第1話
離れ小島にぽつんと一人
優しい夫と健康な子ども二人、何不自由なく私は暮らす。それでも幸せだと思っていた私の小さな世界は時間と共に少しずつ形を変えていた。気づいた時には私が一人離れ小島に取り残されて、子供たちは船に乗って、大海に出ていた。
「おーい」と叫んでも手を振ってももうこっちを振り返ることもなかった。
夫はそもそも小島にいたのだろか、と今になって思う。時々、物資を運んでくる連絡船だったのかもしれない。
(気づくのが遅かった)
一人残された私には筏を作る元気も体力もない。そこらへんを散歩して、時々見つける果実でも食べるしか喜びはなさそうだった。
家族は成長して違う世界へ飛び出して行った。でも私はずっと時が止まったままの自分でいる。
思い切り背伸びをした。
一センチ、一ミリは伸びただろうか、と思って微笑んだ。
目の前の白い扉を開くまで、自分の名前が他人に呼ばれることを忘れていた。
「
「はい」と言って、私は久しぶりのイーゼルを見て懐かしく感じた。
「私は講師の
濃い顔立ちにいかにもアートの先生というような前身ごろがアシンメトリーなシャツを着ている。
「はい。慣れたら…別のことも」
「そうですね。じゃあ、体験授業ということで」と月山先生は必要なものを用意するように教えてくれる。
赤いレンガの外観のビルは画材屋の所有する建物で、一階がお店になっている。二階はギャラリーで、三階が絵画教室になっていた。四階以上は事務所と会社だった。
「最初は慣れないと思うので…鉛筆のデッサンをしましょうか」
「はい」と私はさっきから「はい」としか言ってないな、と自分で思って少しおかしくなる。
「何か?」
「いえ。何だか楽しみで」と私は本当に心からわくわくしてきた。
「じゃあ、良かったです」
実は私は教育大学ではあるが、美術科を専攻していたから、絵は得意だった。家で一人で描いてもいいようなものだが、外の空気を吸いたいというのと、モティーフを用意するのが面倒くさいし、他の人の絵を見たりもしたくて、サークルに入る気持ちで参加することにしたのだ。ここの教室はイベントも多いと聞いていたから、なおさら楽しみだった。
私は特に写実的な絵を描くのが大好きだった。質感や、空気感、奥行きを描くのが趣味だった。自分の個性を出すという芸術家ではなかったから、芸大には向かなかった。ひたすらレースを描いたこともある。
「ねぇ、本物あるのに、どうしてそんなことしてるの? 貼り付けたらいいじゃん」と友人に言われた。
確かに本物をキャンバスに張り付けたらそれでいいのかもしれないけれど、私はただ、黒く塗ったキャンバスに白いレースを描くという作業が堪らなく好きだった。
「…楽しいから」
「でも他の人に何か伝わるかな?」
「…自分のために描いてるの」
「ふーん」
自分でもレースを描く意義は分からないから、友達を納得させる理由はなかった。そんなわけで、私は画家になろうと思ったことは一度もない。ただひたすら精巧に描くということが好きなだけだった。だからデッサンは得意中の得意だ。
久しぶりに絵を描く。私は子供たちに絵を教えなかった。だって、教えられるものは何一つない。ただ、細かく描くだけの、ある意味フェチともいえる。そんなものを子供に与えたくなかった。もし子供が自発的に細かく何かを描き出したら、とは思ったが少しも遺伝しなかったようで、片鱗すらも見られなかった。
そんな私が自分のために絵を描く。久しぶりのことで、わくわくする。私は一人小島で絵を描くことを始めた。誰にも見られなくて、それは本当に丁度良かった。
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