第48話

夢と欲望


 夜は静かで、海の見える窓は真っ暗だ。満月に近い月が登って、光が海面をゆらゆら照らしている。海が見えるホテルだった。夏休みなので、家族や学生でロビーは混雑していたのに、部屋に入ると静かだった。


 私はシャワーを浴びて、翠さんを待っていた。そういう自分がなんだかどこに身を置いていいのか分からなくて、景色を眺めることにしたのだけど、夜の海は暗くて月の明かりがゆるゆると流れていて、それを綺麗と思う余裕がないほど、鼓動が鳴る。


 髪の毛も乾かしたし、なんなら綺麗にブローまでした。化粧はしたくないけど、しないとまるで子供みたいだ。桃ちゃんからメッセージが届いた。


『避妊忘れずに!』とタイミングを測ったように届く。


 思わず吹き出したものの、用意がないことに気がついた。


『ない、どうしたらいい?』と桃ちゃんに返事を送る。


『じゃあ、今夜は見送りだね』とすぐに返事が返ってくる。


「え。いやだ」とスマホに呟く。


『今日は全ての欲を捨てて、すやすやと赤ちゃんのように眠りにつきなさい』と続けてメッセージが届く。


 号泣スタンプを送っておいた。


 もう窓の外の景色とか言っている場合ではない。


 私はベッドに潜り込んで泣きたくなった。


(翠さん、持ってるかも…。持ってないかも。いや、そもそもしないかも)と、ぐるぐる考えが巡る。


 湊の時と全然違う、とふと思った。湊の時は通販でまとめ買いした避妊具の箱を見た時、欲望の凄さにため息しか出なかった。一箱貰えば良かった、と思うと同時に申し訳ない気持ちになる。分かってあげられなかった。


(元気にしてるかな)と思いながら、首を横に振る。


 ベッドから起き上がった時、翠さんがホテルのナイトウェアを来て出て来た。


「寝る?」


 普通に聞いてくるけれど、その寝るはどういう意味なんだろうと首を傾げた。


「翠さん、お話、少ししたいです」


「いいよ」と言って、ベッドの中に入って、すぐ横に来てくれる。


 それだけで体が熱くなる。私は本当にどうかしてるのかもしれない。


「何の話しようか?」


「建築。翠さんの作った家とか…」


「建築?」


「はい。私…全然、今まで興味なかったし、今更建築家になろうとか無理ですけど、でも、翠さんが人が住んでいる家を作るのが好きなの、なんとなく分かって…」


 翠さんの話は楽しかった。気候、風土に合った建物の話、サグラダファミリアで有名なガウディはあまり設計図は簡素に書いて、模型で作っていった話には驚いた。


「じゃあ…」


「計算なんてしなくて、なんていうか実地で作っていくって感じかな。でも…そうだからかもしれないけど、建築なのに植物を連想させる不思議な建物を作るんだよ」と言いながらスマホでガウディの建築物を見せてくれる。


 くねくねと曲線で作られた建物や、公園を見ていると、まるで地球とは思えない気がしてくる。


「メルヘンな世界ですね。…いつか行ってみたいなぁ」


「今でも住んでる人がいるっていうから、すごいよね」


「住んでる人はいいなぁ。楽しそう」


「逆に、コルビジェは直線の美しさで」とまた違う建物をスマホで見せてくれる。


 緑の中にある白い直線の建物は本当に美しい。


「わー、ここも住んでみたい。…でも私は…翠さんのあのアパートが出来たらいいのにって。どうしてこの人たちは自分の好きな建物を建てて、残せるのに、翠さんは駄目なんだろ」と私が言うと翠さんが笑う。


「偉人と比較しないでよ」


「偉人ですよ。ほら…頑張って生きなきゃって話しましたよね」と私は言う。


「そうだね。頑張って生きなきゃね。いつかあのアパートが出来たらいいね」


「そしたら、教科書に載りますね」


「載るかなぁ…。大体日本は地震が多いから建物が残りにくい」


「でもほら、お寺とか残ってるじゃないですか」


「お寺かぁ。木造建築だし、人が住んでる家となると厳しいんじゃないかな」


「翠さんの夢ってありますか?」


「夢?」


 しばらく考えて「まだ分からないな。いい家、建物を作りたいとは思うけどね」と教えてくれる。


「絹ちゃんは?」


「私は…まだなくて。働く職種も雑誌の編集とかなんとなく思ったりしたけど…。本当に好きなのか分からなくて。何か自分の好きなものがあればいいんですけど…」


「絹ちゃん、料理頑張ってくれてるから、そういう出版社とかは?」と翠さんが言ってくれる。


「えー。あんな料理でですか。ちょっと恥ずかしいです」


「どれも美味しかったよ」


「頑張ります」と私はちょっと嬉しくて笑った。


「じゃあ、寝よっか」と翠さんがスマホをサイドテーブルに置いた。


「はい」と言いつつ、頭を横に並べて、私は翠さんが着ているナイトウェアを握る。


(このまま赤ちゃんのように寝るんだ)と桃ちゃんのメッセージを脳内で繰り返す。


「翠さん…」


(寝るんだって言うのに)


「寝れない?」


(赤ちゃんのように…。赤ちゃん? 赤ちゃんだってぐずったりするのに)


「寝る前にキスしてもいいですか?」


(おやすみの…)


「いいよ」と言って、軽く額にキスされる。


(違う)と私は思わず体を起こして、翠さんの上に乗る。


「私のこと、好きって言ってくれたのに」と馬乗りになって言う台詞じゃないっていうのは分かっているのに口に出してしまった。


 いつものように笑われるかと思ったら、翠さんの顔が赤くなっていた。


「え?」


「我慢しようと思ったのに」と言って、起き上がって抱きしめられた。


「なんで…我慢」と聞き返したら、そのままキスされた。


 今度は欲しかったキスだった。


「理由」


 口が離れた僅かの隙に訊いてみる。


「理由?」


 また隙ができるまで、質問できない。


「我慢の」


 深いキス。こんなことされながらどうして我慢しようと思うのか分からない。


「絹が…体目当てって思わないかなって」


 思わず私は体を離した。


「体…目当て」


 翠さんが抱きしめて「違うから」と言うけど、


「そうです」と私は言った。


「そうじゃ…」


「私、翠さんの体も好きです」


 翠さんが驚いて私の顔を見る。


「全部。好きです。体も、中も。我慢なんて、私ができないです」


 恥ずかしいけど、本当の気持ちを全部言った。全部言わないと、きっと私は鈴音ちゃんより愛してもらえない。翠さんは私が鈴音ちゃんを気にしていると思っているから、そういう行為をするのも、代わりだと思われそうでやめておこうと思ったらしい。


「確かに我慢…できない」


 いろいろ翠さんは考えてくれたみたいだけど、ちゃんとゴムも用意してくれていて、良かった。


 満ち足りた夜で、私は今度こそ、桃ちゃんのメッセージ通りにすやすやと眠りにつくことができた。

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