第34話
焦燥が、ティーンを支配していた。
武器を取り上げられたわけでもない。致命的な負傷を負わされたわけでもない。力を使い果たしたわけでもない。
無傷で、余力は充分にある。
にも拘らず、ティーンは追い詰められていた。
この決闘は――決闘と呼べるかどうかは疑問だが――ティーンのみが攻めているのである。
ドルティオークは、何も仕掛けて来ない。
ただ、ティーンの攻撃を悉く防いでいるのだ。
呪法は虚しくかき消され、剣は彼にかすりもしない。投げ付けた針やダガーは何本になるかも覚えていないが……全て、的から外れている。もはや、手持ちの針やダガーは三分の一も残っていないだろう。
相手は丸腰。使う呪法も、ごく短い防御系の詠唱のみ。
こちらが息を切らしているというのに、相手は平静そのものである。
「大海のかけらよ、大いなる恵みの雨よ、我が声に応え刃と化せ!」
ティーンの声に応え、超高圧の水の刃が出現する。だが――
「消えよ」
ドルティオークの一言で、それは消えた。
短縮詠唱は、一般的に、語数が多いほど強力となる。ティーンの呪法をかき消したのはたった一語――差は歴然だった。
不意に、ドルティオークが動く。一歩前へ出たのだ。
反射的に、下がるティーン。が、
「リーゼ。もうよすんだ」
ドルティオークは、殺意も敵意もなく、なだめるように言っただけだった。
――遊ばれている。完全に。
ティーンは、奥歯を噛み締めた。実力差があるとは思っていたが、これ程までとは――
「もういいだろう。こっちへ来るんだ」
「黙れ!」
萎えそうになる気力を奮い立たせ、叫ぶと、手にした剣に炎の呪法をかける。
炎を宿した剣を右手に、ドルティオークに向かって駆けるティーン。
相手が剣の間合いに入る直前に、左手を振り、袖に隠してあった鎖を伸ばす。
完全な油断からだろうが――鎖はドルティオークの右手に絡み付いた。
そのまま、燃える剣を振りかぶる。が、
ドルティオークは事もなげに、ティーンの手から剣を奪うと、後方へ投げ捨てる。更に、鎖の絡まった右手を引き、ティーンの身体を引き寄せる。
瞬時に、両手を後ろ手に掴まれた態勢となった。
「リーゼ。もう止めろ。お前では俺には勝てん」
耳元で聞こえる、優しい声。
「……殺せ!」
せめてもの抵抗で叫ぶ声。しかし――
「誰が死なせるものか。やっと帰ってきたお前を……」
返ってきたのは、その言葉と、口づけだった。
ティーンの手の戒めを解くと、ドルティオークは、ティーンの身体を自分の方へ向ける。
片手でティーンを抱き寄せ、もう片方の手で、ティーンの頬を撫でる。
「その金色の瞳……初めて出会った時のままだ。……美しい」
ティーンは、彼の手を振り払おうとするが、彼の力は強すぎた。到底、振り払えない。
ティーンの身体を、強烈な目眩が襲ったのは、そうしてもがいている最中だった。
――時間は、もうないらしい。
「猛き炎よ、全てを灰燼へと化すものよ、我が呼びかけに応えよ……」
覚悟を決め、詠唱を口にするティーン。
「無駄だ。俺には効かん。分かっただろう」
ドルティオークに効かないのは承知の上で、ティーンは詠唱を続ける。
「……今こそ一条の光と化し、我が敵を討ち滅ぼせ!」
虚空に、光が現れた。それは、次第に収束しつつ、ドルティオークへと向かって行く。
「防げ」
呟くような声。光は、その声を合図にしたかのように、突如進路を変えた。
急速に加速しつつ、標的へと収束する。
――標的――すなわちティーン自身に。
「!!」
間一髪、ティーンを抱え横へ跳ぶドルティオーク。すぐ側の地面が、オレンジ色に煮沸していた。
「リーゼ! お前は……」
驚愕を隠し切れず、自分の腕の中のティーンを見るドルティオーク。だが、
「……もう……遅い」
彼の声に応えたのは、不自然に息の荒い、ティーンの声だった。
「……一族の……無念を…………晴らせなかったのは……心……残りだ……が……」
ドルティオークは、今更になって気づいていた。自分の腕にかかるティーンの重みが、次第に増していっている。
「私は……お前の……ものに…………なる……気は……ない…………。
お前の……手に落ち……再び…………凌辱される……くらいなら……」
言葉半ばに、ティーンは目を閉じた。その身体から、急速に力が抜けて行く。
「リーゼ! リーゼ!!」
狼狽し、自分の手の中のティーンを揺さぶるドルティオークに、セイズが硝子玉を見せる。
「これは……まさか……」
セイズの手からそれを取り、絶望的に見つめる。透明な硝子の内側に、赤い液体が微量に付着していた。
「飲んだのか……?」
ドルティオークの呟きに、セイズは肩をすくめ、
「僕が気づいた時には飲み下してました」
「……何ということを……!」
もう一度、空になった硝子玉を見る。このような強い赤の毒薬は、一つしかない。
「……カイアスズリア……」
硝子玉を握り潰し、愕然とその名を口にする。
極めて強力な毒薬で、独特の赤みと苦みがあるため暗殺には向いていないが、自殺に用いられることは多い。解毒剤はあるにはあるが、カイアスズリア自体が希少性が高い上に、解毒剤の原料の希少性もカイアスズリア並に高いことから、まず手に入らない。解毒剤を作り出すには、ホーセルの粉末とレズラの実という二つの希少性の高い材料を捜しだし、それらを正確に調合しなければならないのだ。しかも、調合した解毒剤は一日と経たずに効果を失う。――つまり、解毒剤を予め作って保管しておくことはできないのだ。
カイアスズリアならば、服用後五、六時間で死に至る。今から解毒剤を探したのでは到底間に合わない。仮に材料を調達できても、調合する時間が無い。
「リーゼ! リーゼ!!」
いくら揺さぶろうが、微動だにしない。服用後に激しく動き回り、その上雨で体温を奪われているのだ。このままでは、五時間を待つまでもない。
「リーゼ……馬鹿な……」
ドルティオークが、死体と化しつつあるその身体を抱き締めたとき、ふと、雨が止んだ。
不審に思って見上げれば、空には星が瞬いていた。雨雲など元からなかったように。
「この
突然の声。振り向けば、そこには、オレンジ色の牛ほどの大きさの鳥を従えた女が立っていた。
深い赤の髪に、同色の瞳。身に纏うローブもマントも深い赤で、身につけた装身具も赤い石が使われている。
女も、鳥も、全く雨に濡れておらず、それどころか気配もない。現に、目の前に存在しているというのに、である。
「調合済みだ」
女は、それだけ言うと、小さなガラスの瓶をドルティオークに投げる。中に入っていたのは、微妙な赤紫の粘り気のある液体。
迷わず口を開けさせ、その中身を、既に冷たくなった唇の間に流し込む。だが、それがそのまま、口角から流れ出る。飲み込むだけの体力も残っていないらしい。
ドルティオークは、今度は自分がそれを口に含むと、口移しで飲ませる。完全に飲み込んだらしく、吐き出す気配はない。
「……礼を言う」
ドルティオークが呟くと、女は、
「その者が死ぬと困るのはこちらも同じだ。人たることを捨てた者よ。
我々は汝の味方ではない。中立、と考えて欲しい。今回はただ、利害が一致したのみ」
「……名を……聞かせてくれないか?」
女は、ドルティオークの言葉に嘆息し、
「我々に汝らの言うような名は存在しない。
……だが、正式名称は伝えておこう。
我は、セミ‐プレシャス プロトタイプ〇一三 コードネーム《ガーネット》」
「我は、セミ‐プレシャス プロトタイプ〇三八 コードネーム《スペサルタイト・ガーネット》」
女に続き、彼女の傍らの鳥が口を開いた。
「では、我々は失礼する。もう留まる用件もなくなった。
ただ、人たることを捨てた者よ、これだけは覚えておけ。
我々にとって、その者の死は何をしてでも避けるべきこと。汝がその者を再び死の淵へ追いやるなら、我々は汝の存在を消す」
「言われずとも……二度とこんな目には遭わせん」
「……それでいい」
ドルティオークの言葉に、そう呟くと、女は傍らの鳥ともども、炎となって消えた。
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