第56話

隙間の大きさ


 教員採用試験の問題集をしながら、私は漣君の友達追加をしていいのか悩んでいた。追加すると、翠さんに繋がりそうな気がする。


 問題集を解いていたペンを放り投げる。


「…会いたい。会いたいに決まってる。でも」


 私はそのまま表に出た。陽射しが厳しい青空を見上げる。バンコクに翠さんがいると聞いて、私は飛んでいきたくなる。あの時取ったパスポートもある。でもそれは笙さんを裏切ることになってしまう。


「…それはできない」


 それに会いに行ったとして、翠さんが喜ぶとは限らない。もしかしたら、もうお相手がいるかもしれない。諦めるためのいろんな言い訳を並べる。


 駅まで私は歩く。


 スマホが鳴る。笙さんだった。


「あ、こんな時間に珍しい」と私は思って、通話ボタンを押した。


「もしもし。絹ちゃん? 忙しい?」


「ううん。ちょっと、勉強に煮詰まって駅まで歩いてて…」


「そっか。ちょうどいいね。今から会わない? インドカレー食べに」


「あ…うん」


 それで待ち合わせ場所と時間を連絡して、電話を切った。


(タイミング…良すぎるよ)


 私はそのまま駅に向かって、電車に乗った。電車の揺れに体を預ける。今から恋人に会いに行くと言うのに、この重たい気持ちを持て余す。


 また笙さんを心配させてしまうと私は待ち合わせの駅に着くと、明るめのリップを引いて化粧を直した。


 そして改札をくぐると笙さんが手を振ってくれる。


 優しい恋人。


 私は少し足早に駈け寄った。


「急にごめん。時間が出来たから」と私を見て微笑んでくれる。


「ううん。ありがとう。嬉しい」


 胸が苦しい。


「絹ちゃん、カレーでいいの?」


「あ、えっと。…今は何でもいいかな。あの時は食べたかったけど」と言うと「じゃあ、イタリアン行く?」と言われる。


「笙さん、あの…」


「どうした?」


 少しかがんで目を合わせてくれる。


「ごめんなさい」


 何を言い出すのだろうと自分で思いながら、笙さんを見つめた。


「…何かあった?」


 私は頷く。


「じゃあ…先にお茶でもする?」


 どこまでも優しい。


「ジェラート食べて良い?」とわがまま言っても、頷いてくれる。


 優しい恋人。


 その人を傷つけて良いはずない。


 自然に手を出してくれる。私はその手を取って、歩く。ジェラートの列に並ぶ。


「絹ちゃんはダブル? トリプル?」


「えっと、選びきれないないなぁ…」


「トリプルにしたら?」


「そしたら晩御飯食べれなくなる」と言って、私はどの味にするか真剣に考える。


「何かあったって…教育実習?」と笙さんはいつももちゃんと話題を覚えている。


「あ、そうなの。あの…驚いたんだけど、翠さんの…息子さんが来てて」


「え?」


「ちょっとややこしくて、翠さんとは血が繋がってないんだけど、養子縁組したみたいで」


「じゃあ…彼も日本に帰ってるの?」


「ううん。バンコクにいるみたいで」


「そっか…。それで絹は会いたいって思ったんでしょ?」と言われて、私は固まってしまう。


「あ、えっと。あの…その漣君に通話アプリのIDをもらってしまって…。悩んでて」


 なんでこんなことを笙さんに言ってるのだろうと自分で嫌になる。


「悩んでるって、それって俺に悪いと思って?」


「ごめんなさい」


 何もかもお見通しで、私は謝るしかできない。


「絹は可愛いなぁ」と頭を撫でられる。


「え?」


「…そんなのこっそりやり取りすればいいのに」


「いいくないよ。それはよくない」


「まじめ…だもんね」と笙さんは笑う。


 私たちの順番が来て、私はオレンジショコラとコアントローのジェラートを頼んだ。笙さんはピーチとピスタチオにしていた。一口ずつ交換する。


「ピーチおいしい」と私が言うと、笙さんはにっこり笑って


「会って欲しくない」と言った。


「え?」


「会ってもいいよって言うと思った?」


 真剣な顔して言うから、私は言葉を失くす。こんな笙さんを見たことなかった。


「普通に嫉妬してる。取られたくない」


「…うん」


「早く食べないと垂れてきてるよ」


「…うん」


 確かに垂れていて、慌てて食べる。私は笙さんの優しさに甘えていて、こんな相談までして、傷つかないはずないのに、と苦しくなる。


 無言で食べ続けて、ようやくコーンだけの部分になった。


「二年も経つのに…まだ絹にそんな顔させるなんて」と笙さんは呟いた。


 目の前の人を大切にできない自分が本当に嫌になる。


「ごめんなさい。…あのびっくりして…それで」


「分かってる。自分の小ささに苛立ってるから」


「そんなことないよ。笙さんは優しくて…私すごく助けてもらえてて」


「分かってる。分かってた。他の人が好きなの。それでも…」


 私は笙さんの手を取る。また自分で駄目にしそうで、怖くなる。


「笙さん…私、好きだから…」


 嘘じゃない。本当。絶対に本当。ぎゅっと手を握る。


「絹ちゃん…。わがままだけど、会わないで欲しい」


 私は何度も頷いた。


 優しい恋人の初めてのわがままだった。




 ホテルで体を重ねて、それで安易に仲直りできると私は思っていた。


「最低なこと考えてた」と笙さんが言う。


「最低なこと?」


 笙さんはそれが何かは言わなかったけれど、そう考えさせてしまったのは私のせいだった。哀しいくらい抱きしめられて「ごめん」と繰り返す。


 謝らないといけないのは私の方なのに、と動く口にキスをした。


「甘えすぎてたの…。私が」


 そう言っても、笙さんは首を横に振る。


 二人の間にできていた僅かな隙間が今日は大きくなった。それは私のせいだった。

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