第36話
「気がついたか、リーゼ」
彼女が目を開けたときは、ちょうど男が、冷水に浸した布で彼女の顔を拭いているところだった。
病院のベッドの上らしい。古ぼけた天井が見えることから、よほど古い病院か医院のようだが。とにかく、そのベッドの上に、彼女は寝かされていた。長い金髪はほどかれており、寝衣姿である。そして、すぐ横の椅子に、男が座っていた。
男――三十代後半で、黒い髪を全て後ろに撫でつけている。身長は高く、黒いシャツに黒いズボンと、一見黒ずくめの服装だ。彼が座る椅子には、彼のものらしき黒いジャケットが掛けられている。
――父でもなく、母でもなく、兄でもなかった。しかし、彼女の名を知る人物。
――誰?
ともすれば虚ろになりがちな青い瞳で、彼を見ながら、心の中で繰り返す。
知っている。自分は知っている筈だ。彼のことを。
「ここは俺の知り合いの病院でな。評判は悪いが腕はいい。お前を何度か診せただろう?あいつの病院だ。
幸い、命に別状はないそうだから、ゆっくりと休んでいろ」
布を水に浸しながら、彼は言ってくる。
確かに、知っている筈だ。この面影は、どこか頭の奥に焼き付いている。
「リーゼ?」
彼女の様子を不審に思ったか、男が、彼女の頬に手を当てながら、もう一度呼びかけてくる。
――誰なの?
もう一度、同じ問いを繰り返す。
自分を見つめる目。この目は、前に――ごく最近に見た。彼女の金色の瞳を見つめ、美しいと――
瞬間、彼女の瞳が金色に変わる。
「……ドルティオーク……」
憎悪のこもった声で、目の前の男の名を口にする。
思い出した。全て。
この男は、彼女から父も母も兄も奪った殺人鬼だ。父も、母も、兄も、もういない。四年半前、この男に殺されたのだ。彼女の目の前で。それどころか、この男は彼女の故郷を滅ぼしたのだ。
『禁忌』――それが、彼を示す言葉。
この男は、仇だ。彼女の家族と、故郷の。
自分の名は、ティーンだ。もう、リーゼと呼んでくれる家族も、故郷の人々もいない。
「私に……触れるな……!」
頬に当てられたドルティオークの手を振り払おうとするが、身体が思うように動かない。
「……!」
ただ、全身に激痛が走っただけである。
「無理はするな。まだ動けん。もう二、三日辛抱するんだ」
相変わらず彼女の頬に触れたままのドルティオークに、ティーンは敵意のこもった眼差しを向け、
「何故……私は生きている……?
解毒剤を……準備する時間は……なかった筈だ……」
「喋るのもきついだろう。黙っていろ。
俺も、一時は絶望したよ。どう考えても、解毒剤を入手する前にお前が逝くのが確実だったからな。
だが、わざわざ持って来てくれた奴らがいてな。その二人……まあ、ああいうのを一人二人と数えるのも適切ではないかもしれないが……彼女らから受け取った。
向こうも、お前に死なれては困るそうだ」
「何者だ……?」
「黙って聞いていろ。確か……セミ-プレシャス プロトタイプ〇一三と〇三八。俺達が言うような名前はないそうだ。コードネームは持っていたが。
俺から見ても奇妙な存在だったよ。気配がまるで存在しない。姿と声がなければ、そこにいることにすら気づかなかっただろう。
力の程は定かではないが……水が邪魔だという理由で雨雲を消し去ったのは事実だ。並大抵の力の持ち主でないことは確かだ。
それに……俺のことを何と呼んだと思う? 『人たることを捨てた者』だ。実を言えば、俺はそう呼ばれる心当たりがある。お前が何をやっても俺に通じなかったのはそのせいだ。俺のことを予め調べておいたのか、一目で見抜いたのか、それは分からんが……俺の本質をも知っていた。どう考えても、徒者ではないな。
とにかく、彼女らが調合済みの解毒剤を持って来た。彼女らが言うには、お前の死は何をしてでも避けるべきこと、だそうだ。
それから、彼女らは俺から言えば中立の立場にあるそうだ。今のところ、敵でも味方でもない。但し……」
言いながら、ドルティオークは、もう一度彼女の顔を濡れた布で拭く。
「俺がお前を危険に晒せば、即座に俺を処分すると言っていたがな。だが――」
ドルティオークは椅子から立つと、彼女の顔を覗き込むようにして、言う。
「お前が大切なのは、俺とて同じことだ。
リーゼ。お前は俺が死なせない」
言葉を終えると同時に、彼は、身動きできぬ彼女の唇に、自分の唇を押し当てた。
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