第25話
夜の庭に静かに音楽が流れ始めた。
どこで、誰が演奏しているのかと見渡すと、入り口のダークブラウンの扉の前でエマさん達三人が楽器を奏でていた。
リチャードさんがヴァイオリン、アリスさんがヴィオラ、エマさんがチェロを奏でている。弦楽三重奏は比較的マイナーで、どちらかといえば四重奏が多い。ヴァイオリン一本少ない分、華やかさには欠けるけれども、しっとりとした演奏はこの庭の雰囲気にとても合っているように思った。
「私と踊って頂けませんか」
レオンハルト様は、両足を揃え軽くお辞儀をする。目をパチクリとして見返す私に、苦笑いを浮かべると、
「このような形になって申し訳ない。本当なら城の大広間で躍る姿を見たかった。ただ、俺は今宵リディと踊るのを楽しみにしていた。ファーストダンスの相手が俺でよければ、今から一曲踊ってくれないか?」
真っ白な思考回路は動く気配がない。
でも、この演奏が、庭が、私のためだけに用意されたものだとは理解できた。
この場所は優しさに包まれている。
苦しかった胸の奥で、暖かいものが広がって行く。
「ダンスを申し込まれた時の作法を覚えていないのか?」
呆然とした私を、レオンハルト様が眉を下げて見つめる。
作法。姉のデビュタントが羨ましくて、私も部屋の隅で一緒にダンスの練習をした。おままごとのようなものだけれど。確か、あの時……
記憶を頼りに、唇の両端を少し上げ頭を横に傾けるように頷いた。
「それでいい」
正解だと言わんばかりの笑みを浮かべると、さらに一歩踏み出して左手で私の右手を掬い上げ、右手で腰を引き寄せられた。整った顔が間近に迫ってくる。今までだって、抱きかかえられたりして近くで見た事はあるけれど、今回は周りの雰囲気もあり、その比にならないぐらい恥ずかしい。とりあえず、目線はレオンハルト様の肩ぐらいに……と思っていたら、
「目は合わすものだと教わらなかったのか?」
「……教わりました」
戸惑いながら見上げると、柔らかい眼差しがそこにある。私を雇う時の悪魔のような微笑みはどこにいった? と心の中だけで囁いた。
音楽に合わせ、足を踏み出す。レオンハルト様のリードに身を任せるようにして踊り始めた。
「レオンハルト様がここまで雇用主としての責任を感じていらっしゃるとは意外です」
「雇用主?」
「はい、レオンハルト様の命で猫を探した結果、仮面舞踏会に招かれて。あの時も責任感から私のエスコートを引き受けて下さいましたよね。そして、今日、舞踏会に浮かれていたのに、こんな事になってしまった私に同情して、こんな素敵な場を用意してくださるなんて、本当にありがとうございます」
感謝の気持ちを込めて、雇用主を賛美したのに、
レオンハルト様に先程までの笑顔がない。仏頂面だ。
……私、何かまずいこと言った??
「ふーん、そうか、そうなるのか」
「あ、あの?」
「まぁ、よい。いや、良くはないが今宵はそれでいい。ところでダンスはどれほど覚えているんた?」
どれほど……どれほどと言われましても。
「もともと、姉が練習しているのを側で真似ていたぐらいで。あ、それからスローワルツの基本だけは養母に教わりました」
その程度です、と小声で付け加える。
「……何か、その、姉のダンスを真似していた時の事で覚えていることはあるか?」
「ステップのことですか? 部屋の隅で、父の取り引き先の子供達と遊びの延長で踊っていただけなので、覚えてないですね。あっ、姉のダンスの相手をしていた父が時折姉を、こう、ふわっと持ち上げて回っていたのですが、あれは羨ましかったです」
遊び相手に頼んだけれども、二人してひっくり返ってしまった。宙に舞うドレスが綺麗で、羨ましくて。練習が終わった父にねだってして貰ったけれど、あれはただの、たかいたかい、だ。
「これか?」
その言葉と同時に、私の身体がふわりと持ち上げられた。違う目線から見る景色は先程までとは違って見える。庭の奥にある薔薇園も見えたし、噴水もさらにキラキラと輝いている気がする。
「これでいいか?」
地面に降りた私に、レオンハルト様はもう一度聞いた、今度は、はい、と頷くと、満足気に目を細め私を見つめる。私の口も自然と弧を描く。
ワルツが次の章に入った。
曲調が明るくなり少しテンポが上がる。でも、レオンハルト様は難しいステップを入れてこないので、なんとかついていける。ちょっと、数回、足を踏んだけれど。
そして私はこれでも踊り子。次第にコツを掴みレオンハルト様に教えて貰いながら難しいステップもできるようになった。
「肩に手を置け」
言われるがままに手を置くと、先程より高く持ち上げられた。
「すごい! お庭が見渡せます!!」
見下ろすレオンハルト様の表情は、いつもの仏頂面から想像できないぐらい柔和で、白い歯を覗かせ笑っている。
そして私を持ち上げたまま、くるくると回り始める。
ランタンの光が流れ、噴水が見えたと思えば、花壇の花々が残像のように見え
凄い! と子供のように笑ったのも束の間、
……えっ、ちょと待って……早い! 早すぎませんか〜?
「レ、レオンハルト様。目が……」
思わず頭がぐらつく。
「ま、待て、動くな。バランスが」
ドタッッ
私達は地面に倒れこんだ。でも、痛くない。フラフラする頭のまま上体を起こせば真下にレオンハルト様がいた。
「申し訳ありません! すぐに退きます」
「………くっくく」
「?」
「……ははははっっ」
可笑しくて仕方ないとばかりに額に手をあて、大きな口を開けてレオンハルト様が笑い出した。白い歯どころか喉まで見えるくらいの屈託のない笑いに、呆然としてしまう。
でも、まるで子供のように顔をくしゃっとして笑うその顔を見ていると、
「ふふふっ」
私まで笑いが込み上げてきた。
そのまま芝生の上に身体を投げ出し、レオンハルト様と向き合うように横になる。レオンハルト様も私の方に向き直ると、二人顔を合わせて
「ははははっ」
「ふふっ あはははっ」
たまらずお腹を抱えて笑い合った。
「あははっ、レオンハルト様、回り過ぎです」
「リディが動くのが悪い、はははっ」
時々、おでこをコツンとぶつけ合いながら、暫く私達は笑い続けた。そして、笑い疲れてゴロリと寝返り仰向けになった。
真っ暗な闇に、鈍く光る月と砂金のような無数の星。
いつの間にか音楽はやみ、広い庭には私とレオンハルト様二人。横に並び夜空を眺めている。
「すまない。俺が守ってやれなかったばかりに」
夜空を見上げながら呟く横顔に、先程までの笑顔はない。辛そうに眉間に皺がよっている。
「ありがとうございます。最高のデビュタントです」
レオンハルト様が、首だけこちらを向かせて私を見る。まだ辛そうなその顔に向かって、私は心からの笑顔で答える。
「凄く楽しかったです。レオンハルト様と踊れて、私、とても嬉しいです」
「……俺も、楽しかった。リディと踊れて」
にこりと微笑み合うと、私はもう一度空を見上げた。
「綺麗な夜空です」
「そうだな」
耳元で響く低音に胸が少しざわっとした。落ち着かないような、心地よいような、くすぐったいような不思議な感覚だ。
慣れない感覚に戸惑っているのを隠すように私は夜空を指差した。
「白鳥座が見えます。夏の大三角形の一つです」
「リディは、星に詳しいのか?」
「昔、一緒に遊んだ男の子が教えてくれたのです」
「男の子……名前は覚えていないのか?」
名前。
最近よく思い出すあの男の子。
喉元まで出掛かっているんだけどなぁ
「覚えていません」
「……そうか。では、あの星の名は?」
「アルタイルです」
「あっ、そっちは覚えているのだな」
「へっ?」
鈍い月光に優しく照らされたレオンハルト様の横顔は、ちょっと不貞腐れているように見えた。
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