第3話

名前


 教員になりたかった私は教員採用試験に二次で落ちた。緊張して声が震えて、小さい声しかでなくて、面接官に何度も聞き返されてしまった。結局、非常勤講師をしたのだけれど、生徒にとっては、非常勤講師も正規採用の先生も同じ先生だ。ただ私が若いという理由で心理的距離は近くなる。私は若すぎて…受け止められなかった。



「魚崎さん」と先生に声をかけられて、私は顔を上げる。


 あの流れで休憩に入っているようだった。


「あ、すみません」と意味もなく謝る。


「いや、驚きました。初心者が来たって、内心、喜んでたのに」と言ってくれる。


 細やかに露悪的なことを言ってくれるから気持ちが軽くなった。


「お詫びに少し簡単なテクニックを教えましょうか?」


「え? いいんですか?」


「簡単です。遠くにあるものは薄く描けばいいんです」


「え?」


「輪郭を追うんじゃなくて、手前はしっかり書き込んで、奥のものは力を抜いて描いたら、すっと奥行きがでます」と私は教えた。


「へぇ。やってみます。お礼に、ドイツ語を教えましょう。アイネクライネナハトムジーク」


 呪文みたいだ、と私は思った。


「という題のモーツアルト曲があるんですけど…。小さな夜の音楽って言うタイトルで…、アイネクライネナハトで、小さな夜。小夜子さんになりますね。あ、子がなかった」と言うから、私は笑ってしまった。


 先生と喋っているとなんだか気が楽になる。


「先生は教えるのが上手なんですね」


 少し照れた顔をしながら「休憩してください」と先に席を立っていった。


 私は自分の絵をモティーフを離れたところから眺める。久しぶりに描いた絵にしては上出来だ。絵を描く理由が分からないから、描くのを止めた。子育てに忙しくて絵を描かなくなった。いろいろ理由がある。どれも本当だけど、どれも言い訳だ。

 


「魚崎さんも先生なんて」と足立さんが後ろから声をかける。


「いえ。私は先生なんて…」


「いいじゃない。ここでは誰より上手いんだから。月山先生、先生、それから魚崎って言いにくいから小夜先生でいい?」


 私は久しぶりに自分の名前を他人から聞いた。


「あ…」


「あ、嫌だった?」


「いえ。なんか新鮮で。でも先生はいらないです」


「じゃあ、小夜ちゃんでいい?」


「えぇ。いいんですか? じゃあ、私も裕子さんって呼んでもいいですか?」


 裕子さんは笑いながら「もちろん。小夜ちゃん。あのさ、いつも終わった後、時間のある人たちでご飯に行くの。行ける? もしよかったら歓迎会したいんだけど」と言ってくれた。


「そんな…」


「都合が悪いなら、断ってくれても全然大丈夫なのよ。みんな大人だから」


 私は行くことにした。家族のご飯の用意はもうしなくていいのだから。


「やったー。嬉しい。じゃあ、みんなに伝えておくね」と言って、裕子さんは廊下に出ていった。 



 教室には私が一人残されたから、他の人の絵を見て回る。石膏像を描く木炭デッサンも大好きだった。練り消しでぼかしを作ったり、絵を描くという作業だけれど、私は両手で何かを作り上げている気持ちだった。そんなことを考えていると、月山先生が入ってきた。


「あー、魚崎さん…。あ、僕も小夜さんって言っていいですか? 魚崎さんって、うおのところが言いにくいですよね。うお、うおですからね」とよく分からないことを言う。


「いいですけど、みなさん、あだ名で呼び合ってるんですか?」


「普通に呼ぶ人もいますけど、あだ名の人が多いです。面倒ですから」


(あだ名の方が面倒なのでは)と思ったが言わないことにした。


「…絵を描きたくて来たんですか? 教える人なのに?」


「教えるより…絵を描くのが好きなんです」


「まぁ、好きそうですけどね。僕はこれは生きる糧で。絵を描くのは…何だろうな」と言うから思わず


「月山先生も分からないんですか?」と聞いてしまった。


「分からないですねぇ。もうずっとやってても分からないです。でもまぁ、分からなくても、描きたいから描いてるんですけどね。小夜さんも好きだから描いていいんですよ。立派な理由じゃないですか」


「立派な理由…ですかね」


「理由なくてもいいじゃないですか。それでもどうしてもしてしまうっていうのが好きってことなんですよ。僕は最近、そういうことも分からなくなってきましたけどね」


 月山先生がそう言ったことが、私の気持ちを落ち着かせた。もっとみんな明確な目的や意義をもって絵を描いているのだと思っていた。



 その日、時間的余裕のある人だけで晩御飯を食べて帰った。月山先生は残って、先生は自宅で用意されているから、と断っていた。


「月山先生は離婚したばかりだもんねぇ」と裕子さんに言われて「それ、言わないでくださいよ。参ってるところなんですから」と泣きそうになっていた。


「まあ、私も離婚してるんだからさ。経験者だから聞いてあげるわよ」」


「足立さんは捨てた方じゃないですか」と月山先生はが言う。


 豪快に笑って「今の時代、捨てるのは女よ」と裕子さんは言った。



 楽しい時間を過ごして帰宅すると、夫がお風呂から出てきた。


「遅かったけど…」と言う。


「うん。あの…終わった後、みんなでご飯食べて来たから」


「みんな?」


「教室のクラスメイトと先生と…」


「へえ」と言って、私を見た。


 久しぶりに目が合った気がした。それなのに何を言っていいのか分からなくなって


「私もお風呂…入ってくる」と言ってしまった。


 別に何も悪いことしてないのに、と思いながら。久しぶりに来た連絡船を帰したのは私だ。

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