第45話
未来へ
カヌーは笙さんと一緒だった。自分で言ってたとおり、笙さんは運動が苦手らしく、私たちのカヌーはちっとも進まないし、くるくるその場を回るだけで、でも私はそれが楽しくて、笑ってしまった。
「ちょっと、絹ちゃん、笑ってないで」
「だって…さっきからぐるぐる…」と言って、私はオールを持ちながら力が入らなくて震えてしまう。
「まじめにほら、右、左、右、左」と掛け声をかけてくれるから、何とか進みだす。
「これって…氷穴じゃないけど、行ったら戻らなきゃだめなんですよ? くるくるしてた方が安全じゃないですか?」
「え?」とオールを持つ手が止まる。
私は振り返って「気持ちいいですね」と言った。
湖は凪いでいて、空は青い。でも太陽の日差しは暑くて、私の麦わら帽子では全てを遮れない。遠くに桃ちゃんと英さんがカヌーで先へ進むのが見える。
「昨日…英に聞いたけど…桃ちゃんのこと好きだって言って、でも留学の予定あるから悩んでて。やっぱりあいつにはそれが大きなチャンスだから…」
「うん。それは桃ちゃんもきっと分かってて…」
「それで…内緒だけど」と笙さんが言うことを聞いて、私は驚いた。
それでまたくるくるその場を回るようにして、カヌー返却の時間が来て湖畔に戻って行った。内緒の計画を聞いてしまって、私は何だか自分のことじゃないのにドキドキする。
「上手く行くといいなぁ」と私は思わず両手を組んで祈ってしまう。
私たちが一番近くだったから、戻るのも早くて、二人で後の人が戻って来るのを待つ。
「絹ちゃん…」
「はい」
「いい天気だね」
そういう笙さんの横顔が綺麗で、哀しそうだった。その理由がもし私だったとしたらと思うけれど、何もできない。
「ほんとに…」
言葉が出ないまま湖面に視線を投げる。
「夏って…あんまり好きじゃなかったんだよね。暑いし…」と笙さんが言う。
「私も…」
「でも今年の夏は楽しかったな」
私は笙さんを見た。
「夏祭りも。今も…。今までにないくらい楽しかった」
胸がぎゅっと苦しくなるくらい素敵な笑顔で、何だか泣きそうになる。
「うん。私も…今年は…バクテリアとか…いろいろ楽しいことがあって、笙さんも優しくしてくれて…ありがとございます」
最後は何だか何を言いたいのか分からなくなる。でもこんな私に優しくしてくれて、本当に感謝しかない。
「こちらこそ、ありがとね。俺、頑張って世のため人のためになれるように…研究するから。いつかノーベル賞取る…かな」と最後は笑う。
「笙さんなら…きっとできる」
私はそう思う。こんなに真摯に向き合える人はきっと何かを成し遂げる。
「じゃあ、ノーベル賞受賞したら、お祝いして」
「する、する」と私は言った。
「約束していい?」と小指を出された。
「うん」と言って、その小指に小指を合わせる。
「受賞したら、その時はまたバクテリアの写真とメッセージ送るね」
「楽しみに待ってるから。頑張ってください」
そう言って、指を三回振って「指切った」と約束した。湖面から優しい風が吹く。どこかの未来でまた会えたらいいな、と私は思った。
奈々ちゃんたちが私たちの側に来る。
「お疲れ。絹たち、ほとんど動いてない。あれ、カヌーじゃないよ。ボートじゃん」と奈々ちゃんが言う。
「いいの。だって、遠くに行ったら、帰るの大変だから」
「俺があんまり筋力なくて」と笙さんが言う。
そんな会話をしていると、桃ちゃんたちが来たけれど、桃ちゃんは明らかに泣いたような顔で、英さんに肩を抱かれている。
みんな何も言えずに二人を見た。
「ごめん…。あ、言っていい?」と英さんは桃ちゃんを見た。
桃ちゃんは黙って頷く。
「俺、留学するから…プロポーズした」
一瞬、間が空いてどよめきが起こる。私は笙さんから聞かされていたから、知っていはいたけれど、その結果がどうなったのか気になって仕方がない。
「桃には自分の夢があるし、俺も留学するし、じゃあ、結婚しよって」
「じゃあって、どうしてじゃあなんだよ」と裕さんが言う。
「いやー。離れて不安にさせたくないから…」と英さんは言った。
私は桃ちゃんがなんて言ったか、そればっかりが気になった。私だけじゃない、その場にいる人達はみんな返事が気になってしまう。]
俯いていた桃ちゃんは顔を上げて
「私もそう思ったし、二人で…頑張れると思ったから」と言った。
一斉に歓声と拍手が起こる。
桃ちゃんに抱き着いて「おめでとう」と言うと「ごめん。さっきはすごく偉そうなことを言って」と桃ちゃんが泣きそうな声で謝る。
「ううん。嬉しい」
当然、奈々ちゃんも抱き着いて「おめでとう。先越されるのは哀しいけど、おめでとう」と繰り返す。
「学生だから…まだいろいろ大変だけど。親とか…説得できるか不安だけど」と桃ちゃんが言う。
「大丈夫だよ。俺のところは良いって言ってたじゃん」と英さんが言う。
カヌーの上で即電話したらしい。
「でも電波状況が悪かったよ?」
「『はいはい』って言ってたから大丈夫」と笑う。
そんな二人のやり取りが私まで幸せにさせてくれる。
夜はみんなで花火をした、最後に線香花火を女の子だけがする。笙さんたちはビールを飲んでその場で話していた。
私たちはしゃがんで線香花火に火をつけた。
「まさか桃が学生結婚するとは…。バリキャリで、いい男を渡り歩くと思ってた」と奈々ちゃんが言う。
「私も…そう思ってたけど、チョロい女だったみたい。でも本当は絹が一番最初に結婚するかと思ってた」
パチパチ燃える手元を見ながら、私は自分が結婚出来る気がしない。
「ええ? そうかな。現状、一番厳しい位置にいるけど」と言うと、二人がため息を吐く。
「笙さん、本当にいい人だけど」と奈々ちゃんが言う。
「分かってる。すごくいい人。だから私なんかより素敵な人が現れるよ」と柳模様になった線香花火を眺めた。
「バスの中では本当にごめんね」と桃ちゃんがまた謝った。
「ううん。桃ちゃんに言われて、私も自分の人生をしっかり考えなきゃって思った。翠さんのことばかりで…自分のことおろそかにしてたから。言ってくれてよかった」
「絹をいじめないでよね?」と奈々ちゃんが笑いながら言う。
閃光花火の先端が丸く膨れていつ落ちるか見つめてしまう。
「あ」
赤いまるい火玉がぽとんと落ちた。
「もう一本あるよ」と奈々ちゃんが渡してくれる。
「二人とずっと友達でいられるかな」と私が訊くと、二人が肩を寄せてくる。
「ごめんって絹」と桃ちゃんが言う。
「私は絹を甘やかし続けるから」と奈々ちゃんが言う。
「ううん。そうじゃなくて…。卒業して、会えなくなるのがなんだか急に淋しくなって」
「後二年あるじゃん」と奈々ちゃんが言う。
「二年と半年あるよ」と桃ちゃんが言う。
でも就職活動や、桃ちゃんは専門学校にも通うことになるから、それぞれ忙しくなるとそう一緒に居られない。
「ずっと…今がいいな」と子供のようなことを言うと、二人に頭を抱えられた。
「私も」と奈々ちゃんが言ってくれる。
桃ちゃんも「それはそうよ」と言う。
友達とはずっと一緒にはいられない。それに桃ちゃんとは客室乗務員になったら、あまり会えない。奈々ちゃんだって、どこでどんな仕事をするのか分からない。。
「でもさ、そこまで感じのいい友達ができるって幸せだなって、私は思ってるんだー」と奈々ちゃんが言う。
「離れてもさ、時々は会えるし、私たち、物理的な別れはあるけど、ずっと友達でいられるよ」と桃ちゃんが慰めてくれる。
「みんなで同じマンションに住めたらいいね」と私がふと翠さんの作った模型を思い出す。
「えー? 何それ、最高」と奈々ちゃんが言う。
「それ、いいね」と桃ちゃんも賛同してくれる。
「一階は桃ちゃん、二階は私、三階は奈々ちゃん」と私は地面の砂に四角い建物を描く。
「なんで私は一階なの?」
「スーツケース運ぶから、一階の方が便利かなって」
「じゃあ、なんで私は三階?」
「奈々ちゃんは上の階が好きそうだから」と言うと、二人が笑った。
四角い建物の一階の窓に桃ちゃんが自分の顔を描く。
「似てる」と奈々ちゃんが笑う。
あのアパートが本当に存在したらいいのに、と思って、明るい気持ちになった。翠さんが建物を建築して、その家を眺めるのが好きだと言っていた気持ちがなんとなく分
かった。自分が設計した、しないに関わらず、そこに人の人生があるからだ。
「いつかそんな日が来たらいいね」と桃ちゃんが優しく笑ってくれる。
実在しない建物と未来がきらきらして見える。夢の建物の模型はもう完成しただろうか、と思った。
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