第57話
ホサイド領はセルドキア王国の辺境に位置する。中でもここ、レクタの地は、辺境中の辺境、フォーセランという地域の奥地にあり、外界からは完全に隔離されていた。外から人間がやって来ることも滅多になかったし、村の者が外に出ることは全くなかった。――レクタ族は、村から出ることを固く禁じられていたのである。
彼女が立っていたのは、村の裏門の外だった。優に十歩は距離を置き、廃村を見つめている。外れかけた裏門の小さな扉が、風に揺れる音だけが響いていた。
彼女はそのまま、無言で飛行の呪法を発動させようとする。一瞬の間もなく、身体は浮遊感に包まれる筈だった。
だが、彼女の足は地についたまま。呪法は発動しなかった。再度、今度は正式な詠唱を経て試みるが、結果は同じ。
仕方なく、辺りを見回す。当時の面影を残したままの廃墟。木造の家々が並び、遠くに一つだけ、石作りの建物が見える。
――ふと、違和感に気づく。
骨が無い。血の跡は残っているが、見渡す限り、人骨は一かけらも無かった。五年近く前のあの日――ここは骸の村と化したのに、である。
改めて辺りを見渡し――気づいた。
村の周りの農耕地の一部に、何かが集合して立っているということに。
近づいて見ると、それは墓標だった。三百ほどはあろうか。誰かがあの惨事の後に立てたらしい。ドルティオークは、村人は殺したが巫女たちには会っていないと言った。とすれば、巫女たちが亡骸を葬ったのか――。
墓標には、村人一人一人の名が刻まれていた。その名を一つ一つ、目でなぞっていく。
やがて彼女は、墓標の前を歩く足を止めた。彼女の前には、同じ名が刻まれた三つの墓標があった。
フレイマ。
――トニー・フレイマ。
――ネス・フレイマ。
――ツーヴァ・フレイマ。
その三つの墓標の前に立ち尽くし、やがて頽れるように膝をつく。
本来なら、ここには四つ目の墓標がある筈だったのだ。
濡れた感触が頬を伝い、雫が一つ、地面に落ちる。
愛情に溢れていた十三年間。心から笑っていられた日々。
それを打ち砕いた、たった一日の悪夢。
もう、二度とは戻らない。
俯き、幾つもの雫を落とすうち、ふと、何かが彼女の耳に入った。
――人の――声?
振り向くと、廃墟の筈の村の家々から、朝餉のそれのように煙が立ちのぼっていた。
立ち上がり、村へ近づき――
「……!」
今度こそ、彼女は愕然とした。村を歩く人の姿が見えたのだ。
吸い寄せられるように、裏門に近づく。門は壊れてなどいなかった。見える限りの家々も、朽ち果ててなどいない。
――駄目だ。行ってはいけない。
裏門を開こうと手を伸ばす中、心のどこかで声が響く。
――この身はもう、かつてのものではないのだから。
――五年前の、清らかなものではないのだから。
――あの殺人鬼に、汚されてしまったのだから。
――行ってはいけない。もう戻れないのだから。
だが、その意志とは無関係に、彼女の手は裏門を開き、彼女の足は一歩ずつ進んでいった。
病弱なため屋外に出ることは少なく、そのため知り合いも少なかった彼女だが、すれ違う人々の中には、確実に知った顔があった。
引き付けられるように、のどかな村の中を歩き――一軒の家の前で足を止める。
別に、他の家と何ら変わりない、木造の住宅だ。その家の戸口の前まで行き――立ち尽くす。
――どうすることもできない。
戸口を叩くことも、ここから立ち去ることも。
ただ、そこに佇み――時間が過ぎる。
どれぐらい時間が経っただろうか。やがて、家の中からこちらへ足音が近付いてくる。
彼女は小さく身を震わせたが立ち尽くしたままだった。すぐに、扉が開く。
家から顔を出した女性は、彼女の姿を見て一瞬呆然とし、
「…………
……リーゼ……かい?」
ぽつりと呟く。
彼女は、答えなかった。代わりに、一筋の涙が頬を伝う。
「リーゼ!
リーゼなんだね!」
持っていた水桶を落とし、彼女を強く抱き締める。
「ああ……やっと……やっと帰って来てくれたんだね……。リーゼ……」
「……お母……さん」
母の腕の中でそう呟き、彼女は意識を失った。
◆◇◆◇◆
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