第2話
絵画教室
木曜の夜は子供たちのお金を渡すからご飯を食べてくるように言う。もう大学生と社会人の二人はむしろ喜んでいた。手間をかけて健康に気を付けてご飯を作って来たのはなんだろう、と思うが、私はその思いを皿洗いしている水に流す。
「お父さんには冷蔵庫に何か作っておくから」と言うと
「いいよ。俺も外で食べてくるから。…急にデッサンってどうしたんだよ?」と夫はスマホから目を離さずに言う。
「うん。みんな大きくなったし、そろそろ子離れしようかと思って」
「そっか」
それ以上何も言わなかった。
定期連絡船はまた海へ向かった。習い事するのも反対もせずに、彼は快く許してくれるのだから、文句ひとつ言われないんだから、と私は呪文を唱えた。
食後のコーヒーも飲まない、お酒も飲まない、もちろんタバコも吸わない。私は食後にコーヒー飲みたいし、お酒だって一緒に飲みたかった。タバコは吸わないけれど、同じ時間少しだけでも同じことをしたかった。そんなことをふと思って、首を横に振る。呪文、呪文。
(彼は優しい人だから)
DVされたこともない、モラハラされたこともない。
(私は幸せだ)
そう自分に言い聞かせてるのが滑稽で、少し笑った。そんな自分が大嫌いで。
だからデッサンをしようと思う。自分の得意で好きなことをしようと決めた。
もう一度、自分を好きになりたくて。
そう思うと、絵画教室までスキップで向かいたい気分だ。新聞紙を広げて、鉛筆を綺麗にカッターで研ぐ。それが珍しいのか次男が近寄ってきた。
「何してるの?」
「鉛筆研いでるの」
「鉛筆削り捨てたから?」
「ううん。絵を描く用はちょっと芯を長めに出したいから、自分で削るのよ」
「へえ。…でもさ、昔は写真がなかったから、絵を描くのも分かるけど、今さらなんで絵を描くの?」
「え? なんでだろうね」
私はこの年になっても絵を描く理由が見つけられない。
「おかしいよね? 絵を描くなんて」と思わず言ってしまうと、次男は慌てた。
「ううん。いや、おかしくないよ。そうじゃなくて…。俺は分んないけど、絵を描くのって…。表現したいからじゃないの?」
私のはアートでも何でもない。曖昧に笑って「そうかも」と言った。
「お母さんの絵を楽しみにしてるからさ、頑張ってきてよ」
多少、空気の読める次男はそう言って離れていった。鉛筆を削る音だけが響いた。私は離れ小島で火を起こす人のように鉛筆を削りつづけた。
初日、うきうきした気持ちで大きなカバンに画板を持って駅まで向かう。社会人コースなので、夜からの講座だ。駅から人が降りてくるのに、駅に向かう自分がなんだか愉快に思えた。受験にはデッサンの実技があったから、勉強をしながら絵画教室に通ったことを思い出す。
(あの頃は…わくわくしてた)と思ったけれど、不思議なことに今の方がより気持ちがふわふわと浮かんでいた。
ずっと家族のことを考えていた私が自分だけの時間を作れるのだから、と足取りが軽くなる。教室までエレベーターもあるけれど、うっかり階段で三階まで行ける気がした。でも残念なことに年を取っているので、ぽきぽきと軽く関節の音がなる。そして息も上がった。
(三階ってこんなに遠かったっけ?)と自分で肩で息をしながら思った。
「大丈夫ですか?」
あまりにもすごい息遣いで声をかけられてしまった。
「あ…はあ。あの階段で…」
「あっちにエレベーターありますよ」と親切に声をかけてくれた人は同じクラスの生徒なのだろうか。
男性で私よりは十歳くらい上に思えた。スーツを着ていたから仕事帰りかもしれない。
「は…。あ、次はそれを…使います」
「初めての方ですか?」
「そうです。よろしくお願いします」と頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いします。あまりうまくないんですけどね」
私も、とは言えなくて、とりあえず名前を言った。
「魚崎さんですか。僕は青木です」
「お仕事帰りですか?」
「えぇ。大学でドイツ語の講師をしています」
「ドイツ語…。グーテンターグくらいしか分からないです」
「あ、すごいですね。でも夜なので、グーテンアーベントです」と几帳面に訂正してくれる。
「教えてくださったから、レッスン料を払わないと…ですね」と言うと、笑いながら否定してくれた。
自分でもこんなに初対面の人と話すなんて思いもしなかった。教室前で話していると、違う生徒がエレベーターから降りてくる。
「先生なにしてるの?」
どうやら青木さんのあだ名は先生らしい。先生と同じくらいの年齢の女性が明るい調子で話しかけてきた。
その人にニューフェイスだと紹介してくれる。
「あー、やだ、嬉しい。人が増えるの久しぶりよ。私、
「こちらこそ、魚崎小夜子です」
「まるで女優みたいな名前ねぇ」と感心されたから「名前だけは…」と言うと、笑ってくれた。
思ったより居心地が良さそうで私はほっとした。
生徒は十人に見たなかった。休んでいる人もいるということなので、本当はもっといるらしいが、広々と使える。木炭デッサンで石膏像を描く人もいた。私は先生と一緒に鉛筆でりんごとスーパーで売られている食パンを描くことになった。二人しかいないので、モティーフも二人で一つだった。受験のための教室では一人分、それぞれモティーフが渡されて、構図を考えることから始まる。
先生が食パンとりんごを真横に並べる。さすがにそれはもの申さなければならない、と私はモティーフを動かす許可を得た。
「真横だと…描きにくくないですか?」
「え? どうしてです?」
「画用紙の上下の余白が余り過ぎるから…ちょっと手前にりんごを置いた方がいいと思います。後、食パンをまっすぐ前に置くよりは…こうして斜めに置いた方が奥行きが出せそうな気がします」
思わず真剣に構図について言ってしまったけれど、気を悪くしていないかと振り向くと、驚いた顔をしていた。
「絵を…描く前からいい絵を描くことは始まっているんですね」と素直な感想を言ってくれる。
「ドイツ語教えてくださったお礼です」と私は言っておいた。
黙って鉛筆を取り出す。しばらく静かな教室に鉛筆の走る音だけが響いた。食パンはメーカーの袋に入れられている。そのビニールの質感を出すのが本当に楽しい。リンゴのなめらかな肌に傷があって、その傷も愛おしくなるほど丁寧に描く。
(赤い、赤い、ちょっと色の薄いところがあるりんご)と心の中で一人で話ながら絵を描いていく。
一時間ほどたった頃だろうか、講師の月山先生が絵を見て回る。
「…魚崎さん。経験者ですか?」と声を掛けられた。
私は嘘はつけないと思ったので「教育大学ですけど…。美術科で」と言った。
「えー、なんだ、それー」と月山先生がしゃがみこむ。
「え?」
「もう。教えることないじゃないですか」
「あ…いえ。そんなことは…」
月山先生の大きな声で木炭デッサンを描いていた人も集まって、私のデッサンを見る。
「わー。すごい。写真みたい」
「大したもんねぇ」と足立さんも言う。
「月山先生、交代してもらう?」と誰かが悪い冗談を言う。
「そういうことじゃなくて…。私、絵を描くのが好きなだけで。教えるのは苦手でなんです」と慌てて弁解する。
「あー、絵を描く場所が欲しかったってこと?」と月山先生は立ち上がる。
「そうです。教育大学に行ったのに…教えるのが苦手で」と言うと、みんなが笑った。
冗談と思われたようで、少しほっとした。視線がゆっくりと絵具で汚れた板張りの床に落ちて行く。
そう私は教育大学を卒業して教員として働きたかった。でも自分の力不足を感じるばかりだった。
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