第42話

夢の家


 今日は朝から体も頭も重たい。


 お母さんは私が出かけるとき、何か言いかけて、言葉を飲む。


「行ってきます」と振り切って出かける。


 でもちゃんと夜には帰ってくる。鈴音ちゃんのようにバッグ一つで出ていくことはない。


 ――覚悟かぁ、と心の中で呟く。


 鈴音ちゃんはどんな気持ちで家を出たのだろう。


 私は覚悟ができなくて、セフレになるなんて口にしたけれど、とため息を吐いた。電車に乗ってる間に笙さんからメッセージが届いた。今日はバクテリアの写真がなかった。


「暑いね。元気かな」


 短いメッセージ。私が元気ないのを見越したように送られてくる。


「暑くて。でも…もうすぐ旅行ですね」と返事をした。


 私は最低だ。笙さんにもいい顔して。翠さんとセフレになって。自分で考えても、島田さんの言うように覚悟がないなら、あの部屋に行くべきじゃない。


「旅行のおやつには塩味饅頭を持っていくから」と言って、今日は饅頭の写真が送られてきた。


「わー。美味しそう」と思わずテンション高く返信する。


「気に入ってくれるといいな」


 笙さんは本当に私の気持ちを明るくしてくれるのに…とスマホを握りしめた。


「きっと大好きです」


「え? 嬉しい」


 送った文面がまた気を持たせるようなものだったと気づいたけど、もう遅かった。



 翠さんの部屋に行くと、テーブル一面にボードやら接着剤が置かれて、模型が作られている。


「翠さん?」


「…おかえり」と言いながら、貼り付けている。


「ただいま」と言ってみると、こそばゆく感じた。


 小さなマンションだったけれど、このアパートに似ている。


「翠さん、何してるんですか?」


「このアパートを建て替えるなら…ってテーマで作ってるんだ」


 確かに似ている。でも外階段はない。エントランスは真ん中にあって、四階建てで、表からはまっすぐ平面の作りだが、裏がそれぞれ段違いになって、ベランダが大きく取られていた。


「ここはね。木で格子状に枠組みしてもいいし、ストライプの枠でもいいし、部屋ごとに変えてもいいな…」


「翠さんが建て替え頼まれたんですか?」


「ううん。…頼まれてない」


「じゃあ?」


「島田さんにプレゼントしようと思って」


「あ、そうなんですね。素敵です」


 このアパートも老朽化していて、島田さんの甥が管理するようになったら、きっと取り壊して土地を売りにだすだろうということだった。


「だから決して建てられることのない建築なんだけどね。島田さんの旦那さんが素敵な部屋を作ってくれたから…ここで鈴音と暮らせた。できれば全部屋に大きなベランダがあったらいいなって思って」


「わぁ、素敵です」と私は作りかけの模型を見る。


「絹ちゃん、手伝ってくれる?」と言うので、私は嬉しくなった。


 久しぶりに工作をする気持ちでわくわくした。


「庭に植えてるプラタナスはそのままにして…」と樹木の木製まである。


「わー。こんなところに住みたいです」


「そう言ってもらえると嬉しいな」


「小さなお人形とか置きたいですね」と言うと「紙粘土で作る?」と翠さんが言う。


「別に納期のない…ただの趣味みたいなものだから」


「はい。やりたいです。こんな建物があったらいいなって、私…本当に思います。翠さんと…鈴音ちゃんを作って一緒に」と言ったら、翠さんに肩を抱き寄せられた。


「絹は…いないの?」


「え?」


 聞き返したら、キスをされた。突然過ぎるけど、セフレってそう言うものかもしれないと受け入れる。


「鈴音はこの家。模型の家は…絹が気に入ってくれたんでしょ?」


 どういう顔をしていいのか分からない。模型の家はただの夢だから。


「はい。住みたいです」


「じゃあ、絹が住んだらいいよ」


 私は嬉しいような恥ずかしいような気持ちで頷いた。


「絹のために…作ったから」


「島田さんのためじゃなくて?」


「まぁ、模型はそうなんだけど、設計は絹が喜ぶかなって思って」


 嬉しくて、震えた。


「昨日作ったんですか?」


「まさか。そんな早くにできるわけない」と翠さんは言う。


 立ち上がって、パソコンを操作する。そして「見て」と言われたから、机に移動した。翠さんがクリックすると、部屋の内装まで考えられている。


「わー、こういうの大好き。昭和ガラスの窓とか…無垢素材の床なんて素敵」


「好きだろうなって。玄関横に採光のために嵌め殺しの丸い窓なんだけど…」といろんな部屋を見せてくれる。


 どれも無機質な部屋とは違って住みたいと思わせてくれるような人の温かさを感じる家だった。


「夢みたい。本当に住みたい」


「あはは。俺にお金があったらね。土地買って、建ててあげれるけど」


 翠さんはずっと払っていた養育費をストップするほど、大変なんだ、と思い出す。


「お金…苦しいですか? 私もバイト増やしましょうか」と真剣に聞いたら笑われた。


「絹ちゃんが一生懸命バイトしても、土地なんて買えないでしょ? まぁ、仕事はおかげさまでなんとかなってるけど。土地を買うまではないなぁ」


「うーん。何とかして建てたいですね」


「何ともならないよ」と翠さんは言う。


「諦めちゃだめですよ。私が宝くじ当てるかもしれませんし、大富豪に」と言って口を閉ざす。


「大富豪と結婚するの?」


「しません。っていうかできません」


「俺のかわいセフレは…セフレって、嫌な言い方だな」


「嫌な言い方? ですか。じゃあ…」と考えても出て来ない。


「絹には何も背負って欲しくないし、そんなこと望んでない。好きな時に来て、好きな時に出て行けばいいから」と言いながらパーツに接着剤をつける。


 不意に私は翠さんに求められている気がした。翠さんは私に自由にしていいと言いながら、それは自分に言い聞かせていて、本心は側にいて欲しいんじゃないかと、高慢な考えが浮かぶ。


「…翠さん。私、そこ押さえてます」と接着したところを持つ。


「じゃあ、そろそろ本業の仕事するね」


 私はパーツがある程度固まるまでは動けなかった。夢のある建物をじっと見ながら、もし本当に実現するなら、どれほどいいだろう、と考える。無垢素材の床、緑色のガラスタイルのキッチン。鍋はオレンジ色のルクルーゼ。今ここにある青いソファと日当たりのいい和室のリビング。


 鈴音ちゃんはインテリアデザインを勉強したいと言っていた。その気持ちが今分かる。内装を考えるのは夢がある。


 二人で作れる夢があったのに、と私は思った。


「絹ちゃん、ある程度固まったら、置いといて。お昼は近くに食べに行こう」


「はい。じゃあ、お掃除しますね」と言って、ゴミを集める。


 洗濯機を回して、部屋に戻ると、


「あー、疲れたなぁ…」とわざとらしく言うから、私はヘッドマッサージを始める。


 椅子にもたれて上向いた翠さんの顔を見ながら、ゆっくりとマッサージを続ける。


「気持ちいい」


 そう言われて嬉しくなる。少しでも役に立っている。


「絹ちゃん。鈴音とは違うけど…好きだよ」


 思わず手が止まった。


「え?」


「でも…鈴音のことを考える気持ちも分かるし、みんなに反対されて困るのも分かる。それに…友達と旅行行ったり、普通に出会いだってたくさんあるだろうから…」と大きく息を吐く。


 閉じていた目を開けて「嫉妬する」と言う。


 顔を覗き込んでいた私と目が合う。


「自分がまだこんな感情を持ってることに驚いてる」


 何も言えないのに視線が外せなかった。


「絹が欲しい」


 覚悟がないまま私は墜ちた。


 翠さんの手が私の頭を引き寄せる。あべこべだ。そのままキスをすると、翠さんの喉が鎖骨が見える。私の喉に息がかかる。


 身体じゃない。何もかもが溶けてしまいそうだった。


「君を下で見た時から…」


 翠さんの声が口の中に入り込む。


「欲しかった」


 私は椅子の背もたれに手をかけていたけれど、指が食い込む。


「私が…好きでもいいですか」


 背もたれから手を離した。翠さんが椅子を回転させて、私を抱き上げる。


「離せないから、セフレなんてやめよう」


 セフレはたった一日で終わった。


「大切にしたいから…」


 宝物のように柔らかく頭から背中まで撫でられる。


「しなくても…代わりでも…いいです。好きです」


 覚悟を考える余白が頭になかった。私のために設計された部屋、翠さんの背中に感じる暖かい手のひら、声、何もかもが私を飲み込んでいく。


「愛させて欲しい」


 翠さんの首筋に唇を当てる。


「覚悟…ない…けど、好きです」


 背中のチャックが下ろされる。翠さんの横顔を見上げると、頬が紅潮して余裕のない顔をしている。きっと私はもっとだ。翠さんのシャツのボタンを外した。


 すぐ横に奈落があるというのに。


 ばかなことをしていると分かっているのに。


 汗ばむ胸の匂いを吸う。翠さんの胸に頭をもたせかけた瞬間、重かったお腹が痛くなる。


「あ」


「どうした?」


「ちょっとトイレ」と私は膝の上を降りてトイレに駆け込む。


 朝からの体のだるさの理由が始まった。月のものだった。一度トイレから出ると、自分の鞄から生理用品を取り出し、


「始まってしまいました」と翠さんに言う。


「お腹…痛いの? 布団敷くから寝ときな…」と言って、すぐに布団を敷いてくれた。


 トイレから出ると、翠さんの布団の上で眠り、痛みを感じながら赤ちゃんがいなくてよかったと思う。目を閉じて、いつの間にか眠り込む。生理の時は何をしてなくても疲れたように眠ってしまう。


 ベランダの風鈴が夢の中でも鳴っていた。

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