第44話
氷穴
湖のある富士山の麓にあるペンションに着いた。
「絹ちゃん、思い切り遊ぼう」と笙さんに言われる。
「うん」
もうそうするしかない、と私は笙さんの想いに応えることにした。空気のいい緑豊かな自然の中で深呼吸する。空は青くて、何もかもが美しい。小さなペンションで、荷物を預けるとオーナーさんがいろいろアクティビティを紹介してくれる。夜はバーベキューだと言ってくれた。明日はカヌーに挑戦する。
「じゃ、さっそく暑いので、氷穴に向かいまーす」と奈々ちゃんが元気に言う。
いろいろ調べてくれているらしくて、私たちは言われるままバスに乗って向かう。笙さんは英さんと座って、私は桃ちゃんと座った。
「…絹。どうなったの?」と小声で聞いてくるから、説明した。
「好きで…。やっぱり側にいたくて」
「そっか。もう仕方ないね。何回もこの問答繰り返してるもんね。…笙さんは残念だけど。旅行は楽しもうね」
「うん」と言うと、桃ちゃんは肩に頭を乗せてくる。
「桃ちゃんは? 英さんとどうするの?」
ふふふ、と笑って
「した」と言った。
「え?」
付き合う事にしたのか、さらに聞こうとしたら、桃ちゃんが人差し指を口に当てる。
「迷ってるから」
「え? どうして?」
「海外…留学するんだって」
「…そうなんだ。でも…したの?」
「うん。なんか…やってみよっかなって思って」
私が固まったのを見て、桃ちゃんは頭を起こす。そして手を口の横に当てて、私の耳元で「良かった」と感想を言う。
「へ?」と変な声を出してしまう。
ぎぎぎという音がしそうなぎこちなさで桃ちゃんの方を見た。
「良かった…けど、待つ自信ないな。ほら、私、いい女だから、いろんな人から声かけられるし…。ふらっとしちゃうかもでしょ?」と桃ちゃんがにっこり笑って言う。
それは間違いないけれども、と思ったが、何も言葉が浮かんで来ない。
「英さんも…縛られたくないだろうし。まぁ、この先、また縁があったら…ってことでいいかなぁって」
何も言葉が浮かんで来ないけれど、力が入っているのか両手で拳を握ってしまう。
「二年…もしかしたらもっと…かもしれないし」と窓の外に視線を逃す。
(分かる。桃ちゃんウォッチャーの私には分かる)
「グギギギ」と言うと、驚いたような顔でこっちを見た。
「何? 絹。歯が痛いの?」
「グギ。桃ちゃんは欲しいものがあっても、恰好つけて、自分から取りに行かないでしょ? 桃ちゃんは間違いなくモテるし、不自由しないかもしれないけど…グギギギ」
「何、その途中で入る音は?」と呆れたように私を見る。
「悔しくて、ウグ」
「何が?」
「今度は取りに行こうよ」と私が言う。
「別に…」
「物は替えが効くかもしれないけど、人はそういうわけには行かないじゃん。グギギ。たった一人の人だよ? それだって上手く行くかなんか分かんないのに。どうして手を伸ばさないの? その努力をしないの? ギギギ」
「絹…。その音…まさか泣くのを堪えてるの?」
「ウギ」と私は歯を食いしばる。
「もう、あんたは…奥歯無くなっちゃうよ」と桃ちゃんに抱きしめられる。
やっぱり甘くて花のようないい匂いがする。
「だって…」
「言わないの。分かってるから」
桃ちゃんは自分で英さんが好きだと自覚して、それでいて、付き合わない選択をしようとしている。
「それに、私なんか釣り合わないし」
私は思わず、聞き返してしまった。あの桃ちゃんが、常に自信溢れている桃ちゃんがそんな風に思うなんて、相当重症だ。
「だから、ちょっとしておこうと思っただけ。思い出作り」
私は桃ちゃんの両手を勢いよく握る。
「大丈夫」
「え? 絹?」
「まかせて」
「いや…怖いんだけど。ってか痛い」
そのまま両手をぶんぶん振る。少し桃ちゃんは苛立ったように眉間に皺が寄る。
「そういうの。うざい。絹と私は違うの」と桃ちゃんに手を振りほどかれる。
「え…」
「私はもっと先のこと考えてるの。今しか見えてない絹とは違うから」
思い切り線引きされた。
「あ…ごめん」
「自分は上手く行って、有頂天かもしれないけど、私はそんな風にならないから」
そんなつもりじゃなかったけれど、言い返せずに、俯く。私は桃ちゃんが幸せになって欲しくて、そんなに気持ちを我慢しなくてもいいと思ったのだ。
「…ごめん」
桃ちゃんは窓の外に視線を向けて、返事もしてくれない。私は諦めて目を閉じた。いつもならすぐに眠れるのに今日は胸が痛くて、眠れない。私が桃ちゃんに無神経なことを言って、傷つけてしまったようだった。
先のことって何だろう、と思いながら私はバスに揺られて寝たふりをするしかなかった。
バスが目的地に到着したから、私はすっと立って先に降りた。笙さんは前の席だったみたいで、先に降りていた。
「お疲れ」
「あ、お疲れ様です」と私はぎこちなく笑う。
「どうかした?」
すぐに気が付いてくれるけれど、友達のことは言いたくなかった。
「ちょっと酔っただけです」
「え? 大丈夫?」
「あ、はい。少し…休憩したら大丈夫です。先に行ってください」
「うん。分かった」と笙さんはみんなのところに行って、少し話をしていた。
私は何だかいたたまれなくなって、自動販売機で水を買う。桃ちゃんを怒らせてしまったことなんて一度もなかったから、哀しくなる。
笙さんが戻ってきて「みんなに先に行ってもらったから、ちょっと休憩しよ」と言う。
「え? 笙さんは?」
一緒に行こう、と自然に言ってくれる。私は笙さんに申し訳なくて「行きましょう」と歩き出した。
夏休みなので観光客で賑わっていて、人が多い。氷穴に入る長い階段を下に並んで降りて行く。氷穴は氷が保存できるだけあって、外とは違って寒い。慌ててカーディガンを取り出して羽織った。暗いので前の人に着いて行く。途中、中腰で歩いたりするから大変だ。
「大丈夫?」と後ろから笙さんの声がする。
「はい。何とか」
私より背の高い笙さんの方が大変そうだ。みんなで連なって進むので、暗くても怖いということはないが、意外と進むのが大変で、疲れる。
「これってさー。降りたってことは、帰りは上りってことだよなぁ…」と笙さんがぼやく。
「そうですよ? 同じだけ上らないと…」とそんなことを言いながら、底につく。
暗闇にある氷の壁を眺める。不思議だった。こんな塊の氷を見るなんて日常ないことだし、今が夏だという季節を一瞬、忘れさせた。
涼しいところで、頭も気持ちも冷やされる。
(桃ちゃんに謝ろう。私は有頂天になってた)と手すりをぎゅっと握りながら思った。
「みんなもう出たかなぁ。俺、まだここにいたいんだけど。上るの嫌なんだけど」と笙さんがぼやいている。
私は今すぐにでも桃ちゃんに謝りたくて、急いで帰りたい。
「頑張って帰りましょう? 私、後ろから押しましょうか」と言うと、笙さんはため息を吐いた。
「仕方ない。帰ろう」
上りは息が上がるけれど、降りて行くより、気持ちは楽だった。息切れしながら、頑張って上を目指すと外の光がさっと入って来る。
「あ…よかった。外だ」と私が言うと、笙さんは「はー、日頃の運動不足がたたる」と肩で息をしていた。
出口でみんな待っていた。私は桃ちゃんの方に近づいて、抱き着いた。
「ごめんなさい。浮かれてて、馬鹿な事言った」
そしたら桃ちゃんも「絹が浮かれてるの分かってるのに、私もごめん」と謝ってくれた。
「私もー」と言いながら、奈々ちゃんも桃ちゃんに抱き着く。
そんな私たちを置いて、男性たちは休憩所に先に行った。
「どうしたのよ? 桃らしくない。絹を叱ったの?」と奈々ちゃんが桃ちゃんを抱きしめながら、私に言う。
私も桃ちゃんを挟みながら、奈々ちゃんに言う。
「違うの。私が浮かれて、桃ちゃんの気持ちも考えずに…」
そしたら、真ん中で挟まれていた桃ちゃんが身震いして、私たちは離れた。
「私、英さんが好きなの。でも…叶えたい夢もあるの」と言った。
「夢?」と私と奈々ちゃんはハモった。
「客室乗務員になりたいの」
「えー」とこれまた二人で声が揃った。
でもそれは桃ちゃんにとっても似合うことだった。
「だから、今は恋より、夢に向かって努力したいの。英さんは魅力的だし、私、こう見えて、恋愛したら没頭しちゃうし、だから…」
「ごめん。本当にごめん。私、そんなこと知らないから…」
「それは言ってなかった私も悪いから。翠さんと上手くいってる絹に八つ当たりしちゃって、ごめん」と桃ちゃんが頭を下げるから、慌てて私も頭を下げる。
「よかったー。桃ちゃんに嫌われたかと思ったー。そしたら死んじゃうー」と泣きそうになりながら言うと
「嫌いになんかならないよー」と桃ちゃんも泣きそうな笑顔で言ってくれた。
「えー。私もなんか、桃のこと怒らせて、仲直りしたくなった」と奈々ちゃんが謎のことを言うから、二人で笑ってしまった。
奈々ちゃんのスマホが光る。
「あ、ソフトクリームあるって、行こう」と微笑む。
私たちは喜んで売店に向かった。
でも私は桃ちゃんに言われた「今しか見てない」と言われた言葉が胸に刺さった。それは間違いなく真実だったから。
「絹?」と奈々ちゃんに呼びかけられる。
「あ…靴ひも…ほどけてるから、先行ってて」と私はとっさにしゃがんで治す。
僅かに緩んでいた。
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