2
はっとして、目を覚ます。
目の前に広がっていたのは、部屋の天井ではなく、果てしなく広がる空。それも普段見るような空ではない。曙と黄昏をパレットの上で渦巻き状に混ぜたような、不思議な色をしていた。
やけに鼻を刺激するシナモンに似た香りに釣られ、上体を起こす。そこでわたしは今、ベッドではなく平原の上に寝転んでいたことに気づいた。
ここは、どこだろう。
辺りを見回すと、手元に何か大きな物があることに気づく。それに目を向けて、思わず声を漏らす。
そこにあったのは、わたしの背丈程の大きさをした鎌だった。アメジストの柄に、ラピスラズリの刃。間違いない。獏男から借り受けた〝夢を狩るモノ〟と瓜二つ、いや、そのものだった。
他の要素が点と点で結びつくのにも、そう時間はかからなかった。獏男の言葉で「夢」が強調されていた点。〝夢を狩るモノ〟が巨大化している異様さ。そして、この空間のどこか懐かしさを感じる点。もしかして、ここが彼の言っていた夢の空間だろうか。
得物を持って立ち上がり、また周囲を見回す。果てしなく広がる平原と空。しかし、その光景に何故か違和感を覚える。視界に広がる広大さと、感覚的に感じ取った空間の広さが一致していないような、そんな違和感を。この正体を探るべく、思考を巡らせる。
すると突然、手にしていた得物が突然震え出したのを感じ取る。見ると、その刃が微かな紫色の光を発し、同色の霧めいたものが溢れ出ていた。ただならぬ気配に、思わず身震いをする。
その時、周囲の空気が〝揺らいだ〟ことを肌で察知する。すぐに顔を上げた。
そこに広がっていたのは、異質な現象。果てしなく広がっていた平原の光景に突如として〝波紋〟が広がり、景色がぐにゃりと揺らいだ。そこから、鏡に似た半透明の壁が現れ……いや、もしかしたら既にそこにあったのかもしれないけど、すぐ手前に壁があることを目撃する。
何だろう、この壁は……。
その壁に指で触れようとした途端、手にしていた鎌がぶるりと震え出した。まるで、絶好の獲物を前に昂る、殺戮者の武者震いのようだった。壁に刃を近づけるほど、その震えは強くなっていく。
この鎌で、壁を斬ればいいのかな。
嫌な予感がする。わたしがわたしで無くなってしまうかのような。正直、不安で仕方がない。だけど……やってみる価値はある。
小さく息を吐いて、覚悟を決めるように壁を見据えて。
わたしは、思い切り鎌を振り下ろした。
襖を破るかの如く、容易く入る切れ目。様々な明色が混ざり合ったそれは、みるみるうちに広がって、やがて途轍もない吸引力でわたしを吸い込んだ。
そうして悲鳴を上げる間もなく中へと誘なわれ、気づいた時には、洋菓子の柔らかく甘い香りが鼻腔を刺激していた。
「……えっ?」
無意識に閉じていた目を開き、思わず声を漏らす。目の前に広がっていた景色は、先程までの平原と全く異なっていた。
平原の地は、空間内のあちこちに点在する雲の床に。おかしな色の空は、統一されたピンク色に。懐かしさを覚える空気感は、他人の部屋に踏み入れたような罪悪感に。更には、さっきまでいなかった白毛の子羊たちが、空中を走り回っていた。
また場所が変わった?
今度はどこなんだろう。
そんな疑問は、すぐに一つの答えへと繋がった。空間の中央部から流れてくる、身に覚えのあるシャンプーの香り。それと獏男が言っていた、夢の空間を横断するという鎌の特徴。それらがパズルのように、見事に嵌まった。
香りのする方へ目を向ける。中央部にあったのは、宙に浮かぶレース付きの白いベッド。そこでは、空飛ぶ子羊たちに囲まれて、一人の女子が笑顔を浮かべていた。
あの見るだけで腑が煮えくりかえる笑顔、見覚えがあった。いや、忘れるはずがない。わたしが憎む女。そして今回のターゲット……白石だ。
怒りの感情が奥底から浮き上がる。同時に、この状況に悦ぶわたしもそこにはいた。獏男の言葉は嘘なんかじゃなかった。つまり、この手で––––この得物で、アイツを亡き者にできるということ。こんな好機、逃すわけにはいかない。
感情の昂りに呼応して〝夢を狩るモノ〟も小刻みに震え出す。つい口元が綻んでしまう。そう焦らないで。すぐにその渇望を満たしてあげるから。
高鳴る鼓動を抑えつけて、覚悟を決めるように鎌を掴む力を強める。応じるように、その重量がふっと軽くなる。それなりに腕が痛むほどに重かった鎌は、百均に売っているような玩具の剣並みの軽さに早替わりする。
––––合わせろ。
そう語りかけるように、鎌がどくんと振動する。武器を振り回すのなんて生まれて初めてなのに、まるで振り慣れているかのように身体が自然と動いた。
そうしてわたしは、鎌を斜めに振り下ろし、虚空を斬った。
すると、その軌道上に一筋の切れ目が現れ、間もなく大きく開かれた。先程も見た、様々な明色が混ざり合った空間。その奥から、何やら謎の物体の群れが現れ、外へと勢いよく飛び出した。
その正体を探ろうと凝視する。それは漫画でしか見たことないような、気味の悪い生物。骨格のみで構築された容姿。人間のものと酷似した胴体。背中に生えた骨の翼。そして、イヌ科のものと思しき頭部。様々な生物の骨を取って付けたかのようなその異形は、両手鎌を構えて空間中を四方八方に浮遊していた。
「きゃっ! なに? 何が起きているの?」
白石の悲鳴がこっちまで聴こえてくる。ほんの少しだけ憤りが飽和するのと同時に、自分がやるべきことを理解する。そうか、この鎌であの怪物どもを呼び出していけばいいのか。
そうと決まれば––––。
わたしは走り出す。鎌を振り回し、空中に傷跡を残す。点在する雲の床を次々と跳び移り、夢の空間を文字通り引っ掻き回した。
次々に開かれる切れ目。続々と放出される異形の群れ。ケタケタと機嫌を逆撫でするような声で笑う怪物たち。ファンシーな空間が一瞬にして地獄絵図へと変貌するさまを横目に、思い切り嘲笑してやった。
ピンク色の空を異形たちが食い破り、裏に隠れていた果てしない暗闇を露わにする。さっきまで楽しそうに走っていた子羊たちも、異形の鎌に刈られ、ポンと音を立てて消滅する。この空間に残された原住民は、僅かな数の子羊と、空間の主である白石のみとなった。
その時だった。白石は窮鼠のように表情をこわばらせて、やがて覚悟を決めたように叫んだ。
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