第57話

ナイフを持つ


 笙さんが忙しくなって連絡が来なくなった。でも本当は忙しいからなのか、私に愛想をつかしたからなのか分からなくて、何だかこっちから連絡し辛くなる。


 問題集を繰り返しながら、でも時折、体を机に投げ出す。


(振られた相手にいつまでも揺れるなんて、愛想をつかされても仕方がない)とため息を吐く。


 翠さんはもう違う人生を歩いているんだから、と思って、またそう思う事が未練たらしいと自分で嫌になる。


 全然勉強に集中できない、と思っているところに桃ちゃんからメールが来た。


「受かった。シンガポール」と書いてる。


「わぁ。おめでとう」と思わず声が出る。


 スタンプを連続で送っておく。五分後に桃ちゃんから電話が来た。


「わー、本当にすごい。おめでとう」と私は声を弾ませた。


「ありがとう。…す…ごく緊張した。でも本当に嬉しい」


「うん。うん。すごい。お祝いしよう」


「ありがとう」


 桃ちゃんのおかげで私も嬉しくなって、さっきまでのもやもやが消えた。


「絹も頑張ってる?」


「あ、ちょっと頑張ってなかったけど、今から頑張る」と言うと桃ちゃんが笑った。


「頑張れー。死ぬ気で頑張れー」と言うから「生きるけど、頑張るから」と返事した。


 その日は本当に桃ちゃんのおかげで、久しぶりにエンジンをかけて勉強に励むことが出来た。採用試験に落ちたとしても講師登録してアルバイトの形で働くことはできる。でもできたら受かりたかった。


 夜遅くまで勉強していたはずなのに気が付いたら、私は机の上で眠っていた。


 スマホの音で目が覚める。


「もしもし」と寝起きの声で出た。


「絹ちゃん」と笙さんの声がする。


「あ、おは…よ…こんばんは」と言いながら時計を見る。


 深夜の二時だった。


 こんな時間に電話してきたことは今まで一度もなかった。


「…笙さん」


 悪い話に違いないと私は覚悟を決めた。ティッシュケースをそっと引き寄せる。


「ごめん。こんな時間に」


「はい。大丈夫です。どうぞ」と言いながら、私は上体を起こして、スマホに耳を澄ませる。


「なんか…ごめん。この間は…」


「いえ。私がいたらなくて、笙さんに嫌な気持ちにさせてしまって。それで愛想つかされるって分かってるんで、大丈夫です」と言って、スマホをぎゅっと握る。


 また振られる。私はずっと振られっぱなしだ、と自分で覚悟を決めて、目もぎゅうっと瞑った。


「何言ってるの?」


「はい。あの…覚悟が出来てるんで、一思いに、一気に、言ってください」


「好きなんだ」、「はい。どうぞ」が同時に被る。


「え?」と私は目を開けた。


 笙さんは研究が上手くいって、私に電話を思わずかけてきたそうだった。寝てたら、電話に出ないのを分かっていて、かけたと言う。笙さんもいろいろ反省していて、電話をするきっかけもなくて、今のタイミングでかけようと決めたらしい。


「笙さんが反省することなんて、何一つないです」


「…ごめん。あるんだ」


「え?」


「ひどい事考えたって言ったよね?」


「あ…はい。でもそれは私が…」


「あの時、避妊せずにしたら、子供出来たら…って一瞬、そうしようかと思った」


 私は驚いて言葉が出ない。


「君のこと、ただ所有したくて、何も思いやれてない自分がいて…。本当に愛してたら、そんなことじゃなくて…彼のところに行かせるべきじゃないかって」と笙さんが言う。


 私が想像していたところと全く違うことを笙さんは言う。


「そんな…こと」


「そんなこと考えて、一週間、ぐだぐだ君に連絡もできずに…ごめん」


「謝らないでください。私だって、連絡できずに…いたのは同じで…」と言いながら、さっきの言葉がひっかかる。


 セックスって何だろう。気持ちを引き留めるものでも、繁殖するためのものでもないのだろうか。いや、そもそも女としてのセックスってなんだろうともやもやが広がってしまう。


「笙さん、私だって、セックスしたら笙さんと仲直りできると思って…浅はかですけど。でも…子ども作るのとか、そういうこと…それと気持ちは別だと思うんです」


 夜中二時。一体、何の話をしているんだろう、と自分で思う。


「ごめん。本当に。なんか…最低だと思う」


「ううん。私も最低で…笙さんをそうさせてしまった…のなら…」


 別れた方がいい。


 雷に打たれたように突然そう思った。


「あ。でも…笙さんの研究、上手く行ったし、せっかくいいことがあったから、今日はいい話しましょう。桃ちゃんが試験に受かってシンガポール航空に」


 別れるべきだ。


 さっきからずっとそう思ってるのに言い出せない。


「絹ちゃん」


 笙さんの声が掠れて、


「好きだけど…」と絞り出すように言う。


 私から『さよなら』を言わなきゃ。


 これ以上、この人を傷つけては駄目だ。


「笙さん、待って」


 罪人が被害者になんかなってはいけない。私がナイフを持つ。


「笙さんは悪くないし、とっても優しくしてくれたし、私は救われて、だから…本当は穏やかな時間を重ねて、お互い歩み寄りたいと思ってた。それなのに…私が…」


 震える手でナイフをしっかり持たなくては。


「まだどこかで翠さんが好きだから」


 そして突き立てる。


「別れよう」


 言葉を言ってから後悔が押し寄せてくる。本当に優しくて、素敵な人だったのに。私は彼を幸せにできないどころか、酷い想いをさせてしまった。本当は二人で幸せになりたかった。


「絹ちゃん、ごめん」


 もうこれ以上謝らないで欲しい。全部、私が悪い。今まで何となく甘えて、自分の気持ちをごまかして、優しい時間に浸って、都合のいいことしか見なかった。


「笙さんはこれから研究頑張って。ずっと前に約束したみたいにノーベル賞取って」


「…そうだね。その時は連絡するよ」


「うん。待ってる。本当に待ってるから」


 スマホを持つ手がガタガタと震えているけれど、必死に声はなるべくゆっくりと、泣いたりしないように、私は目を大きく開けて、零れないようにした。


「大好きだよ」


「…私も。本当にありがとう」


 電話を切って、私はまた机の上に体を倒した。


 どれくらいだろうか。鳥の鳴き声がして、外が明るくなるのを感じた。


 二人でいる時間は穏やかで、二年の間、一緒にいてもずっと変わらなくて、その時間が好きだった。いろんな思い出が溢れ出す。零れた涙も止まらないけれど、私はどこかほっとしている自分も感じていた。自分の気持ちから目を逸らし続けた日々と、優しい人を苦しめることがなくなったという安堵感だった。


 鳥の鳴き声は朝を喜んでいるようだった。私は今日から生まれ変わろうと思った。



 奈々ちゃんも桃ちゃんも私が笙さんと別れたと聞いて、驚いていた。そして笙さんは「自分が悪いから」と周りに言っていたようだったから、私はちゃんと自分で説明をした。


「教育実習に、翠さんの子どもが来たって…そんなの…」と奈々ちゃんが言う。


「うん。偶然なんだけど…。奥さんはもう元気にはなったらしいけど、まだ自分のことで精いっぱいみたいで、おばあちゃんの家で暮らしてるって…」


「それで絹は顔や態度に出ちゃったんでしょ?」と桃ちゃんは言う。


「そう…なの。笙さんすぐに気づいて」


「そんくらいで別れなくてもよかったんじゃない?」


 私も正直、別れるなんてその時は思ってなかった。でも笙さんの告白を聞いて、そんなことを考えさせた自分が悪いと思ったから。そしてきっと私はまたゆらゆら揺れると分かっていた。その度に笙さんを苦しめることになる。


「でも結局、私が翠さんのこと忘れられないから」


 二人に「きーぬー」と呆れられてしまう。


「もうね、お付き合いはしない。今は目標として先生になる」


「枯れたこと言わないのー」と奈々ちゃんが頭を抱える。


「全然、枯れてないよー。だって…こんなに好きになった人がいるなんて、私…自分ですごいと思うから」 


「じゃあさ、会いに行ったりするの?」と桃ちゃんが言う。


「シンガポール航空でしょ? バンコクじゃないし」


「バンコクだって行けるわよ」と桃ちゃんが怒った顔をする。


「行かないよ。私は振られてるわけだし。向こうから会いたかったら、本当に会いたかったら、連絡くるはずだから」


 今まで一度も連絡がなかった。それが答えだ。


 私は自分の人生を歩いていく。


「ずっと片思いして生きてくの?」と奈々ちゃんが呆れた声を出す。


「うん。もう、これは私のライフワークだね」と微笑んでみせる。


 二人は呆れた顔をして、そして抱きしめてくれた。


(いつまで経ってもあなたが好き)


 そう思って、私は前を向くことにした。

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