第4話

早送りの日々


 金土日月火水。木曜日が終わって、金、土、日、月、火、水を私は一人で早送りしている。水曜日になったら、明日が待ち遠しくなる。


 だから前日の水曜日は意味もなく手の込んだご飯を作ったりする。余ったら、木曜日、家で食べる家族が食べればいいと思って、たくさん作る。木曜日の朝に炊飯器にお米を用意する。ずっとしまっておいたルビーのピアスを耳に飾って、久しぶりに買った香水をつける。


 絵を描くのだから長い髪は後ろでまとめる。


 ボートネックの黒いTシャツ七分袖に黒いサブリナパンツ。赤くて細いベルトを通した。私は全身の鏡で自分を見た。久しぶりにこんな身体にフィットした格好をした。悪くない見た目だけど、外に出て行くのは恥ずかしくて、オーバーサイズのベージュのカーディガンを羽織る。


「夜だし…。羽織りものを着て行った方がいいわね」と私はまた自分に言い訳をしていることに気が付いた。


 いつもロングスカートにすっぽり身体のラインを隠すセーターか、プルオーバーを着ていた。今の私は体が軽くなって、どこにでも行けそうだ。早く夜にならないかと思ったけれど、考えてみれば、さっさと家に出て好きなことをしてもいいのだ、と気が付いた。


 一人で映画を見に行こうと、私は大きな画板を持って、昼過ぎから家を出た。近所の人に会いたくなくて、足早に駅に向かう。


 映画館に着いた時点ですぐ上映される映画の中で、洋画のアクション映画にした。私は泣きたいわけでもない。恋したいわけでもない。人生の含蓄を知りたいわけでもない。


 人生にわくわくしたい。もう一度。やり直すことができるのなら、と。


 大画面にアクションスターがバイクで崖から飛び出すシーンがある。私はきっと随分手前でブレーキをかけてしまう。そもそもバイクに乗らないかもしれない。そんな人生、でももう一度。


 自分を諦めたくない。


 大それたことができない私がサブリナスタイルの服装をするだけで、少し日常が変わった気がする。本当に些細な事だけど。



 映画を見たあと、軽くフルーツケーキとアイスコーヒーで休憩して、教室に向かった。今回は素直にエレベーターを使うことにする。小さなビルなので、エレベーターも狭い。閉めようとすると、先生が向こうから入ってくるから、慌ててドアを開けるボタンを押した。


「こんにちは。あ、じゃなくて、グーテンアーベントですね」と言うと、はにかんだ笑顔で、


「グーテンアーベント…素晴らしい生徒ですね」と返してくれた。


 エレベーターの扉が閉まると急に息苦しくなるから、私は無駄に映画を見たと言う事を話した。別に興味ないだろうけれど「何の映画ですか?」と社交辞令で聞いてくれる。


 エレベーターが二階に上がった表示を見ながらタイトルを言う。


「アクション映画好きなんですか?」


「たまたま…時間が合って」と言って、つまらない答えだな、と自分で思った。


「映画…久しく行ってないですね」


「…私も。でも…たまに行ってみたらよかったです」


 三階ってこんなにも遠かったんだろうか、と思ったとき、重力がかかった。そして表示は三階になる。扉が開いた時、ほっとする。


 扉を開けていてくれるから、私は先に出た。


「今日も鉛筆デッサンですか?」と先生に聞かれる。


「はい。木炭も楽しいですけど…。鉛筆も好きです」


「一向に上手くならないんですけど、教えてもらえませんか?」


「いいですけど…。どうしてデッサンを習いにこられたんですか?」


 私は画板を机の上に置いて、そしてカーディガンを脱ぐ。


「何でもよかったんです。手品でも料理でも…」


「手品?」と私は思わず聞き返した。


「ちょっと家を出たくなって」


 その言葉がそっくり私の胸に響いた。


「…絵は残るものだし、描けたらいいかなっていう憧れはありましたけど」


 私は笑っていたのか、泣いていたのか分からないけれど曖昧な表情で頷いた。私は先生の描いたデッサンを何枚か見せてもらう。直しがいのあるような絵だった。


「上手くなりますよ。びっくりするくらい」と私はデッサンを見ながら言った。


 断ってから、少し手を入れる。


「こうして、消しゴムで描くこともできるんです。後、影もつけるといいと思います。さっとでいいんですけど」


「すごい」


「絵と物理的距離を取ることも必要です。あまり近すぎると見えないことも多いですし」と言いながら、私はかつてのカメラマンがやっていたように指のエル字型で長方形を作る。


「こうして対象物を眺めると、構図も決めやすいです」と振り返ると、教室の入り口に数人の生徒さんたちが溜まって、こっちを見ていた。


「小夜ちゃんの方が分かりやすい」と裕子さんが言う。


「俺も教えて」とサラリーマン男性も言う。


「こらこら、みんなが上手くなったら、俺、失業するだろう」と一番後ろで月山先生が言うから、周りが笑い出す。


「ひでー先生だな」と誰かが言ったから、また笑いが起こる。


 この教室に来てよかったな、と改めて思った。



 先生のデッサンは良くなって、月山先生からも褒めてもらえていた。その横顔を見たら、素直に嬉しそうに笑っていた。私の視線に気が付くと、片手で親指を上げてくれる。小さく私も同じポーズを取った。何だか久しぶりに自分の価値を見出した気持ちになれた。



 片付けをしている間に、私の鉛筆が転がっていく。慌てて拾おうとすると、先生がすっと拾ってくれた。


「ありがとうございます」


「こちらこそ。おかげで初めて褒められました」


 誰かのはにかむような笑顔を見るのも久しぶりだな、と思いながら私は鉛筆を受け取る。


「お役に立てて、良かったです」


「ダンケシェーン、ありがとうの意味です」


「ドイツ語、教えてくれてありがとうございます」


「じゃあ」と言って、先生は教室を出ていった。


 ゆっくり鉛筆をペンケースにしまうと、裕子さんが背中から声をかけて来る。


「今日、行く? みんなでご飯?」


「あ、はい」


 そう返事しながら、私はずっと心臓の音がうるさい。俯いて深呼吸しようとしたら、鍵が落ちているのが見えて慌てて拾った。


「あ、でもちょっと待ってて。後から、行くから。いつものところ?」と私は裕子さんに聞く。


「そう。じゃあ…」


 私は荷物を慌てて持って、裕子さんの横をすり抜け、階段を駆け下りた。下っていくエレベーターに間に合うだろうか、と足がもつれそうになりながらも必死で降りる。


 一階に着いた時、先生の後ろ姿が入り口付近に見えた。そのまま追いかけて


「あの」と息を肩でしながら言った。


「どうかしました?」


「鍵、これ…先生のじゃないですか?」


 そう言ったら、先生が恥ずかしそうに笑って「気づかなかったです。小夜さんはいつも肩で息してますね」


「…息切れが…。更年期で」とまだきちんと整っていない息で返事をした。


 私たちの横を生徒さんたちがその横を通るから何だか恥ずかしい。


「大丈夫ですか? お水飲みますか?」


「大丈夫です…。今からお酒飲みます」とちぐはぐなことを言ってしまう。


「良いお酒を」


「先生は…参加されないんですか?」


「…今日はやめておきます。でも…せっかくなので来週、参加します」


 そして先生と別れた。



 楽しい時間を過ごして、ほどほどのお酒を飲んだら気持ちが軽くなり、帰り道はふわふわした気持ちで夜空を眺める。


「来週は先生も参加…ダンケシェーン」と呟いた。


 また明日から早送りの金土日月火水が始まる。

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