第55話

教育実習


 その授業の見学は気が気じゃなかったけれど、漣君も私をじっと見ている。そして授業が終わって、教室から出た。


(長谷川…翠さんの苗字になっている)


 翠さんは日本に帰ってきたのだろうか、と思いながら廊下を歩く。



 放課後、同じ教育実習生で今日一日の報告書を書く。みんな「緊張した」と言っていたが、私はそれどころじゃなかった。みんながいろんな感想を言っている時、ドアが

ノックされて、漣君が私を呼び出す。


「中川絹先生、いますか?」とはっきりした声だった


「あ、失礼します」と言って、廊下に出た。


 漣君は私を見て、少し照れたように笑う。


「絹ちゃん…」と漣君が昔見たいに呼んでくれるけれど、背もぐんと伸びて私より高くなったし、可愛いよりイケメンになっていた。


「漣君、帰ってたの?」


「うん。中学校は日本がいいって言うし、お母さんも元気になったし。今はおばあちゃんの家にいるけどね」といろいろ教えてくれる。


「そうなんだ。びっくりしちゃった」


「俺も…絹ちゃんに会えるとは思ってなかったから」


 俺なんて漣君が言うから、成長に驚く。お互い、ぎこちない笑顔になる。


「あのさ…俺、あの頃は分からなかったけど…、絹ちゃんってお父さんの…恋人だった?」


「え? あ、えっと。あの…従姉妹が…恋人だったの。私は…勝手に好きだっただけで…」


 そう言うと、驚いた顔をする。


「…俺のせいで二人が別れたのかなって」


「ううん。そうじゃないよ。全然、好かれてなんかなくて…」と私は慌てて言う。


「お父さんは…今、バンコクにいる。後…日本にも時々帰ってるよ」


「え? お父さんが?」


 翠さんが帰国していた。胸が縮こまる。


「仕事でね。でも大体…マレーシアで、その後、バンコクに移ったから、俺も少しバンコクにいて、それで帰ってきた。」


「そうなんだ。…大変なことあったら、言って。お手伝いできることあったら…」


「ちょっと国語難しいよ」と言うから、私は笑って「早速お手伝いできそう」と言った。


 漣君は小学校六年生の漢字学習が抜けているらしくて、それに苦戦しているらしい。


「漢字は覚えないと…。あ、じゃあ、私に手紙書いて。五行でいいから。漢字を使うようにして。手紙が書きにくかったら、家でしたことでもいいよ」


「えー。俺だけ宿題?」


「そうよ。今、頑張らないと。後で大変だから。それが嫌だったら、テキストもってくるよ」と私は言う。


「わー、もう帰ろう。じゃあ」と漣君は私から離れた。


「じゃあ、気を付けてね」と私は手を振る。


 向こうに行きかけて、漣君は振り返る。


「あ、絹ちゃん、結婚する約束、覚えてる?」と聞いてくるから、笑顔で「忘れたー」と言って手を振る。


「えー、まじか」と漣君が言いながら帰って行った。


 私は胸がちぎれそうだった。翠さんの近状を聞いて、ざわざわする胸を撫でる。日本に帰国してたんだ。でも私に連絡しないということは…もう終わったことだというのだろう。


 今でも充分哀しくなる。実習生の教室に戻れなくて、窓から外を眺めた。初夏の日差しが眩しくて、私は目を細めた。




 その夜、笙さんが珍しく電話をかけてきてくれた。


「初日はどうだった?」


 教育実習、初日だから心配してくれたみたいだった。いつもは放ったらかしだけれど、そういうポイントは絶対に外さない。


「うん。…緊張しちゃった。今日は先生についてるだけで、何もしてないけど」


「そっか。絹ちゃん、中学生に混じれそうだもんな」


「違うよー。全然違うから」と私がむきになって反論すると、笙さんが笑った。


「よかった。元気そうで。最初の声が…ちょっと元気なかったから」


「あ、何もしてないけど…緊張で疲れちゃったから…かな」


「お疲れ。よく頑張ったね」


 本当に何もしていないのに、笙さんは誉めてくれる。私は返事ができなくて、困ってしまう。


「終わったら、美味しいもの食べに行こう。何がいいか考えてて」


「なんでも…」と言いかけて、私は「カレー。インドカレーが食べたい」と言った。


「へ? 珍しいね」


「あ、うん。なんか辛いもの食べたいなって」


「分かった」と笙さんが言ってくれる。


 私はインドカレーを久しぶりに食べたいと思った。笙さんと二人で。もう翠さんのこと、本当に私の中から消さなければ、と思った。


 どこかで、翠さんが私を想ってくれると期待していた。日本に帰ってきたら、きっと連絡してくれると思ってた。



 翌日も教育実習に向かう。中学生は思ったより幼くて、本当に可愛い。一年生は特に可愛い。数カ月前まで小学生だったから、幼い子たちが多くて、先生たちも「一年生は可愛い」と言っている。給食でなすびが食べられないと泣き出したりする子がいたりして、本当に可愛い。でも二年生も三年生も可愛い。


 私はそういう子供たちに癒されている。勉強ができない子でもなぜかいつもニコニコしている子もいるし、本当に子どもたちは癒しだった。反抗する子もいるけれど、それはそれである意味、自分を出してくるのだから、私は嫌いじゃなかった。


「生意気」という実習生もいたけれど、私は見た目が幼いせいか、そこまで生徒から嫌な事されることはないし、むしろ「絹ちゃん先生、台使いなよ」とわざわざ授業の前に黒板の台を用意してくれたりする。


 みんないい子で、私は本当に先生になりたいなーと思い始めていた。


「絹ちゃん」と廊下で漣君にすれ違うと必ず声を掛けられる。


「漢字やったの?」と訊くと、慌てて逃げて行く。


 周りの子も「漣、漢字やれよー」と言うから、私も笑いながら過ごすことが出来た。


 そして授業計画を作って、先生に確認してもらったり、クラブ活動を見たりと、忙しくて一週間あっという間だった。


 漣君はバスケットボール部に所属していて、土曜日練習あるから見に来てと言われる。漢字のプリント五枚と引き換えに私は出かけた。


「他の生徒にも絹ちゃん先生、来たの?」と言われるから、少し恥ずかしいけど、みんなの練習も見る。


 学生たちが走るのを見て、自分の頃を思い出す。私は茶道部に入っていたから、土曜日まで出てこなかったし、お茶というより学校でお菓子が食べれるのが楽しみで参加していた。


 そう思うと自分も随分、子供だったな、と思って体育館に向かう。みんな体を動かして楽しそうに見える。


 端に立っていると、生徒がわらわら寄ってきた。


「絹ちゃん先生、卓球する?」


「バレーは?」


「どうして来たの?」


「長谷川君にプリントさせようと思って」とひらひらと漢字プリントを見せると、生徒たちが笑い出す。


「かわいそー」と言いながら、漣君を指さす。


「漣君、数学と運動だけはできるんだよね」と誰かが言うと「それ最強じゃん」と他の子が言う。


「漢字もできて欲しいんだけど」と私が言うと、周りの子が明るい声で笑う。


 そして生徒たちは「彼氏いるの?」と聞いてきた。


「いるよー」と言うと、黄色い声が上がる。


「えー、どんな人? 同じ年? 年上?」


「二つ上。大学院生なの。何かのバクテリアの研究してる」


 恋バナが楽しいみたいできゃあきゃあといろんな質問が飛んだ。それに答えていると、漣君が向かってくる。


「あー、漣君来た。絹ちゃん先生彼氏いるって」と余計なことも言われてしまう。


「まじかー。俺のシュート見てくれた?」と漣君に言われたけれど、お喋りしてたから、全く見ていない。


「漢字プリント…してくれるなら、見るよ」と言って、プリントを渡す。


 丁度、顧問の先生が来て、みんなを部活に戻すように言ったので、私は一人になった。随分、身長が伸びた漣君が走ってシュートする姿は恰好良かった。シュートが決まったら、嬉しそうにこっちを見る。


 漣君が今楽しそうだから、私は良かったと思った。翠さんがあの時、漣君を連れて日本を出る決断をして、良かったと。南さんも具合が良くなったらしいし、何もかも良かった。良かったでいっぱいにしておかないと崩れそうになる。


 私は十五分ほど見学して、顧問の先生方に挨拶をしてそして、体育館を出た。


 私が中学生の頃、鈴音ちゃんは翠さんと恋をしていた。私はのんきに学校に通って、そして恋なんて知らずに、放課後のお菓子を目当てに週一のクラブにまったり通って、過ごしていた。今思えば、幸せだったと思う。




 それから一週間、つつがなく教育実習は終わった。最終日はみんなに色紙を書いてもらったりして、本当に教員になりたいと思える時間だった。


 漣君は最終日にようやく漢字プリントを出してくれた。


「返却できないじゃん」と言うと、「プレゼント」と照れたように笑う。


 そして手を大きく振って部活に行った。



 夜は先生方との懇親会があって、先生方も外では普通なんだな、と思いながらいろいろ話を聞いた。やっぱり私も先生になりたいですと言うと、みんな喜んでくれた。他の実習生は試験を受けるか悩んでいるようだった。


「ブラック企業って言うじゃないですか」と実習生が言う。


「まあな…」と先生方は一瞬、口を閉ざしてしまって、そして明るく笑う。


 それでも辞めないのはきっとそれ以上の魅力もあるのだろう、と私は思った。



 家に戻ると、笙さんから電話があった。懇親会があるから遅くなると言っていたので、ちゃんと遅くに電話をくれる。


「お疲れ様。どうだった?」


「うん。無事に何とか終わったよ」


 実習する前は漠然とした思いだったけれど、実際、生徒と触れ合って、私はもっと前向きになれたことを笙さんに話す。


「よかった。じゃあ、ご飯行こう」と言ってくれたから、日時を決めた。


 通話ボタンを終了して、今日、返ってきた漣君の漢字プリントを見ると、端っこにメッセージと通話アプリのIDが書かれていた。


『絹ちゃん、友達追加して。後、夢が叶って、先生になって戻ってきてくれたらいいな』


 私はクラスでもらった色紙も取り出して、眺める。みんなが夢が叶いますようにと書いてくれている。


 採用試験頑張らないと、と思ってその色紙を机の上に置いた。

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