第46話

新しい生活



 旅行は楽しく帰ってきて、笙さんとも最後は笑顔で握手して別れた。私はバイトに翠さんの家にと出かけて、あまり家にはいなかった。


 翠さんにお土産の桃ゼリーを渡すと喜んでくれた。漣君が遊びに来ていたので、みんなで一緒に食べる。


「絹ちゃん…」とゼリーを食べ終えた漣君が私のゼリーを見ていた。


「え? もう一つ食べる?」と私が訊くと、翠さんが「駄目。一個だけにして。晩御飯食べなくなるから」と言う。


 そういうことを聞くと、お父さんだったんだな、と私は胸が詰まる。


「じゃあ、お家に持って帰る? それでまた明日食べたらいいよ」と私はまだ開けていないゼリーを漣君に渡す。


「いいの? ありがとう」と嬉しそうな笑顔を見たら、私まで幸せな気分になる。


「絹ちゃんがくれたから、大事に食べるね」


 胸がキュンとなって、漣君を食べてしまいたくなる。漣君は夏休みの宿題を持ってきていたから、私はテーブルを片付けて、勉強しやすくする。


「結構、宿題残ってるねぇ」と私は夏休みの宿題プリントを眺める。


「算数はいいんだよ。早いから。読書感想文が…まだ本読んでないし、本読むの苦手」と漣君は体を投げ出した。


「とりあえず、できることしよう。ほら、算数」と私はプリントを捲る。


 それでものろのろしている漣君に「絹が解きましょうか?」とまた謎の乳母設定で、話しかける。


「あー、やめて。できるから」と慌てて鉛筆を持つ。


 始めたら集中しだしたので、晩御飯の用意をする。今日はラタトゥイユと白身魚のフライパン焼き。白身魚は下処理がされて後は焼くだけでいいのを買ってきた。ラタトゥイユは簡単で材料さえあれば、フライパン一つで出来る。トマト野菜煮込み。とろみがつくまで煮込めば完成だ。 


 ラタトゥイユも後少しのところで、パンでも買いに行こうと思った。二人ともそれぞれ集中している。火を止めて、私はそっと表に出た。フランスパンに乗せたら美味しいだろうな、と思って、私はパン屋さんが駅前にあったな、と思って階段を降りると、下で南さんに会った。


「ちょっと」と向こうから声を掛けられる。


「…はい」


「あなたのせいよ。養育費止まって…」


「私の?」と思わず聞き返した。


 私が翠さんのお金を使っていると言う事だろうか。もちろんご飯を買うお金はもらってはいるけれど…、と南さんを見る。


「翠が…新しい生活を考えてるって。だからもう今までみたいにはできないって」


「新しい生活?」


 そんなこと一つも聞いてなかった。


「また事務所を構えて、新たにやっていくつもりなんでしょう?」


 それがどうして私と関係あるのかさっぱり分からない。


「翠が…恋してるの分かる。あの時だってそうだった。あの子がやっと死んだって思ったのに、帰って来なくて…で、次はまたあんたが…」


 翠さんが恋をしてる…と私はその台詞を心の中で繰り返す。


「もういい加減にして」と南さんが叫ぶ。


 何かをわめいている南さんの言葉がさっぱり聞き取れない。翠さんが恋をしている。そればかりが繰り返される。


「…私じゃ…ないです」


 翠さんは私じゃなくて、私を通して鈴音ちゃんに会っているだけだ。南さんの言葉が届かないように、私の言葉も南さんに届かなかった。


 しばらくして、翠さんが出てきた。


「やっぱり君か…」と階段を降りて来る。


「この子のせいでしょ?」と叫んでいる。


 漣君に聞かせたくない。私は入れ替わりに階段を駆け上がる。急いで部屋に入ると、漣君はテーブルの上で拳をぎゅっと握っていた。


「漣君」と私はその手を包む。


「…知ってる。パパが本当のパパじゃないの…分かってる。さすがにこの顔だもん。全然違うの分かってる」と私に言う。


 その目から涙が溢れるのを見て、私はどうしてあげればいいのか分からなかった。


「ママが浮気したんでしょ? …だからママが悪い」


 何を言ってあげればいいのか分からなくて情けなくなる。


「なのにどうしていつもママは怒ってばっかりなの? ずっと…悪いことしたのに、パパに怒ってばっかりで」


 漣君の宿題が濡れないように、私はそっと遠くへ押しやって、抱きしめた。


「きっとママはパパが大好きなんだよ」


「なんで? 大好きだったら怒っちゃだめだよ」と漣君が激しく泣き出した。


「そうだよね…」と言って頭を撫でる。


 大人になれば何でもできると思ってたけど、素直になるのが難しくなる。そんな説明を漣君にしても意味がない。


「ママはパパが好きで、上手く伝えられないんだよ。きっと」


「パパは? パパは絹ちゃんが好きなの?」


「そうかな。私の従姉妹がいたの。そっくりな。その人のこと…大好きだったみたい」と私はぼんやりとベランダの方を見ながら言う。


 風鈴が音も出さずに吊るされている。


 まだ外で言い合いが続いている。


「絹ちゃん、じゃあ…僕が好きになっていい?」


 かわいらしい提案に私は頷いた。泣き顔でくしゃくしゃになりながら言ってくれる。


「じゃあ、大人になったら結婚しよう?」


「えー。その時は絹は…おばさんになってるけどなぁ」と言うと、可愛い漣君は「ならない。絹ちゃんはおばさんにならない」と言ってくれる。


 そうだといいけど、誰もが等しく年を重ねる。


「今は絹のこと、好きでいいですよ? でも漣君が大人になった頃にはきっと素敵な女の子がたくさん周りにいますよ」と乳母の視点で言った。


「そうかな」


「そうですよ」と言ったら、なぜか安心したように笑ってくれる。


 涙で濡れた可愛い顔を私はティシュで優しくふき取る。


「宿題…しましょうか?」と聞くと、漣君は首を横に振った。


「ママ…来たから、帰るよ」


「ママは漣君を怒らない?」と少し心配になって聞いてみた。


「怒る。普通に怒る。早くしなさいって。今からやろうと思ってたのにっていっつも喧嘩する」と漣君が言う。


 それを聞いて安心した。ごく普通の家庭だと思う。


「後、おばあちゃんとおじいちゃんいるから…ママと喧嘩したら、そっちでテレビ見る」


「でも宿題しないと…後三日で学校始まりますよ?」


「うん。今日は頑張る。絹ちゃんに怒られたくないから」と言ってくれるのも可愛い。


「また来る?」


「うん。絹ちゃんに会いに来る」


 だれかに会いたいと思ってもらえることがこんなに幸せなんだと実感しつつ、片づけを手伝う。そしてそっと漣君を送り出した。また私が顔をだしたらヒートアップしそうだから。玄関で小さくバイバイする。もう口論する声も聞こえなくなった。


 そしてラタトゥイユの火を再びつける。


 しばらくして翠さんが帰ってきた。困ったような顔をしている。


「…ごめんね」と謝ってくれる。


「いいえ。あの…」


「あの時と同じだ」と翠さんも言った。


 鈴音ちゃんと付き合っていた時、会社に怒鳴り込みに来た時と同じだと言う。


「参った…」と落ち込んでいる。


「翠さん…。お仕事…」


「あぁ、そう。またちゃんと事務所…と思ったんだけど…ちょっと考える」


「え? 考え直すんですか?」


「うん。もう…邪魔されたくない」と言って、仕事用の椅子に座る。


 おこがましいけれど、聞いてみた。


「南さんが私のせいだって言ってたんですけど…」


「え?」


「違いますよね? もしお金がきついなら…あの、私も少しは、ご飯代とか出しますけど。私も翠さんには夢をかなえて欲しいし…。あ、全然、ちょっとしか出せないですけど」


 一瞬、翠さんは固まって、そして笑い出した。


「お金…。養育費も止めたって聞いたし」


「そうそう。絹ちゃんのせいだ」と笑いながら言う。


「え? 私の? 食費以外にも光熱費が上がったとか?」


「違う。光熱費とか食費とかじゃなくて。もう一度…頑張ろうって思えたから。絹ちゃんがここに来てくれて…生きてくだけの毎日だったけど、もう一度、チャレンジしようかって思えたから」


 養育費はそもそも払う義務はなかったけれど、翠さんの好意で払っていた。離婚時に相当の金額も払ったから、向こうの両親は恐縮していたらしい。


「でも…少し頑張ってみたくなって。いろいろ準備したくて。養育費の相談しにいったんだよ。向こうの両親に。そしたらもちろんいらないって言われたんだけど…。南は納得してなくて。お金じゃなくて…それで俺とのつながりが切れるのが嫌みたいで」


「お金の問題じゃなかったんですね」


「そう。お金じゃないみたい。こっちはちょっとお金がいるから…、あ、絹ちゃんにどうこうしてもらおうなんて思ってないよ。すでにありがたいし、タダ働きで申し訳なく思ってる」


「そんな、この程度で力になるならいくらでも…」と私は翠さんが立ち上がる力になれていることが嬉しくなった。


 私はラタトゥイユの火を止めた。いい感じにトロッと煮込まれている。味見をしたら、味付けも上手くいった。


「絹ちゃん」と呼ばれて振り返る。


「はい?」


「もし…」


 翠さんの目が一瞬、細められて、そして微笑まれた。


「ありがとうね」


 私は「もし…」の後の言葉が何か気になったけれど、聞き返せなかった。


「そう言えば外に出てたの…なんで?」


「あ、パンを買いに行くの忘れてました」と私は慌てる。


「一緒に行こっか」と言ってくれる。


「え? お忙しいのでは?」


「少しは体を動かさないと」と言うので、一緒に出た。


 夕方になって、暑さはましになってるとは言え、まだ暑い。


「一緒にお買い物って…初めてかも」


「お買い物? パンが?」


「はい。パンですけど」


「そう言えば、いろいろ行くって言って、連れてってあげてないなぁ。高級フルーツパーラーとか」


 以前、マンゴープリンをお客さんにもらった時に約束していた。


「あ、そうでした。行きたいです」と言って「あ、割り勘で」と付け加えた。


「ごめん。なんか、急にやる気出て、仕事詰めてしまって。休み取って、デートしよう」


 デートという言葉に体が固まった。


「デート?」


「うん。再来週末にマレーシア行くからね。それまでに一日休み取って…」と翠さんが言ってくれるから、思わず喜んでしまった。


「嬉しい。どこ行きましょうか?」と思わず口が軽くなる。


「行きたいとこある?」


「え? すぐには思いつかない…」


「じゃあ、フルーツパーラーの後は、車借りて、ちょっとドライブする?」


 思わず日帰りか聞いてしまって、翠さんが「どっちでも…。泊まれるの?」と少し顔を赤くして聞いてくれた。


 私は宿泊の言い訳を考えることにした。今日は幸せで、日が傾いた道を歩きなら、翠さんを見て、微笑む。


 あの時の翠さんが元気になったと、鈴音ちゃんに教えてあげたかった。きっと鈴音ちゃんが好きだった翠さんに戻っているはずだ。


「影が…」


「影?」


「影が長くなって。私、大人になったら、こうなるのかなって、小さい頃、影見て憧れてました」


 そう言うと、翠さんが柔らかく微笑んでくれる。あの短い影はもう過ぎたのだ、と私は微笑返した。もう影を見て憧れる私は遠くなった。

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