第7話

重たい身体をベッドから引き剥がすようにして起き上がる。


 眠たい。寝足りない。


 レオンハルト様から直接雇用され一週間が経つ。


 料理長や給仕頭に何と言ったのか知らないけれど、朝と昼の給仕と朝昼の皿洗い、雑用が残り一ヶ月の私の仕事となった。つまり、朝六時から夕方五時までは今まで通り働き、その後レオンハルト様の執務室に向かう。

 三時間と聞いていたけれど、だいたい九時ぐらいまで働いている。

 三時間を超える分は四割増で交渉済みだ。


 私の住んでいる下町は治安があまり良くないので、遅い時間の独り歩きはちょっと避けたい。だいたい、十時過ぎると酔っ払いに絡まれる確率がググッと上がってくる。その事はダグラス様にも伝えていて、配慮もして貰っている。

 お金は欲しいけれど、一応、純潔も守っておきたい。少なくとも、ドブに捨てるような事はごめんだ。


 執務室には、入って左手奥に小さな机が一つ増えてそこが私の席となった。行けば、いつも紙の束が積まれていて、それを翻訳するのが私の仕事。翻訳の内容は、貿易の協定書、国同士の取り決めから隣国で行われるパーティーの招待状まで幅広い。これらを翻訳して、関係省庁に届けるのが本来の流れ。


 でも、ここまでしてるなら続きも頼むよ、とか。

 穴だらけで雑な書類を渡されて、上手くやっといてよ、とか。


 本来以外の業務がやたらと回ってくる。

 押し付けられる。

 だいたい、皆、貴族学校出てるんだから最低限の語学は出来るはずなのに。


 私の仕事はあくまで翻訳だから、押し付けられた分はレオンハルト様とダグラス様が引き受けている。レオンハルト様が若いのをいい事に、年配の高官は遠慮がない。

 大変だな、とは思うけれど、巻き込まれた私も大変なので、そこはもう同情はしない。




 出勤して、私はいつものように調理場の隣の小部屋に入り、目の前の状況にため息をついた。覚悟はしていたけどね。


「はぁ……とうとう始まっちゃったかぁ。予想より早い……」


 通いの侍女の制服は週に一回洗濯に出す事になっている。部屋の隅に置かれた布袋に入れて置けば、洗濯係の下女が取りに来て洗ってくれる。私は確かにその中に入れた。それなのに、床にグシャッと置かれた私の制服は油と料理の匂いが染み付いたままで洗われた形跡はない。

 暗い気持ちで持ち上げ、切られたり破られたりしていないかチェックをする。幸いまだ・・そこまでされてはいないけれど、スカートには幾つものシワが入っていてみっともない。


 私がレオンハルト様の仕事を手伝うという話は翌日には皆に知れ渡った。

 

 どうしてなの?

 なんて言って取り入ったの?


 とその日は会う人、皆に聞かれたけれど、曖昧に笑うしかなかった。語学が得意だと言えばどこで学んだか説明しなきゃいけないし、葡萄酒の話は誰にも言えない。面倒だからとりあえず笑うしかなかった。


 その対応がまずい事は経験として知っている。でも仕方なかった。  


 そして、次の日から私に対する態度が少しずつ冷たくなっていった。


 男爵令嬢からしてみれば、平民の派遣侍女が自分達を差し置いて、と思うのは仕方がないところ。まして相手はレオンハルト様とダグラス様。


 お二人とも見目麗しく、身分も高い。


 ダグラス様は伯爵家の三男で、レオンハルト様とは貴族学園からの同窓生。勉学ではレオンハルト様を上回る成績だったそうだけれど、剣術が全く奮わず、その年の首席はレオンハルト様になったとか。令嬢が淑女の振る舞いが必須科目なのに対して、令息は剣術が必須らしい。


 女の嫉妬は面倒だし、集団心理は恐ろしい。

 何年も派遣侍女をしているうちに、随分図太くなったけれど、決して気分の良い物ではない。


 涙は出ないけれど、ため息は出る。

 愚痴はいわないけれど、心の中で悪態はつく。


 どうしたものか、そう呟いてシワだらけの制服に腕を通した。





 いつものように朝の給仕を終え、皿洗いも無事に終わった。

 そこまでは。

 でも、


「あぁ、ごめんなさい。手が滑ったわ」


 カレンがちっとも申し訳なさそうに言う。手で隠しているけれど、少し肉厚な唇の両端が上がっているのがはっきりと見える。


 私の手元には、捏ね終わったばかりのパン生地が入ったボウル。それが水に浸っている。

 あとは発酵させるだけというタイミングで、ボウルの中にコップの水をこぼされたのだ。

 パン作りは小麦粉と牛乳の割合が要。多過ぎても少な過ぎてもだめ。ベチャベチャになったり、パサパサしてまとまらなかったりする。


「あら、これじゃ、だめね。もう一度やり直して」


 彼女の声に、背後から笑い声が聞こえる。二、三人ぐらいだろうか。

 チラリと厨房の奥を覗くと、料理長が裏口から出て行く後ろ姿が見えた。


 この、事勿れ主義が!! とその背中に向かって心の中で叫ぶ。逞しい身体はなんの役にも立たないと早々と見切りつける。


「分かりました」


 私は新しいボールを用意して、材料を入れていく。

 

 食べ物、粗末にするなよな! って言いたい。


 他にもいろいろ言いたい。

 言いたいよ、もちろん。

 

 でも、いろんな言葉を飲み込んで新しい生地を捏ね始める。ついでに、怒りを込めて生地にパンチもかましといた。


 でも、顔には出さない。出さずにパンチ。

 動揺する姿なんて見せてやらない。見せずにパンチ。

 そんな私の態度が火に油を注ぐ事も知っているけれど、これは私の意地の問題。

 ひたすら、淡々と仕事をこなしてやる。



 

 そんな事があって、お昼ご飯を食べる時間がなくなってしまった。隙を見て料理長からお昼は貰ったけれど、雑用を次々と言われてそれを口にする時間が取れなかった。


 お腹すいたなぁ、と思いながら長い廊下を早足でレオンハルト様の執務室に急ぐ。いつもより一時間も遅れてしまった。

 手にはいつもの鞄と侍女服を入れた布袋。

 明日休みで良かった。洗濯の回収は週に一回。あと一週間も汚れて臭う侍女服を着るのは耐えられないから、寮に持って帰って手洗いをするつもりだ。


「失礼します」


 ノックをして入ると、


「遅い!!」


 レオンハルト様の叱責が飛んできた。


 いや、誰のせいでこんな目に遭ったと思っているんだ!? 私の平和な日常を返せっ!! 

 なんて、もちろん言いませんよ。念力で送るぐらいの事はしますけれど。


 「申し訳ありません」


 頬を引き攣らせながらそれだけ言うと、左奥の小さな机に向かう。相変わらずそこには書類の束。


「給仕の仕事が忙しかったのか?」


 優しい言葉をかけてくれるのはダグラス様。干からびた心に染み入ります。

 でも、手に持っているのは追加の書類ですよね。


「悪いけど、これも含めて今日中にお願いするよ。明日、朝一で担当省に持って行きたいから」

「はい、でも帰りが遅く……」

「今回は残業代とは別に私からも特別手当をだ「分かりました!!」」


 残業確定。でも、私より疲れた顔のダグラス様見ていたら何も言えない。


「ダグラス様はいつお休みされるのですか?」

「明日、これらを持って行ったら休むつもりだよ。レオンハルト様にも休んで貰う。強制的にでも休日作らないと延々と働き続けるからね」


 チラリとレオンハルト様を見ながら小声で話す。

 泳ぎ続けなきゃ死んじゃう魚かってぐらい、このお二人働いているからなぁ。

 月に二回ぐらい、強引にこの執務室を閉める日を作っているらしい。言い換えれば、お休みは月に二回。

 うーん、見目麗しいお二人が未だに独身なのはきっとこのせいね。


 書類を受け取り、空腹に耐えながら仕事を進める。いつもより集中力がもたない。とりあえず水筒のハーブティーで喉の渇きだけ潤すけれど、お腹は膨れない。


 私がいつも帰る時間が来た頃、ダグラス様は別のお仕事があるから、と部屋を出られたので図らずもレオンハルト様と二人っきり。黙々とお仕事をされる横顔をちらりと盗み見する。

 カレンが羨むのも分からなくはない。私は全く興味ないけれど、婿探しに来ている男爵令嬢にとってこの環境は夢のような物かも知れない。王宮内でも屈指の美丈夫と二人きりになる機会なんてそうそうないもの。

 だからといって、彼女を許すつもりは微塵もないけれど。

 

「どうした?」


 私の視線を感じてか、レオンハルト様がこちらを向く。


「いえ、何でもありません」

「そうか、俺は少し席を外すが仕事は何時ごろ終わりそうだ」

「あと一時間ぐらいです」


 私の返事に分かった、と答えレオンハルト様は部屋を出て行った。


 執務室には私の一人。

 鞄の中からゴソゴソと昼食のパンと水筒を出す。


 もう、夕食だな。


 そんな事を思いながら、パンに齧りつく。固くなっているけれど、中に挟まった鶏肉も冷たいけれど美味しい。空腹は最大のスパイスって本当だ。

 

 ちょっとやる気が復活した。翻訳のスピードが上がり、私は予定より早く仕事をやり終えた。

 頑張った。私。誰も褒めてくれないから自分で褒める。

 書類をレオンハルト様の机に置いて、やっと一日の仕事を終えたと伸びをする。

 そして、レオンハルト様が戻る前に執務室を後にした。

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