第53話
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年が明けて、笙さんから連絡が来た。
多分、奈々ちゃんの彼氏、祐二さんから聞いたのだろう。でも一言もそんな話はなくて、初詣のお誘いだった。
着物を着ようと言う元気も気分もなくて、白いコートを着て、薄い水色のマフラーをぐるぐる巻いて出かけた。
駅の待ち合わせ場所に着くとすぐに笙さんが見つかる。
「久しぶり」と微笑みかけられる。
「お久しぶりです」
なんだか翠さんと会えないからとのこのこと出てくる自分に呆れてしまいそうになる。
笙さんはそんなこと少しも気にしない様子で、歩き始めた。
「バクテリアもお正月休みですか?」
「だったらいいんだけどね。交代で休んでて…」
「大変ですね。私はまだ何して働こうか悩んでて…」と言うと「焦らなくていいよ」と言われた。
「焦りますよ。みんな決めてて…私だけ…」と呟く。
時間だけが過ぎていく。
神社の境内に入ってお参りする列に並ぶ。三が日は過ぎていたけれだ.短い列ができていた。
「何をお祈りするの?」と笙さんに訊かれて、胸がぎゅっと詰まる。
願えない願い事だから、私は口にも出せない。
「えっと…健康かな」と言うと、笙さんも気持ちが分かったのか「それ大事」と笑ってくれた。
結局、自分の番になると私は翠さんが幸せであることを祈った。遠くの空の下で漣君と二人で仕事も上手く行ってることを願う。
「行こっか」と笙さんに言われて、おみくじを引く。
笙さんは大吉で、私は中吉だった。私はおみくじを境内に括り付ける。空が青くて、冷たい風がびゅうっと吹いた。
「何か、おいしいもの食べに行こうか」と笙さんが言ってくれる。
「はい。寒いからあったかいの…がいいですね」
「うどん食べる? 近くにうどん屋さんあった」
「うどん?」と私は聞き返して、翠さんが作ってくれた関西風のうどんを思い出す。
「寒いから鍋焼きうどんでも食べよう」
「あ、いいですね」と言った時「手をつないでいい?」と笙さんに聞かれた。
「寒いから?」
「寒いから」
笙さんの指先が冷たくて、手を繋いだら余計に冷えたけど、そのまま笙さんのコートのポケットにつないだ手を入れられる。
「ごめん。冷えてて」
私は首を横に振った。
謝るのは私の方だ。笙さんの気持ちを考えるのなら、誘いを断るべきだった。
うどん屋に入ると、出汁の匂いが漂ってそれだけでほっとする。二人で鍋焼きうどんを注文して、店内に置かれたテレビを見ていた。芸人が何か面白い事を言ってるのに、少しも笑えないまま画面を見ている。
「絹ちゃん…」
呼ばれて、笙さんの方を見た。テレビの芸人が好きかと聞かれたけれど、誰かも分からなくて、首を横に振る。私は本当に後悔する。せっかく連れて来てくれたのに、と笙さんに申し訳ない。せめて、二人で話をしようと、何か好きなテレビ番組があるか、聞いてみたけど、研究が忙して、テレビを見る時間もないと言う。私もテレビを見ていない。その時流れているのをぼんやり見るだけだった。それ以外に、好きな音楽、食べ物を聞く。
「なんか…どうかした?」と笙さんに聞かれた。
「いえ。あの…笙さんのこと、優しい人っていう以外、知らないなって思って」
「わぁ、ありがたいな。そう思ってくれて」と笑ってくれる。
そうこうしているうちに鍋焼きうどんが運ばれてきた。ぐつぐつ煮立っていて、やけどしそうだ。温度が落ち着くまで私はしばらく待とうと思って、手に取った箸を置いた。
「熱そうだね。…絹ちゃん。好きな人になれなくていいから、一緒にいよう」
「え」
笙さんの温かい笑顔に頷きそうになる。
「側に居させて欲しい」
湯気の向こうの優しさになだれ込みそうになる。
「でも…今は」と膝の上の手をぎゅっと握って、俯く。
いつか翠さんを忘れる日が来るのだろうか。いつか私は他の人を好きになる日が来るのか、という疑問に答えが出せない。時間が経てば忘れられるというけれど、それが何日かかるのか誰か教えて欲しい。
「ごめん。絹ちゃんの気持ちを無視して」
「あ、そうじゃなくて。…甘えてしまって。今日だって、のこのこ出かけたりして…。今もこんな…はっきりしない態度取って。本当は断って、ちゃんと一人で乗り越えて…それで…それでそれが出来てから、笙さんともお会いするべきだと思うんです」
「まじめか」と言って笑う。
堪らなく優しい笑顔で。
「はい」
「でも嬉しかったな。乗り越えてから、会いたいって言ってくれて」
「え? …あ」
「まったく可能性ゼロってわけじゃないってことだから」
私は自分が言った言葉を反芻する。そういう意味だったのだろうか、と自分で自分に訊いてみる。
「さ、そろそろ食べれるんじゃない?」と笙さんが箸を手にする。
二人でふーふー息を吹きかけながらうどんを食べた。お腹が温かくなって、ほんのり幸せな気持ちになる。
「やっと笑った」
笙さんにそう言われて、私は恥ずかしさを覚えた。
うどん屋さんを出て、駅までの道をのんびり歩く。
「今日はありがとう」と笙さんに言われる。
「こちらこそ…ありがとうございます」と頭を下げる。
「絹ちゃんはあんなこと言ったけどさ…、そんなに気にしなくていいって俺は思ってて。ほら、今日だって、こうして出かけて、俺の好きな食べ物のこととか知ってもらえて、むしろチャンスだって思ってるから。好きな子が落ち込んでたら、やっぱり側にいて慰めてあげたいし」
「…好きな子?」
「うん。そう。絹ちゃんのこと。そうじゃなきゃ…誘ったりしないから」
ダイレクトに言われて、私の胸が忙しくなる。
「顔、赤いよ?」と言われて、思わず頬を手で触る。
そんな様子を見て、笙さんは笑う。そして駅まで来て「また誘っていい?」と訊かれた。返答に困っていると
「負担に思わないで」と言われた。
私は頷いて、笙さんと別れた。
春が来て、私は笙さんと付き合うことになった。翠さんのことは忘れられなかったけれど、私がどうすることもできなかった。
笙さんは忙しいのもあって、そんなに会えないけれど、会ったらとても優しくしてくれる。私はその優しさにひたすら甘えていた。そして頻繁に会えないのは私にとって都合がよかった。自分の未来を考える時間がたっぷりあった。
「えー、今更、教職課程?」と奈々ちゃんや桃ちゃんには驚かれたけれど、私は教員になろうと決めた。
「雑誌の編集者じゃなかったの?」
「うん。そういうのは憧れで…。でも、ちゃんと考えて、決めたの。国語の先生になる」と言うと、二人は驚いた顔をする。
「ねー、少し大人になったよね。絹は赤ちゃんみたいだったけど」と桃ちゃんが言う。
「笙さんのおかげかな」と奈々ちゃんも言う。
「うん。そう。一生懸命研究してる笙さんを見ると、しっかりしなきゃって思ったから。でも笙さんだけじゃないよ? 桃ちゃんだってダブルスクールしてるし、奈々ちゃんだって、企業研究してるの見たら…私もって思ったんだもん」
二人が笑いながら頷いてくれる。
「よかったねぇ。いろいろ心配してたけど」と桃ちゃんが頭を撫でて、奈々ちゃんが横から抱きしめてくれる。
春から私は夜間に行われる教職課程を詰めるだけ詰めて、毎晩遅くに家に帰る。それでもまだ笙さんは大学にいるというのだから頭が下がる。だから帰宅後も机に向かって、勉強をする。机の上に鈴音ちゃんのオルゴールがあって、たまに音を鳴らしてくるくる回るバレリーナを眺める。短い時間、全身全霊であの人を好きだった。忘れることはきっとない。でもいろんなことに蓋をして、私は前を向く。
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