第6話
朝の給仕が当番でない日は、十時に出勤すれは良い。だけど、今日は一時間程早めに出勤した。
厨房の横には、通いの者が黒い侍女服に着替える小部屋がある。いつもは一番にそこに向かうけれど、今日はその前を素通り。
そのまま奥の厨房の扉に手をかける。
この扉、蝶番が錆びていて開けるたびにギィギィと音が鳴る。普段は気にならないんだけれど、今日は慎重にゆっくりと開ける。顔だけちょこんと覗き込んで目を動かして見回す。
入って右手側に調理場、目の前には出来上がった料理を並べる大きなテーブル。左手奥にはコップやワイングラスが並ぶ棚がある。
朝の給仕がまだ終わっていないようで、侍女の姿はない。料理人達もひと段落したようで、調理場の隅で固まって雑談をしている。
狙い通り、これは、いいタミング。
このチャンスを逃すまいと、
私は少し開けた扉の隙間から身体を滑り込ませて、身を屈めながら左手奥の棚に向かう。
大きなテーブルには、昼食に使うであろうお皿がうず高く積まれているので、私の身体は調理場からは見えない。足音を立てないように気をつけて棚に向かうと、下の引き戸に手をかけた。
昨日、こっそりと飲み残しのワインを水筒に注いでいたら、下女達が余ったパンを貰いに来て。
焦って、慌てて引き戸に水筒を締まったまではよかったんだけれど、そのまま忘れて帰っちゃったんだよね。
水筒を手に取り振ってみると、中でチャポチャポンと液体の音がする。
私はそれを持つと、来た時と同じように足音を立てないように気をつけて、調理場を出る。そして、横にある更衣室にするりと入ってガチャリと鍵をかけた。
まだ、誰も来る時間ではないけれど、念のため。
通いの侍女はそれほど多くはないけれど、狭い部屋は数枚の服でいっぱいになっている。だから、一度に着替えることができるのも二人まで。
王宮って聞いてたから、どれだけ立派なのだろうって期待していたけれど。下働きの者が使う部屋なんてどこも同じような物なのね。
私はそれらを強引に押しやり、スペースを作ると、埃と油の匂いが染みついた部屋の隅にある小さな椅子を引っ張りだして、腰掛けた。とりあえず水筒が見つかった事にホッとする。
だって、私の失態で、派遣所の信頼が落ちれば皆んなが困ってしまうもの。そこまで考える私は偉いと思う。ハンナなんか、割と自由にやらかしているもん。
とりあえず、中身を確認。
蓋を開ければ酸味の効いたアルコールの匂いが鼻をくすぐる。
よかった。
誰かに飲まれた形跡もなし。
私は少しだけそれを口に含むと、きゅっと強く蓋をした。
よし、バレてない。バレてない。
今日、私が給仕したのは、王女様のクリスティ様と婚約者のセドリック様。
隣国、カーデラン王国の第四王子でいらっしゃるセドリック様は、今はこの国に留学中。
ハザッド王国とカーデラン王国は連盟国として同盟を結んでおり、王族や公爵、侯爵家の令息が留学生として毎年のように行き来している。
セドリック様は第一騎士団に入っており、日々訓練に勤しんでいらっしゃるらしい。で、週に一度の休みには今日のようにクリスティ様と一緒に過ごされる。
クリスティ様は、末娘らしい我儘と王族らしい高慢な性格なんだけれど意外な事にセドリック様とはうまくいっている。
というのも、
クリスティ様の気まぐれや我儘はセドリック様にとって何よりのご褒美だからだ。いるのよね、振り回されることに喜びを感じる人間って。いや、本当、世の中うまく出来ている。これにあれは、ある意味最強の組み合わせ。お二人は強い絆で結ばれることでしょう。
そして、仲の良いお二人はゆっくりと食事を楽しまれる。だから、給仕が終わったのはいつもより遅い時間だった。
調理場に戻った私に、料理長は遅かったなと言いながらから昼食を渡してくれた。今日はパンとハムと茹で卵だ。それらと小さなナイフを布で包む。隣の小部屋に行って鞄に入れると、王宮の北側にある裏庭に向かった。鞄の中にはもちろんあの水筒もある。
裏庭は緑に囲まれた静かな場所で、ベンチもいくつかあるけれど、今日は先客で埋まっていた。
いつもより遅い時間だからなぁ。
出遅れてしまったみたい。
キョロキョロと見回すも、ベンチだけでなく花壇の近くや木の下にも人がいる。
どこで食べよう。
いい場所には先客がいる。
そのうち、裏庭を通り過ぎ角を曲がれば王宮の西側という所まで来た。この辺りは背の高い木が植えられいて、木陰が多いから夏場は人気。でも、今の季節、陽気な春の日差しを遮るこの場所に人影はない。
ここにするかぁ。
もう歩き疲れたし、お腹はペコペコだ。
私は手頃な木の根元にハンカチを広げ座った。
パンを手で割いて中にハムを挟む。持ってきたナイフで茹で卵を輪切りにして同じように挟むと大きな口でパクリと食らいついた。淑女教育も受けてはいるけれど、侍女の今は気にする必要はないでしょう。誰も見ていないし。
モグモグと咀嚼しながら、何げに目線を上げると目に入ったのはレオンハルト様の執務室だった。昨日の惨事があったからか、窓は固く閉められている。
思い出すと、少し胃がキリリと痛む。
パンを咀嚼して飲み込むと、次は水筒に手を伸ばす。いつもはハーブティーを入れているけれど、今日は仕方がない。
そう、仕方ないんだもん。
自分自身に言い訳しながら、一口、二口。
ハンナ程ではないけれど、これぐらいで酔うほど弱くもない。ちょっと優雅な気分で残りのパンを食べようと口を開けると、木々の向こうから大股で近づいてくる人影が見えた。
誰だろ、と思うのと同時にレオンハルト様だと分かった。つまりはすごい速さで歩いて来る。
いや……走って……来てる?
どうしたんだろう。
キョロキョロ周りを見回しても、この辺りにいるのは私だけ。どう考えても、目的はわたし。
嫌な予感と逃げ出したい気持ちでいっぱいなのに、あまりの迫力に身体が動かない。あっという間に私の前まで辿り着いたレオンハルト様は、素早くしゃがみ込み両手を伸ばしてバン!と木の幹に手をついた。
私の身体はレオンハルト様の両腕の間に挟まったような状態で、右にも左にも逃げられない。背中には木があり、目の前には綺麗な顔がある。
美人は怒ると怖いと言うけれど、美丈夫もかなりの迫力。頭の片隅でそんな悠長な事を考えながら、実際はあまりの迫力に固まってしまう。
「おい、昨日のあれはどういう事だ?」
「……も、申し訳ありません」
なんとか謝罪の言葉をひねりだしたけれど、レオンハルト様は全く納得されていないご様子。ていうか、改めてここまで怒りに来るって執念深すぎる。
「謝れと言っているのではない。どういう事かと聞いているのだ」
少し声を和らげるものの、手は木につけたままだ。
どういう事とは?
窓を開けた理由なら、新鮮な空気を部屋に入れたかったからだけれど多分求められている答えはそれじゃない。意味が分からず、首を傾げる私を見てレオンハルト様が大きな溜息を一つついた。
察しが悪い私に苛ついてるみたいだけれど、
言葉が足りなさすぎる。
その点においては、私は悪く無いと思う。
レオンハルト様は、いつまでたっても、会話を理解しない私に眉を顰めると
「お前が拾い集めた書類の事だ」
低い声で煩わしげに告げてきた。
あの書類ですか。
あれがどうしたのだろう。
「何枚か足りませんでしたか? できるだけ揃えてお渡ししたのですが、間違っていたら申し訳ありません」
頭を下げる私に、そうではないと首を振る。ライトブラウンの髪が木漏れ日の下でキラキラと輝いた。
「それがどういう事だと聞いているんだ」
まだ意味が分からない私を相手に、レオンハルト様は距離を縮めてくる。息がかかりそうな距離感に逃げ出したくなるけれど、背中にあたる大木が邪魔をして出来ない。
数センチ先にある淡いブルーの瞳は爽やかな色をしているのに、なぜだろう、射るような鋭さを感じる。
「どうして
……あっ、
やばい。
さあっと血の気が引いていく。
「あれだけの速さで、数カ国が混じって書かれた書類を内容ごとに分けるだけでなく、順番通りに並べていた。宮廷内の優秀な文官でもあそこまで正確には出来ない」
射るような視線の先にいる獲物が自分だと直感し、思わず顔を背ける。冷や汗がたらりと額から流れ落ちる。数カ国の異国の言葉に長けている娘は珍しい。目立つ事はしたくないので内緒にしていたのだ。それなのに……
レオンハルト様の長い指に顎を掴まれ、もう一度前を向かされる。
ごくりと生唾を飲む。
「……以前派遣されたお屋敷で、お、お嬢様のお世話係をしていた時に、お嬢様と一緒に学ばせて頂きました」
「ほう、海の向こうの小国の言葉までもか?」
頭をフル回転させ、言い訳を考える。
「…………派遣所の所長であるマリアナは元は旅役者で、……異国の言葉に精通しています!!」
それは嘘ではない。でもマリアナに教わった事はない。
本当は子供の頃に父や家庭教師から教わったのだけれど、生家の話はしたくない。だから、語学ができる事は伏せていた。
レオンハルト様は納得はされていないようで、まだ私を解放してくれない。
心臓がバクバクして、全力疾走したあとのようだった。どうにか身体を少し捻り、鞄を引き寄せようと手を伸ばす。
でも、私より早くレオンハルト様の手が伸び鞄を奪われた。
「お前を雇う」
突然の申し出に目をぱちくりさせていると、
「今の仕事をしながらで構わない。一日三時間程だ。給仕頭には俺から話をつけておくので、そっちの仕事が終わってから来ればよい。給金は弾む」
給金は弾む、その言葉に耳がピクリと動く。
「あの、それはおいくらぐらいですか?」
「そうだなぁ、……お前、いまいくら貰っているんだ?」
なる程、具体的な案は持っていない。
とりあえずこいつ使えそうだ、と直感的に思って、
思わず行動に出たという感じかな。
おそらく、相場をしらない。
つまり、カモになる
この人と関わったら他の侍女から何と言われるだろうか、と考えると迷惑料も加算しなくてはいけない。
「今のお給金は月に銀貨二十枚です」
うそ、本当は十五枚。こぶしをぎゅっと握り堂々と答える。
「分かった。三時間で同金額出そう」
おっ、さすが侯爵様。これならもう一言行けそうだ。ゆっくり深呼吸をして、
「さ、三十枚は頂きたいです」
「ほう、三十枚か」
疑わし気に私を見る目が何だか怖い。何故か嘘を見破られている気がする。
「はい、専門職ですので。…侍女の給仕と難易度が違いますから!」
確かにそれはそうだな、と呟くレオンハルト様。
でも、急に何かに気づいたよな表情をする。
そして、なぜか鼻をひくひく、匂いを嗅ぎ始める。
「ほぉ、なるほどな」
口の片側だけに笑みを浮かべると、いきなり無遠慮に私の鞄に手を入れ水筒を取り出した。蓋を開け鼻を近づけて匂いを嗅ぐと、次の瞬間、ごくごくと喉を鳴らし飲み干す。
まずい!!
私の飲みかけなんだけれど?
いや、気にするのはそこじゃない!!
「かなりの上物だな。庶民の給料一年分といったところか」
「…………」
「飲み残しを水筒に移しただけだろう? 心配するな、俺はそれぐらいで罪には問わない。俺はな」
そう言うと、今度は両方の口の端をゆっくりと上げていく。目の前にあるのは、恐らく誰もが見惚れる極上の笑顔。
だけど、気のせいかな。
私の目には悪魔の角と翼が見えた。
はっきりと。
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