第41話
セフレ記念日
お盆休みが終わると、少しほっとした。バイトもあったからずっと家にいるわけじゃないけれど、家に長くいると息が詰まりそうだった。
五日ぶりに私は翠さんの部屋に出かけた。水羊羹を冷やして来たけど、ぬるくなってそうだ。あまりにも暑いせいか、駅前を過ぎると人影が見えない。私は日傘を差しながら歩いた。高度の高い太陽が短い影を作る。
あの日の翠さんを思い出す。
暑いけれど、急いで歩いた。
階段を上ると、翠さんの部屋から口論する声が聞こえる。私は恐る恐る、近づいてインターフォンを鳴らすか考えた。
すると後ろから人が階段を上ってくる。私は振り向くと、見たことのない老婦人がいた。
「あ」とその人は声を上げてから、息を飲む。
「…あ、こんにちは」
「え? あなた…」と目を丸くして、私を見る。
疑問に思った時、中ですごい音がした。
「やれやれ」とその人は言って、翠さんの扉の前に立つと、ドアを開けた。
私はつられて後ろから覗き込む。
「いい加減にしなさい。通報しますよ」とその老夫人は言った。
中には南さんがいて、椅子が倒れていた。翠さんが「すみません」と謝る。南さんは私たちを見て、慌てて靴を履く。
「あなた…もう関係ないんでしょ? どうして何度もここへ来るの?」とまるで事情を知っているかのようにその老婦人は言った。
南さんは老婦人を睨みつけると、立ち上がって、肩をぶつける勢いで玄関を出る。そして私を見ると、思い切り顔を背けた。
「お久しぶりね」と老婦人が翠さんに言う。
「お騒がせしてすみません」と謝ってから大家さんの島田さんだと紹介してくれた。
島田さんは隣に住んでいて、階下の住人から苦情が入ったから様子を見に来たようだった。
「いいのよ。階下の人はもうすぐ出ていくし…」と言って笑う。
「え? 日頃も…うるさくしてましたか?」
「そうじゃなくて、転勤だって言ってたわ」と穏やかな表情だった。
そして私のことを「あの子にそっくりね」と言った。
あぁ、この人は鈴音ちゃんを知っているんだ、と思った。鈴音ちゃんの従姉妹だと翠さんが教えてくれた。
私は「お茶でも…。水羊羹あるので…」と島田さんに声をかけていた。
翠さんがアイスティを用意してくれる間に私は水羊羹を切って、器に入れた。島田さんが部屋を眺めて「この部屋だけベランダが大きいの。他の一部屋分あって。それをあの子が気に入ってくれて…」と話し出す。
あの子は鈴音ちゃんだ。
「亡くなった主人が設計したのよ」
「じゃあ、翠さんと同じ…建築士だったんですか?」
「そう。うちは小さい家を主にしてたけどね…。でも従姉妹とは言え、そっくりなのね」と驚いたように言う。
「はい。親も驚いてます」
「うふふ」と品よく島田さんは笑った。
翠さんはアイスティを淹れてくれると、でかける用事がるので、と言って出ていった。島田さんと二人でお茶をすることになった。
「絹ちゃん? 素敵な名前ねぇ。…あの子が来た日、私、今でも覚えてる。主人もなくなったばかりで、子どももいないから本当に淋しくて」
鈴音ちゃんは引っ越しの挨拶に手土産を持ってきたらしい。そこで話をして仲良くなったと教えてくれた。
「まさか駆け落ちしたなんて知らなかったのよ。立派なお仕事のご夫婦が来たと思ってたから。そしたら、さっきの人…当時はまだ奥さんでここまで来て、叫んでたから…私、出て行ったの」と愉快そうに話す。
鈴音ちゃんは島田さんに「私が不倫相手なんです」と言って、驚いたと言う。
「でも、事情を聞くとね…。奥さんが悪いわよ。それでも別れなかった長谷川さんがすごいけどね。子供のためって…自分の子じゃないのにね」
「漣君はいい子で可愛いですから…気持ち分かります」
「奥さんが浮気なんてしなければ…。そうか、だまして結婚なんかしなければ良かったのよ」と上品な島田さんが鼻息荒く喋るので、少し笑ってしまった。
「そんなわけで天蓋孤独になったあの子が私を良く頼ってくれて。ご飯の作り方ひとつ教えていったの。全然、ご飯作れなくてね」
「え? 鈴音ちゃんが?」
「そう。箱入り娘だったみたいよ」
そう言えばたくさん習い事はさせられてたし、なんでも器用に出来たから、ご飯も上手に作れると思っていた。
「嬉しかったー。娘が出来たみたいで」と島田さんは言う。
鈴音ちゃんは何とかここで暮らそうと周りの助けも得ていたんだ、と何故かほっとする。
「私ね…。赤ちゃんは諦めなさいって言ったの。でも頑なで。でも私、やっぱり時々後悔するのよ。どうにか説得できなかったのかって」
誰も彼もが後悔する。
もし赤ちゃんを諦めてたら鈴音ちゃんは生きてたのだろうか。
でも鈴音ちゃんは…きっと後悔する。きっと後悔したまま…翠さんと。そこで考えるを止めた。もういくら考えたって鈴音ちゃんはいない。
「本当に可愛い子で。それで…二人仲良くて…。比翼の鳥、連理の枝って言うでしょ? 古臭くてごめんなさい。でもそんなこと本当にあるのねぇ…なんて。二人を見てたら…つい羨ましくなっちゃうぐらい」と島田さんは水羊羹を食べた。
そんなに仲が良かったんだ。何もかも捨てて、鈴音ちゃんは翠さんを選んだのだから、当たり前の話なのかもしれないが、胸が痛む。
「…だからね。あの子がいなくなって、私、長谷川さんが沈んでいくの見てたから…辛くて。私も夫を亡くしたから少しは彼の気持ちが分かるの」と言って、ケーキ用のフォークを置いた。
「とっても美味しかったわ」
私じゃ駄目なんだろうか。
「代わりになりませんか?」
島田さんは優しく微笑んで言った。
「代わりなんてならなくていいのよ。…覚悟ある?」
――覚悟。
「長谷川さん…もう二度目はないと思うから」
翠さんの哀しさが傷が深くて、私の手なんかでは掴めない気がしてきた。
「…知らないと思うから言うけど。あの子が亡くなって、後追いしたのよ」
足りない。
「後追い…」
私には足りない。
「首をくくって…。でもね…。ロープがどうしてかほどけたって。きつく結んだつもりなのに。それで何度もチャレンジしたの。どすん。どすんって。今みたいに階下から苦情が来たわ。それで駆けつけて、言ってやったの『事故物件にしないで』って。『あなたの愛した人が選んでくれた部屋じゃないのって。あの子のお気に入りの部屋で死ぬなんて許さない』って言いながら私、夢中で首を掴んでやったわよ。後で聞いたら、首吊った時より苦しかったって」と軽く話してくれる。
翠さんは鈴音ちゃんを想って死を選び、生を選んだ。
あの日、微動だにしなかった後ろ姿を知っている私はそれが嘘じゃないのが分かる。そうだ。生きていることが不思議なくらいだ。
「あなたは顔が似てるから引け目に感じることもあるかもしれない。でも…それで救われる気持ちだって悪い事じゃないわ。ただ…覚悟がないなら駄目よ。今はまともに見えても、長谷川さんのすぐ横には暗い絶壁があって、踏み外したらおしまいなのよ」
覚悟なんて少しもない。親にも言えない私は自分が可愛いだけの人間。
「怖い…です」
そんな告白をする私を優しく見る。
「鈴音ちゃんみたいにできない。…何もかも捨てて…翠さんを…選べません」
私の手を取る。皺が刻まれた手は乾いていて、そして温かった。
「あの子みたいな生き方は誰にもできるもんじゃないわ。あなたは若いし、いい子だから。ここから出てもいいと思う」
翠さんも、友達も、笙さんもみんなそう言う。
「でも…好きで、動けないんです」
ずるい。涙が自然と零れながら私はずるい、と思った。
「翠さんが…鈴音ちゃんのこと大切にしてるのも分かってて、私が似てることも分かってて、それで優しくしてくれるのも分かってて…ここにいて…。ただ好きってだけで…」
何も捨てずに、翠さんに甘えてるだけだ。
乾いて温かい手が私の手をぎゅっと握った。
「水羊羹、とっても美味しかったわ」
そうだ。鈴音ちゃんはいつも私が作る水羊羹を喜んで食べてくれていた。料理できなかったなんて知らなかった。そして分かっていたけれど、二人が仲良くしていたのが具体的に知れた日だ。私はここにいていいのか分からなくなる。
島田さんが帰った後、私は軽く家事をする。ハウスキーパーとしてだったら、ここにいてもよかっただろうか、と考える。プロとは言えないけれど、家事はある程度できる。
鈴音ちゃんと仲良くしていた二人を想像すると、胸が焦げ付く。それなのに家を飛び出す勇気もない。シンクを磨きながら、どうしたいのか、どうしたらいいのか考えても応えは出ない。
夕方になって、翠さんは戻ってきた。
「あ、絹ちゃん、掃除し続けてるの?」と声を掛けられて、私ははっとした。
「休み休み…ですよ」
いつもは夕方はのんびりしているのだ。今日はご飯も作らずに窓を拭いたりしている。
「あ、ご飯用意するの忘れてました」
「そんなのいいよ。食べに行こう。何がいい?」と優しく微笑む翠さんを見て、泣きたくなった。
ここで命を落とそうとしてたなんて。紐がなぜかほどけて助かって本当に良かった。
「ん? どうかしたの?」
「あ、何食べようかな…。喉乾いて、先にお茶飲みますね」と言うと、翠さんが冷蔵庫をすぐ開けてくれる。
私はその背中にもたれかかった。
「え? 本当にどうしたの?」
広い背中と翠さんのいい匂い。
「鈴音ちゃんと仲良かったと聞いて、嫉妬してるんです」
本音を薄く言った。
翠さんの笑い声が背中から振動する。
「島田さんが言ってた?」
振り向かないで。
「はい」と言って、背中から腕を回した。
このまま知らない振りして欲しい。私があなたを好きな気もちと、何も捨てられない弱さを持っていることを気づかないで欲しい。鈴音ちゃんには適わない。
「…好きだった」
知ってるのに、分かってたのに、こみ上げてくる。
傷つく資格なんてないのに、胸が悲鳴を上げる。
「私は…セフレで…いたいです」
だとしたら、私は翠さんを傷つけることはきっとない。
「絹?」と言って、振り返られてしまった。
「代わりになんかなれないから…セフレでいさせてください」
翠さんがどんな顔をしているか分からない。私は翠さんに顔を見せたくなくて、横を向いたまま胸に顔をつけている。
「絹は…ひどいなぁ」と言いながら、髪を撫でてくれる。
そうだ。その通りだ。
「こんなにかわいいセフレなんて…ひどい」と言って、私の頭を両手で上に向かせる。
柔らかい笑顔が近づく。
背伸びして、私から口を近づけてしまう。優しいキスがそこにあるのを知っているから。思ったような甘いキス。ゆっくりと火が付く。口づけされながら話される。
「どうしてセフレがいいの?」
「だって」
塞がれる。
「外身だけ」
もう話させてくれないように舌を取られる。翠さんのシャツをぎゅっと握る。
(息苦しいのに…)
離せない。
「外見だけ?」
少し息継ぎさせてくれる。
「外見だけは…」
また塞がれた。
翠さんはきっと気づいてる。私が捨てられないことも。
「一緒だから」
そう。中身はまるで違う。愛し方も違う。何もかも捨てられない。
「じゃあ…ずっとセフレになる?」
息が苦しくて、考えがまとまらない。
「可愛いセフレだ」
そう言って、瞼や耳にキスをする。私は頷いて、涙を零す。その涙にすらキスをくれる。愛されてないなんて、少しも思えない。覚悟のない私をまた甘やかした。
結局、外食は駅前ですることになった。あの後、セフレらしいことをして時間が遅くなり、私を駅まで送るついでに駅の居酒屋に入ることになった。サラリーマンや地元の人たちで賑わっている。翠さんは普通に馴染んでいるけれど、私は慣れなくて緊張した。
「お酒は飲めるの?」
「全然…飲んだことなくて」
「そっか。今から帰るし、飲まない方がいいね」とウーロン茶を頼んでくれる。
私は今日の南さんとの揉めた理由も気になったので、聞いてみた。
南さんは翠さんが養育費の打ち切りを打診したせいで、話し合いに来たらしい。離婚するときにまとまったお金を渡していて、そして月々五万円渡していたらしい。血のつながらない子どもにそこまでするのも翠さんらしいと思った。
私は急にどうしてそんなことを言い出したのかと不安になった。仕事が上手く行ってないのだろうか、と思ったけれど聞けなかった。
翠さんが適当に頼んでくれたものがテーブルに並ぶ。
「好きなの食べて」
「はい」
「じゃあ、よろしくね」と乾杯する。
セフレになった記念だろうか、と思いながら、皮肉な気もちで私はグラスを合わせた。でもがやがやした空気感の中で、重い気持ちも薄れる。
「明日も来る?」
返事をする前に「来て欲しいな」と言われた。
私は多分、赤い顔して頷いた。周りの人たちは酔っぱらっているから、私以上に赤ら顔で、だから少しほっとした。
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