドキハラハラしながら、お決まりの台詞を口にしたあたしは、



「あぁ、聞えてたか。良かった。俺、ミカゲ」


 あっさりと自己紹介された。



 ミカゲ…?



 って、なんで普通に自己紹介?



 普通はもっとこう…「え!?俺が分からないのか!?」とか「おいおい、冗談言うなよ」とかって言うんじゃないの?



 名前聞いたところでやっぱりあたし思い出せないし!



 どう考えても"ミカゲ"って知り合いなんてあたしの記憶にないし!



 誰!?



 本当に誰!?



 驚きすらない、至って普通の"ミカゲ"は、ニコニコとあたしの顔を見つめて笑う。

 でもやっぱりどうしてもあたしはこの"ミカゲ"を思い出せなくて、



「…あたしの…知り合いですか…?」


 おどおどと、次のお決まりの台詞を口にした。



 自分の置かれてる状況どころか、目の前にいる人物さえ分からないあたしは、よもや人間ではありえない程目を泳がせてるに違いない。



 ゴミなんて1ミクロンも入らないくらい高速の瞬きをしてるに違いない。



 なのに。



 あたしはそんなに挙動不審なのに…



「ううん、知り合いじゃないよ」


 目の前のアッシュブラウンは笑顔のまま、あたし以上に挙動不審な言葉を吐き出した。



「…知り合いじゃ…ない?」


「うん」


「一度も会った事…ない?」


「うんうん」



 ……じゃあ、お前誰だYO!



 もう分かんない。



 何が何だか分かんない。



 ここがどこなのかも。



 目の前の"ミカゲ"が何者なのかも。



 なんであたしの名前を知ってるのかも。



 なんで頭が痛いのかも。



 何も分かんない。



 ただ、あたしに分かるのは、確実に"眠る"事に失敗して、こうしてしっかりと生きてるって事。



 まだ頑張らなきゃいけないって事…。



「アヤカちゃん、起き上がれる?」


「あの…」


「無理ならいいんだけどさ?」


「あの…」


「喉渇いてるなら起き上がってお茶飲みな」


「あの、どうして名前知ってるんですか?」


 とりあえず、少しずつ謎を解いていこうと、"ミカゲ"に問い掛けるあたしを見て、"ミカゲ"はまた一段と口元に笑みを浮かべ、ポケットに手を入れる。



 何気にその手の動きに視線を向けると、ポケットから出て来た"ミカゲ"の手には、見覚えのある物が掴まれていた。



「こんなの持ち歩いてる子がいるとは思わなかった」


 楽しそうに笑いながら、"ミカゲ"は2ツ折のそれを開く。



 開かれたそこには、あたしの写真と身分を示す印字。



「学生証持ち歩いてんだね、アヤカちゃん」


 …いつも持ち歩いてる訳じゃない。



 眠るから持って来ただけ…。



 顔がぐしゃぐしゃになるかもしれないから。



 あたしって分からなくなるかもしれないから。



 …念の為に持って来ただけ。



 兎に角、まず1つは謎が解けた。



 "ミカゲ"があたしの名前を知ってる理由。



 あたしの名前を呼ぶ理由。



 …じゃあ、ここはどこ?



 本当にあたしの知り合いではないらしい"ミカゲ"といるここはどこ?



 何があって、どうしてこの状況に?



 …あたし、誘拐されたの…?



 そう思いながら見上げる"ミカゲ"は、全然悪い人には見えない。



 でも、人は見かけに寄らないって言うし、こういう優しそうな人ほど、本当は怖いのかもしれない。



 それでも、もしかしたら"ミカゲ"は誘拐犯グループの中の下っ端かもしれない。



 これが誘拐なら、あたしが逃げるには"ミカゲ"を味方に付けるのがいいかもしれない。



 "ミカゲ"なら逃がしてくれそうな気がする。



 …単独犯だったらどうしよう…。



「アヤカちゃん、ちょっと起きてみようか」


「あの…」


「手、貸すからさ」


「あの…」


「ほら、掴まって」


「あの、あたし誘拐されたんですか?」


 "ミカゲ"に差し出された手に掴まり、体を支えてもらいながら起き上がるあたしは、直球勝負に出た。



 どうせ誘拐ならいずれ分かるし、そうじゃないなら安心出来る。



 そう思って口にしたあたしの質問は、



「んー…誘拐とはちょっと違う…かな?」


 曖昧な言葉で返される。



 …ちょっと違う?



 じゃあ、微妙に合ってるって事?



「まぁ、攫って来たのには違いない」


 苦笑とも、失笑とも取れるような笑いを口にして、"ミカゲ"はあたしをその場に座らせる。



 体を起こし、座らされて初めて気付く、自分のいた場所。



 …あたしは、革のソファに寝かされていた。



「攫って来たってどういう――…」


 混乱に言葉を紡ぎかけたその時、あたしの体から、ズルッとズレ落ちる布の感触。



 それはパサッと小さい音を立て床に落ち、反射的にそれを掴もうとしたあたしの手は、その布の端を掴み、あたしの視線はその布を捕らえる。



 捕らえた視線の先にあるのは、黒い布に刺繍された金色の文字。



 これでもかってくらい存在感を示す金色の…



 "九代目総長 リュウキ"



 文字。



 ……何事?



「はのぉ…」


 驚きに、思わず鼻から息が抜け過ぎて変な音のような声を出すあたしの手から、



「ん?」


 "ミカゲ"は至って冷静に返事をして、床に落ちた黒い布……で出来た服を拾い上げ、受け取る。



 バサッと音を立てて埃を落とすように振られたそれは、何の疑いの余地もない"特攻服"。



 …ヤバいってバロメーターを超えた気がする。



 フルスロットルでヤバい。



 今世紀最大級にヤバい。



 攫われた。



 誰かに。



 でもその誰かは確実にいい人ではない。



 こんな服を着ちゃう人種に攫われた。



 …殺られる。



 確実に仕留められる。



 じゃあ…"ミカゲ"もその人種の人?


 こんなに優しそうなのに、こんなに柔らかい物腰なのに、…そういう服を着ちゃう人種?



 全然見えない!!



 そんな風には見えない!!



 でもやっぱり人は見かけに寄らないのかもしれない。



 こんなにいい人そうだけど、本当は超極悪人で……何人も殺してるのかもしれない!!



 誘拐犯よりも性質が悪い!



 絶対生きて返してくれそうにない!



 そりゃ確かにあたしは"眠ろう"としてたけど、それでもあたしは静かに眠りたかっただけで、痛い思いをしたい訳じゃなくて、一瞬で安らかに眠りたかっただけなのに!



 なんでこんな事に?



 なんでこんな人種に?



 一体、何がどうなってあたしはここに…いる…理由は……分からなくも……ない…。



 ……あれは…なに…?



 ここに来て初めての"見覚えのある"あれは…なに?



 黒の特攻服を畳む"ミカゲ"の背後。



 あたしが座ってる革張りのソファの正面の壁。



 あたしの視界には、あの時あたしが最後に見た、黒日の丸に黄色の文字で野獣と書かれた、大きな旗があった。

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