第5話

疑惑の過去


 金曜日は疲れているのか、淋しいのか脱力して過ごして、土日は夫がいたり、子供がいたりする。でも起きて来るのはゆっくりだから、私も少しゆっくりめに起きて、家事を始める。ふと夫は浮気をしていたかも、と過去の日々が胸に過る。


 子供たちが二、三歳の頃、夫は帰りが遅くなっていった。多分。私はいつも子供たちを寝かせようと早めに寝室に行っていたのだが、次男が私が眠るまでなぜか寝なかった。だから眠ってもまたすぐ起きようと思うのだけど、毎日、公園に連れていったり、家事をしていて、日中の疲れで深い眠りに入っていく。夫がいつ帰ってきたのかなんて知らない。ただ一度、深夜一時にシャワーを浴びる音を聞いた。でもそれも私は起きることができなくてそのまま吸い込まれるように睡眠の泥に引き込まれる。


 朝、起きると夫が横で寝ている。


 ぼんやりした記憶で夫に尋ねることはしなかった。


 そんなことが何度もあった。


 小さい子どもを抱えて、私は夫を疑う事のは無理だった。あの頃も毎日、毎日、早送りで過ごしていた。ただ子どもたちの笑顔が私の支えになっていた。


 子供たちが成長するにつれ、いつの間にか夫の帰宅も深夜になることはなかった。そのままそのことは曖昧になり、人並に家族旅行もした。人生のセレモニーと言える子供たちの入学式、卒業式も中学生までは二人でそろって出かけた。



 コーヒーを自分のためだけに入れる。


 夫は私以外の女性を愛したのだろか。なぜ家族を捨てなかったか。遊びだったのか。それとも情が残っていたのか、あるいは体裁のため…。そもそも私は愛されているのだろうか。


 冷蔵庫をあけて、消費期限が三日過ぎたピザをオーブントースターに入れる。その上にチーズをさらに乗せた。こうして温め直したら、まだ美味しく食べれる。


 窓際に飾った多肉植物に少し水を上げる。


「愛なんて…とうの昔に消えた? 私も?」


 オーブントースターからチーズの匂いが流れ出す。そろそろかな、と思って覗き込んだ時、夫が起きてきた。


「おはよ」


「おはよう。朝ごはんは何がいい?」


「同じのでいいよ」


「もうないの。これ消費期限過ぎてる」


「じゃあ…何でも」


「ご飯でもいい?」


 頷いてソファに腰を下ろしている。冷凍していたご飯をレンジにいれて、お湯を沸かす。インスタントの味噌汁をお椀に入れる。納豆のパックを取り出して、並べた。


「卵食べる?」


「うん」


 相変わらずこっちを見ずにリモコンを手にした。私は温めたフライパンに油を引いて卵を落とす。子供たちの分も一緒に作っておく。


 出来たものをテーブルに並べて、私は洗面台に向かい顔を洗う。そして化粧をして、サブリナパンツを履いて、プルオーバーを着て、ダイニングに戻った。まだ夫はリビングのソファの上にいる。


「できたよ。私、出かけてくる」


「え?」と振り返った時には玄関にいて、靴を履く。玄関に置いた香水を少し振りかけて表に出た。


 小さな鞄には口紅とお財布しか入っていない。


 私は昔から持ちものはミニマリストだった。子供ができてママバックを持つようになって、あれこれ持ち始めたけれど、昔はあれこれ持つことはなかった。


 飛び出して駅に向かう。絵画教室の駅にパン屋兼カフェがあったはずだ。私はそこでモーニングを食べよう。わくわくしてきた。家のことは知らない。子供たちはどうせ昼近くまで寝ているし、目玉焼きは作っておいておいたから。




 駅について、私はパン屋兼カフェの扉を押すと、そこに先生がいた。


「え?」


 お互いに顔を見合わせる。


 どうやらお互い、モーニングを食べに来たらしい。先生はこれから大学に向かうのに、ここで食事をしてから行くつもりだと言っていた。せっかくなので、と一緒のテーブルについた。


「グーテンモルゲン。おはようございます」と挨拶をしてくれる。


「グーテンモルゲン」と私も返した。


 何を話したらいいのか、思わず私は家から飛び出してきたことを告げた。


「何もしないで座ってて。ご飯作っても、呼びかけないと来てくれなくて。何だか…腹立だしくなって」と言うと、笑ってくれた。


「それは耳が痛い」


「でも…先生は外で食べられてるんですから、少なくとも奥さんの手を煩わせてはいないじゃないですか」


「…昔はそうでしたよ。ただ…今は脳梗塞で倒れて…。まぁ、幸い予後が良くて日常生活は送れるようにはなりましたけどね。自分のことは自分でしようと…」


 私はそんなことを想像もできなくて、そしてそんなことを聞いてよかったのか、分からないまま先生を見つめた。


「だからなるべく早く帰ってあげようと思っていつもお断りしてたんですよ。…でも息抜きは必要ですしね」


「…そうでしたか。誘ってしまって」


「いえいえ。やはり…病気は良くないです。心まで落ちてしまう」


 家を出たいと言っていたことはそう言うことだったのか、と私は思った。


「だから最寄り駅にある絵画教室に週一回通うことにしたんです。日常生活は送れるようになったとは言え、彼女にとって…完全に元に戻ったわけじゃないですから。衝突することも多いですよ」


「奥様の気持ちが落ち着かれるといいですね」


「それが何よりの望みです」と言って少し遠い目をした。


 運ばれてきたトーストとコーヒーをゆで卵を私は悩んで、卵の殻を割ることから始めた。


「絵はもう描かないんですか?」と先生に聞かれる。


「…絵を描く理由がずっと分からなくて。私は…本物そっくりに絵を描きたいだけで、そこに意義も主張もなくて…」と言いながら、卵の殻をむく。


 卵は上手に茹でられたのか、綺麗に剥けていく。


「何かを表現できるっていうだけですごいと思いますよ」と言って、先生はかつてドイツで見たという前衛ダンスの話をしてくれた。


 躍動感溢れる動きと、しなやかなダンスは人間の限界すら無限に変えたと言う。私は感心して相槌を打ったが、先生はその後、すごくまじめな顔をして


「でもさっぱりその意味は分かりませんでしたけどね」と言ってから笑った。


「え?」


「そういうものでいいんじゃないですか? 意味なんて分からなくても感動できますよ」


 心が何かに打たれた気がする。


 あの頃、もし今の言葉をかけてもらえたら…と私は思った。


「あ…りがとうございます」


 零れそうになる涙を必死で堪えた。


「…絵を見てもらえますか? 学生の頃に描いたのを…写真に撮ってて」


「それは楽しみです。次の木曜日に持ってきてください」


「はい」


 だれかに楽しみにされることなんてあっただろうか。


 先生は授業があるから、と急いで食べて、先に席を立った。


「アウフヴィーダーゼーン、またお会いしましょうという意味です」


「はい。アウフヴィーダーゼーン」と私も習って言って手を振った。


 描いてもいい。そう誰かに言ってもらいたかった。



 家に帰ると、少し焦げたピザがトースターの中で待っていた。リビングは誰もいなくて、今起きてきたらしい次男が降りてきた。

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