第52話

さよなら



 私は振り返ると、さっきの警察官と漣君が話をしている。


「長谷川さんはご在宅では?」


「あの…仕事でマレーシアに…一週間ほど前からで」


「え? ではあなたは?」


 私は何て言ったらいいか困ってしまう。すると後ろから漣君が「パパのお友達」と叫んでくれた。


「そうです」と言うと、名前と私が一時間前にどこにいたのか聞かれた。


「近くの…病院にお見舞いに行ってました」


 具体的な病院名とお見舞い相手の名前まで聞かれる。


「絹ちゃん」と漣君が側に来てくれた。


「このお姉さんのこと知ってる?」と警官が訊く。


「僕が勝手に来たんだよ」と言ってはくれたものの、警官は病院に電話して私が来ていたか確認を取っていた。


「どうして? 何があったの?」と漣君が私に訊く。


「漣君…ママに内緒で来たの?」


「内緒って…ママがパパを連れてきてって、いっつも言うから…。家に帰りたくなくて、学校終わって直接来た」


「ちょっと心配したみたい。大丈夫」と私は漣君の頭を撫でた。


 しばらく警官と話をして、事件性はないと判断されて、漣君はパトカーに乗せられて帰って行った。パトカーに乗れるというので、漣君は喜んで私に手を振る。


 私は漣君の食べたアイスのスプーンを洗ったりしながら、どっと疲れが出る。翠さんの滞在ホテル先も聞かれたから、警察から連絡が行くかもしれない。漣君の状況を知ったらきっと胸を痛ませるだろうと思いながら私から電話していいものか悩む。


 クーラーを消そうとした時、翠さんからの着信がある。


「もしもし」


「ごめん。絹ちゃん…。警察から連絡があって」と早口で言われる。


「あ、はい。でももう漣君も無事に家に帰ったと思います」


「ほんと、ごめん。巻き込むなんて。…家に来てくれてたの?」


 それで立ち退きの話を思い出した。


「翠さん…。どうしよう」


「え? 何があったの?」


「この家が無くなっちゃう」


 私は立ち退きの話を説明した。思ったより翠さんは冷静だった。


「そっか…。まぁ、いろいろタイミングかもしれないね」


「え?」


「ちょっと帰国を早めるよ」と言って、それから他愛のない話をして通話を切った。


 翠さんの声を久しぶりに聞けて、私は嬉しかったけれど、この先のことを考えると不安になった。



 大学が始まった。いつもの大学風景が少し違って見える。一緒だった湊はいない。たまに肌寒い風が吹いたりするから、私は桃ちゃんと奈々ちゃんとずっとべったりくっついている。桃ちゃんの指には綺麗なエンゲージリングが嵌められていた。


「英さんがうちに来てくれて…」と話してくれて、和やかに話が進んだという。


「でも桃ちゃんは客室乗務員用の専門学校に通うんでしょ?」と奈々ちゃんが言う。


「そう。それは頑張る」


 私だけ何もなくて、いろいろ焦ってしまいそうになる。


「絹は…親バレはどうなったの?」と奈々ちゃんに訊かれる。


「なんか…翠さんがお父さんに手紙を書いていて…」


「えぇ? 手紙?」と桃ちゃんが驚く。


「そう。それで…お父さんはそこまで反対じゃなくて…。でもいろいろあって」とこの間の警察沙汰の話をする。


 二人は肩を落として、揃ってため息を吐く。


「絹には一生、のんびり、安穏と過ごして欲しいのに」と桃ちゃんに言われる。


「なにもそんなトラブルメーカーと付き合わなくても」と奈々ちゃんも悲しそうな顔で言う。


「…ごめん」と謝ると「謝らないで」と二人に挟まれる。柔らかな温かさで少し冷えた秋の空気が和らいだ。



 翠さんは帰国しているはずなのに連絡が来ない。大学が始まったこともあるけれど、私はなんとなくあの部屋に行き辛くなっていた。きっと南さんと話し合いをしているはずだった。翠さんのことだから漣君を放っておけない。


 このままフェードアウトなのだろうか、と思うと胸が縮こまる。大学の帰り道、メッセージが届いた。


「話したいことがあるから。会える日を教えてください」


 会える日なんて聞かなくても、いつでも会いたいから、私は翠さんに合わせて時間の都合をつけるつもりでいた。でもなんだかこのメッセージは良くない話だと思った。


 私は返信せずに、そのまま翠さんの部屋に向かった。



 いつもの道を早歩きで急ぐ。


 こんな胸が押しつぶされそうな気持ちで歩いたことあったかな、と思いながら。小道を通る頃には日も沈んで薄暗くなっていた。アパートの下から見上げるといつもの二番目の扉の横の窓は明かりがついていた。階段を上がると、扉が中から開いた。


「絹ちゃん」


 一月ぶりに見る翠さんだった。


「嫌だ」


 何も言われてないのに、私はそう言った。


「…入って」


 部屋に入る。段ボールが積み上げられて、荷物が片付けられていた。


「翠さん…。引っ越すの?」


「うん。立ち退きもあるし…」


「どこに? 近く?」


 震えながら聞く私を椅子に座らせようとする。私は振りほどいて、翠さんに抱き着いた。


「遠くに行こうとしてるでしょ?」


 返事がない。きっと当たってる。


「漣と…一緒にマレーシアに行こうかなって…。南がうつ病になって…。向こうの両親も大変で」


 翠さんは帰国後、南さんの家に行った。半狂乱になったかと思えば、しくしく泣きだしたり、無気力状態だったりと両親もお手上げ状態だった。漣君のお世話をするどころじゃなく、このままでは施設に引き取られることになると言うので、漣君を翠さんが引き取ることになったらしい。養子縁組も考えていると言っていた。仕事も再起しようと思っていたところに、マレーシアだと物価が安いのもあって、またパビリオンの建設で気に入ってもらえた人もいて、そこに事務所を構えるという話も出ていたが、いろいろ考えると現実的になった、と言った。


 話をずっと聞いていて、私のことは何一つ考えられていない、と思った。


 何一つ、私のことは。


 結局、私は鈴音ちゃんの代わりにすらなれなかった。


 力なく、私は翠さんから離れる。


「さよなら?」


 そう聞いたら、翠さんの瞳が揺れた。


 段ボールに混ざって、鈴音ちゃんの荷物の入ったカラーボックスが視界の端に見える。鈴音ちゃんは連れていってもらえるんだ、と私は羨ましく思った。


「カレー、食べれるのに? 私は辛いもの、一緒に食べれるのに?」


 翠さんのシャツをぎゅっと握る。


「死んだら連れて行ってくれる? 私も一緒に? 死んだら、何か一つでも一緒に持って行ってくれる?」


 酷い事を言ってる自覚はあったけど、止められなかった。


「結局―、私が勝手に一人で好きになっただけだから、私のことなんてただの似てる人なだけで」


 口をキスで塞がれた。翠さんの匂いがする。


(待っててって言って)


 優しいキスはずるい。


(一緒に行こうって言って)


 最後まで愛された鈴音ちゃんが本当に羨ましい。


(一番好きだって言って)


 本当の気持ちは何一つ声にならなかった。


 キスが終わって、私はさよならも言えずに、そのまま部屋を出た。


 さよならなんて言いたくなかった。




 クリスマスが終わって、私はあまりの物ケーキを持って、島田さんの家を訪ねた。まだアパートの取り壊しは行われていない。


「あらー。絹ちゃん。入って」と言われる。


 ケーキを出すと、お茶を用意してくれた。


「鍵を…返すの忘れてて」と言うと、朗らかに笑う。


「もういいわよ。年明けに取り壊すから」


「そうですか」


「そうなの。…もう誰も住んでいないのよ」と淋しそうに笑う。


「土地は売られるんですか?」


「甥に任せててね。絹ちゃん、買ってくれる?」


「はい。私、買います。お金、貯めて」と言うと、また笑った。


「高いわよぉ」


「それでも買います。買って、翠さんにマンションを建ててもらいます。お仕事の依頼するんです」


「あらあら。やりて社長にでもならないとね」


「はい。…そうでもして、会いたいです」


 本音を言うと、涙が零れそうになった。


「いつか叶うといいわね。しばらく売らないようにしてもらうから」と島田さんは言う。


「いえ…それは…冗談ですけど」


 クリスマス過ぎて、年末は賑やかな雰囲気が漂うのに、私は島田さんと静かにお茶の時間を楽しんだ。

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