第9話

しばらく走ったあと、馬車はゆっくりと止まった。


 レオンハルト様の歩けるか? の問いに頷いて降りると。

 まず私の目に立派な玄関扉が飛び込んできた。ダークブラウンの厳格な雰囲気のある扉は両開きで、高さは私の身長の倍ぐらいある。持ち手は金に細かな細工が施されていた。


 数歩下がっても、全体像を捉える事が出来ない立派な屋敷は、今まで派遣されたどの屋敷よりも大きかった。後ろを振り返ると、月明かりにぼんやりと噴水が浮かび上がり、微かに水音が聞こえる。庭は広すぎて、月明かりではどこが端かもわからないぐらいだ。


 どんな凄い屋敷に住んでいたの?

 侯爵と聞いてはいるけれど、

 財力はその上をいくのでは?


 ポカンとしていると、目の前の扉が開き年配の男女が出てきた。


「おかえりなさいませ。ご主人様」


 多分、執事かな。

 恭しく礼をしたあとで私に目を配る。明らかに尋常ではない格好だけれども、そんな事は表情に出さない。……プロだな。


「リチャード、部屋をひとつ用意しろ。それからエマ、彼女を湯殿に連れて行ってくれ。服は……」

「ナイトドレスがご入用でしたら、辞めた住み込みの侍女が忘れた物がございます。いつか取りに来るかもと洗濯をして片付けておりました。あとは、私の物がございますが」


 レオンハルト様はふっくらとしたエマさんに目をやる。微妙な間とエマさんの笑顔。


「うん、忘れ物の方にしよう。あと、食事を二人分、各部屋に運んでくれ」


 レオンハルト様は執事と侍女に指示を出すと、私にゆっくり休め、とだけ言って先に屋敷に入って行った。


 エマと呼ばれた――おそらく侍女――が私を湯殿へと案内してくれた。

 背中に回された手から、いたわりと戸惑いが感じられる。


「先週からレオンハルト様の元で翻訳の手伝いをしているリディです。危ない所をレオンハルト様に助けて頂きました」

「そう、大変だったのね。怪我は頬だけ? 包帯とか必要だったら言ってね」

「ありがとうございます。頬の擦り傷だけです」

 

 本当は右手も少し痛むけれど。


 私の言葉に、エマさんはホッとしたような笑みを溢した。

 その包み込むような笑顔に、身体の力が緩むのが自分でも分かった。


 用意された湯殿は広く、足を伸ばしてもまだ余裕がある。石鹸も質の良い物で、いい匂いがするし泡立ちもよい。少しだけ生まれ育った家の湯殿を思い出す。もちろん、こんなに広くはなかったけれど。



 その後、用意されたナイトドレスの上にガウンを羽織り、案内されるままに準備された部屋に入った。


 えっ!?


 予想外の部屋に思わず言葉を失う。


「……あの、この部屋に泊まってもいいのですか」

「はい、レオンハルト様から客間を用意するように言われましたので」


 広い部屋の奥に大きな天蓋付きのベッド。手前の机には温かな料理とワインも置かれている。

 さすが侯爵家の客間……って、私こんな部屋に泊まれる身分ではないのだけれど。


「レオンハルト様に、一緒に食事をされては、と申し上げたのですが、なんでもナイトガウン姿の女性とディナーを摂るのはマナーに反するとか。お若い割に堅い所があるのですよね」


 少し呆れたようなその物言いに思わずクスリと笑ってしまう。


 まるで、我儘な坊ちゃんを宥めるようだ。年齢から考えてレオンハルト様が子供の頃から仕えているのだろう。不敬とも取れる内容なのに、その口調からは愛情しか感じられない。


「お気遣いありがとうございます。でも私はレオンハルト様と同じテーブルで食事をできる身分ではありません。この部屋も分不相応でございます。どうぞ、これ以上のご厚意は不用でございます」


 私はそう言ってゆっくりと頭を下げた。


 リチャードは私の態度に感心するように目を細めた。


「レオンハルト様からはマリアナ派遣所の侍女と聞いていますが、噂通り質の高い侍女ですね。いや、侍女と言っては失礼なぐらい、しっかりとした淑女教育を受けている」


 リチャードは、私を見て何度か頷いたあと、朝食は一緒に摂るように勧めてきた。勿論、断ったけれど、最後には強引に押し切られてしまった。


 一人になった私は、豪華な夕食が置かれたテーブルに着く。スープとサラダ、それからメインの皿とパンがまとめて並べられていた。本来なら一品ずつ給仕して出す料理だけれど、まとめて置かれている事にホッとする。これで一品ずつ運ばれてきたら、本当、居た堪れない。


 久々だなぁ。


 私は背筋を伸ばして、スプーンを持つと静かにスープを掬いあげた。昔教わった、いや、叩き込まれたテーブルマナーを思い出す。ゆっくりと口に運び飲み込む。次にナイフとフォークとを取り食事を進める。


 もっと小さく切りなさい。

 口を大きく開けすぎ。

 グラスは下を持って、音を鳴らさずテーブルに置く。


 厳しくも優しい母の声を思い出す。父は、楽しく食べれば良い、と母がいない時私の耳元で囁くおおらかな人だった。


 食事を終え、食器をワゴンに載せて廊下に出すと、寝台に横になった。


 横になったとたん、あの恐怖が蘇って思わず布団を頭までかぶる。


 大丈夫、大丈夫。

 もう大丈夫。


 温かなお風呂にも浸かった。

 泥は落ちた。

 そもそも服が裂かれただけだ。


 お腹もいっぱい。

 身体を包むのは清潔なシーツと、沈むぐらい柔らかなベッド。


 もう大丈夫。


 そう、なんども呟きながら私は目を閉じた。

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