第61話
シルク
二年ぶりに見る翠さんは少し日焼けしているくらいで、全然変わっていなかった。
ずっと会いたかった人に会えたけど、言葉が何も出て来ない。
「絹ちゃん」
名前を呼ばれる。その声も懐かしい。私はゆっくり首を前に向けて、漣君を見る。漣君は鮮やかにウィンクをして
「サプライズ」と言う。
翠さんが日本に帰国していたから、合わせようと友達申請したのに、なかなか追加してくれなくて、ひやひやした、と笑う。
「じゃあ…今日、誘ってくれたのは…翠さんに会わせるため?」
「そうだよ。だって…お父さんは俺のために絹ちゃんを置いて、マレーシアに行ったから」
漣君はあの頃、南さんに手を上げられることもあったそうだ。翠さんへの執着もすごくて、南さんの両親は困り切って、翠さんに漣君を頼みに来た。翠さんは南さんの近くにいるとお互いによくないと考えて、マレーシアに漣君を連れて行くために養子縁組までしたという。
「だから、俺にできることをしようと思って」と漣君は笑って席を立つ。
「あ…漣君」
「絹ちゃん、俺、本当に絹ちゃんのこと好きだよ。だから…またね」と笑って手を振った。
大人になった漣君に私は言葉を返せない。手を振り返しながら、見送った。
翠さんは向かいの席に移動してきた。何を話せばいいのか分からない。口を開けたけど、言葉が喉の奥から出てくれずにそのまま閉じる。
「ごめんね」
「謝らないでください。私…翠さんのこと…待ってなかったです」
「うん。恋人がいること漣から聞いたよ」
あぁ、そうだ。漣君には教育実習の時に伝えてたんだ、と私は思った。
「だから…手紙に…君が幸せであるなら、誰といてもいいって書いたけど…。漣から連絡が来て、君と会えるって言うから気持ちを抑えきれずに来てしまった」
「私も…会いたかったです。でもあんなお別れをして…、やっぱり私は必要なかったんだなって思って辛くて。でもそれでも忘れられなくて。とっても優しい人を傷つけて…私…自分で自分が嫌になります」
翠さんに会えて嬉しいのに、愚痴を言ってる。
「ごめん。全部、俺のせいだから」
「翠さんも…私も…両方…」
「絹ちゃんは悪くない。本当にごめん。俺が…自信がなくて待っててって言えなかったから」
今は言えるのだろうか、と翠さんを見ると、翠さんはスマホを出して来た。写真で、白猫が映っている。綺麗な白猫で、目が黄色とブルーのオッドアイだった。
「かわいい」
「バンコクで飼ってる猫なんだ。大家さんが拾ってきて」
「えぇ。可愛いです」
「そう。子猫の時は…絹ちゃんみたいだった」
「どういうことですか? 私、子猫より活躍してたと思いますけど」とちょっとむくれてしまった。
「かわいらしさが絹ちゃんみたいだったってこと。寝てたら、そっと横に来てくれたりして…。すごく癒されたんだ」
正直、その猫が羨ましくなる。
「名前は何て言うんですか?」
「シルク」
「え?」
「シルクって呼んでる」
それは私が翠さんに名前を紹介した時に「英語のシルク」と言った言葉だった。
「翠さん…」
「絹ちゃんが恋しくて」
「どうして…連絡してくれなかったんですか…。猫じゃなくて、私が側にいたかったのに…」
翠さんは謝った。仕事が海外で上手く行くのか分からない状態だったし、漣君もいたから、無理に連れて来れなかったと言った。南さんの祖父から翠さんが渡したお金が全額かえってきたらしい。漣君のためにと預かっていたから、と。それで物価の安いマレーシアで生活を始め、ネットで日本の仕事もしつつ、現地でも仕事を探したという。企業パビリオンの設計者だという肩書のおかげで、大きな仕事も入るようになり、バンコクへ移ったと言った。バンコクは大手ゼネコンの支社もあって、仕事も多かった。
「合間にね、いろんな国の建築を見に行ったし、タイは普通の人の家も見たよ。川沿いの高床式の木造とかね。すごくおもしろかった」
翠さんも前へ進めたんだ、と私は嬉しくなった。
「絹ちゃんのおかげだよ。側にいれなくても生きていてくれるから頑張れた。タイはシルクも有名で、服やクッションなんかを見る度に思い出してた」
まったく知らない土地で漣君を連れて行くだけで精一杯だったはずだ。私なんてお荷物にしかならない。
「パンケーキ食べないの?」と翠さんが訊く。
漣君は全くの手つかずだし、私のは半分残っている。
「食べます。翠さんも漣君の食べてください」
「あいつは…もう。仕方ないな」
パンケーキを食べながら、マレーシアとバンコクの話を聞く。苦労も多かったはずなのに、楽しい話ばかりしてくれる。シルクは今、大家さんのお嬢さんがかわいいからと預かっているらしい。
「私も猫になって、翠さんの側にいたかったなぁ」と言うと、笑いながら「そのままでもいいよ」と言う。
「そのまま?」
「いろいろ目途が立ったから…。漣はこっちに戻ってきたし、俺もそろそろ日本で仕事をしようと思って。絹ちゃん、猫にならずに側にいてくれたら嬉しいけど」
「日本に?」
「うん。まだ全部というわけには行かないけど、いくつか仕事を終わらしたら、もう帰ってこようと思ってる。年内にはどうにか」
「それで…あの…私も側にいても?」
「だって、全部好きって言ってくれたよね?」
全部聞かれていたことを今思い出した。
翠さんは車を借りていたようで、車で移動する。ドアも開けてくれるし、シートベルトも締めてくれる。その際に、ふっと翠さんの匂いがする。懐かしくて、うっかりシャツを掴んでしまった。
「絹ちゃん?」
キスしたい。どうして翠さんはこう私の欲情スイッチを押してしまうのだろう、と慌てて手を離す。。
「あ、今から…どこへ?」
「日本の事務所兼、居住場所」と言って、エンジンをかけた。
車は街を抜けて、見慣れた風景を流していく。
「あれ?」
「そう。あのマンション」と言って、近くのパーキングに停めた。
小道が向かいに見える。
車から降りると、すっと手を出してくれるから、私はその手を掴んだ。二人で小道を通って、あの模型のマンションの前に行く。
「やっぱり素敵」
「ここの二階の一部屋を借りれたから」
「あ…そう言えば」
私が教員採用試験に落ちたから無職で借りれないとか言ってた時、島田さんの甥さんは心なしか笑っていた。
「どうかした?」
「翠さん…島田さんの甥さんとお話しましたか?」
「したよ。可愛い子が来て、採用試験に落ちたからって泣いてたって」
「泣いてないです。それで泣いてなくて、違うことで泣いてました」
そんなことを言いながらエレベーターで二階に上がる。すぐ横の扉を翠さんは開けた。
「あ」
青いソファと、大きなベランダ。新築の匂いはするけれど、あのアパートの面影がある。私は部屋をつっきって、ベランダに出た。鈴音ちゃんの風鈴が飾られている。振り返って、翠さんを見た。
「気に入った? 君との約束を守りたかったから」
「まさか…本当に建つと思ってなかったから」
「頑張ったよ。島田さんへのプレゼン」
「…翠さん」
「ここで、国語の先生になる勉強して、待ってて欲しい。もう待っててって言えるから」
私はあの頃みたいに、ここで翠さんを待っていようと思った。ベランダに差し込む陽射しが揺れている。
「ありがとう。大好き」
翠さんの匂いに包まれて、キスをする。やっぱり翠さんじゃないと駄目だと思いながら、手を髪に差し込んだ。柔らかい毛が指の間を滑っていく。
「絹ちゃん。愛してる。待ってて欲しい」
私は頷くと、もう一度、唇を重ねた。夏がもうすぐ近づいてくる。
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