第51話

事件



 翠さんが帰って来るまで、私は時々、翠さんの部屋に行った。その日も翠さんのアパートに向かった。小道を抜けると、見たことのない男性が立っている。私を見て


「ここの住人ですか?」と訊く。


 私は曖昧に頷いた。


「…年内で立ち退きをお願いすることになりました」


「え?」


「老朽化してて…」


「あの大家の島田さんは…」


「元気ですよ。でも…高齢ですし。僕が管理するのも大変で…」


「もしかして甥っ子さんですか?」


「あぁ、そうです。伯母はまだ頑張るって言ってるんですけどね。今、夏風邪をこじらせて、入院してるんですよ」


「入院ですか? お近くの病院?」


「すぐに退院する予定ですけどね…。家ではみる人がいなくて…。いろいろ考えてるんです」


「お見舞い…行っても大丈夫ですか?」と私は聞いた。


 甥っ子さんは恐縮しながらも、病院を教えてくれる。近くだったので、行ってみることにした。


 私はお見舞いにゼリーを買って、病院に向かう。受付で病室を教えてもらって、エレベーターに乗り込んだ。島田さん、風邪をこじらせていたんだ、と私は思った。


 病室に入ると、島田さんが昼食を食べているところだった。


「あ、すみません」と私が言うと「あら…。絹ちゃん。どうしたの?」と驚いた顔で言う。


「アパートの下で甥っ子さんにお会いして、入院されてると聞いて、お顔を見に来ました」


「そうなの。もう二三日で退院するのよ。すっかり元気になったんだけど、ついでにいろいろ検査してもらうことになって」と笑っている。


「そうですか。良かったです。ゼリーもって来たので、食後にどうですか」と言うと、嬉しそうに頷いてくれた。


 椅子をすすめられて、側に座る。島田さんはご飯をゆっくりと食べながら話す。


「ごめんなさいね。立ち退きの話、あの子してたでしょう?」


「はい。それで驚いて」


「そうなの…。でも、仕方ないわねって思ってるのよ。私一人だとどうしても…ね。長谷川さんにも伝えたかったんだけど、お留守みたいで…」


「あ、今、マレーシアに行かれてて」


「そうなの? お仕事?」


「そうなんです。海外で日本の企業のパビリオンを建設するのに翠さんの設計図が通ったんです」と勢い込んで言うと、島田さんは笑う。


「すごく好きなのね?」


「はい? …はい!」とまた勢いよく返事する。


 島田さんはおかしそうに笑い続ける。


「…覚悟はまだないんですけど、やっぱり好きです」


「ごめんなさいね。あんなこと言って。老婆のたわごとだと思って。私は絹ちゃんのゼリー頂くから、絹ちゃんはこれ食べて」と病院食についている小さなゼリーを渡してくれる。


「はい。いただきます」と言うと、また笑う。


 小さな一口サイズのゼリーはブドウの味つけと香料で懐かしくなる。


「小さい頃、鈴音ちゃんともこのゼリー食べました」


「鈴音ちゃん…たまに長谷川さんの愚痴言ってたのよ」


 初めて聞いて、私は驚いた。


「愚痴? ですか」


「ほんと、些細な、かわいらしいことだけどね。靴下いつも裏返ったまま洗濯に出すとか…、グリンピース食べないとか。仕事しながらそのまま机で寝ちゃうとか、どこでも寝ちゃうから、夜中に起きていないから、驚いたらトイレで倒れてて、驚いて、救急車を呼ぼうと思ったとか」


 私の知らない翠さんだった。


「その度に、まぁまぁ、なんて言いながら、私は姑のようなお母さんのような気持ちになって…」と笑う。


 不思議だった。鈴音ちゃんがそんなことを他人に言うなんて思いもしなかった。実のおかあさんの前でもそんな話しそうにない。いつもいつも優等生の鈴音ちゃんだった。


「じゃあ…きっと島田さんの前では鈴音ちゃんも頑張らない自分でいられたのかも…ですね」


「そう?」


 島田さんの人柄もあるかもしれない。私は穏やかな笑顔を見ながら、そう思った。家を飛び出したのは、翠さんだけのせいではないのかもしれない。私には分からないけれど、何でもよくできた鈴音ちゃんはそんな自分が窮屈になったのかもしれない。


「鈴音ちゃん、毎日が楽しいってそう言ってたわ。病気になった後も」


 翠さんといたことで、家を飛び出したことで、鈴音ちゃんは生まれて初めて自由を得たのかもしれない。伯父さんと伯母さんが悪い人ではないけれど、あまりにも小さい頃から何でも器用にこなす鈴音ちゃんをずっとそのままだと思って、それは間違ってはいないのだけど、その思いで育てて、それがいつしか苦しい檻となっていたのかもしれない。


「絹ちゃん…。私、鈴音ちゃんが好きよ。でもね、あなたといる長谷川さん、ちょっと違うのよ」


 何を言われるのだろう、と少し背筋を伸ばす。


「ちょっと…面白いの」


「へ?」


「なんか面白いのよ。鈴音ちゃんの時は、もうそれは大切に大切にって壊れ物を扱うようにしてたんだけど…」


 そうだとは思うけれど、私と一緒の翠さんが面白いというのは思ってもみなかった。


「この間も二人で模型持ってきてくれたでしょ? あの時も、すごく楽しそうで。模型の説明とか…。長谷川さんってこんなに明るかったんだって、内心驚いてたの」


「それは私のせいじゃなくて…翠さんが建築好きだからですよ?」


「そうかしら?」


「はい。私もいろんなお話聞かせてもらいましたし」


「ふふ。…でも本当に楽しそうだったから」


 鈴音ちゃんといる時はやはり病気のこともあっただろうし、と思う。島田さんは立ち退きの件は本当に申し訳ない、と言ってくれたけれど、私は翠さんが帰って来たらきっと悲しむだろうな、と思った。鈴音ちゃんと過ごした家が無くなってしまう。


 病院から出て、また翠さんの部屋に戻る。この部屋が無くなるのが私も淋しい。ベランダで一人でお茶をする。朝顔の種も収穫して、私は来年もこのベランダで植えようかと思っていたのに、それもできなくなってしまう。鈴音ちゃんの風鈴も来年は違う場所に飾られることになる。そう思うと、写真に収めておいた。


 呼び鈴が鳴るので、驚いて玄関に向かう。ランドセルを背負ったままの漣君が立っていた。


「どうしたの? パパいないけど」


「うん。なんか会いたくなって」


「アイス食べる?」


「いいの?」


「いいよ。おいで」と私は漣君を家にあげた。


 漣君にアイスを食べさせて、私はぼんやりしていた。漣君がどうしてここに来たのか聞いていいのか分からない。


「絹ちゃん…」


「なあに?」


「ママがさ…。ちょっとおかしくて」


「え?」


「おかしい?」


「うん。会社休んで、ずっと家にいて、それでパパを呼んで来てって言うんだけど…」


「うーん。まだ一週間は帰って来ないみたい。外国に行ってるの」


「…どうしよう」


「とりあえず…えっと、おばあちゃんとかに連絡してみよかっか?」と私が振り返った時、また呼び鈴が鳴った。


 私は漣君のママが来たのかと身構えたが、玄関に向かう。二人分の大きい人影で


「長谷川さん、すいませーん。警察です」と言う。

 

 驚いて開けると


「こちらに村川漣君いますか?」と警官が訊く。


 もう一人の警官が「失礼します」と言って、勝手に入って行く。


「あの…」


「元夫に誘拐されたという通報がありまして。お話いいですか?」


 突然、誘拐の容疑者になった。

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