第40話

言えないこと


 私は悩んだ末、パスポートを受け取りに行って、そして旅行は行かないことに決めた。翠さんに「やっぱり行けない」と言うと、あっさり「そう」と言われた。


 パスポートは申請して受け取らないと次回に制約があると言うことだったので、使わないけれど高いお金を払って受け取る。


 そのまま翠さんの家に行った。家に行くと、漣君が来ていた。


「あ、絹ちゃんだー」と駆け寄ってくれる。


 ものすごくかわいい。天使だ、と思わずにこにこしてしまった。


「今日…南が熱を出して。預かってるんだ」


「そうなんですね」


「良かったら、遊んであげてくれたら助かるんだけど。仕事、詰まってて。シッター代出すから」


「いいえ。そんな」と言うと、漣君はもう嬉しそうに私の手を引っ張る。


「レゴ、しよう」


 一度レゴしただけで、喜んでくれる。しばらくいろんなものを作って遊んだ。


「ねぇ、今日、二人でゼリー作らない?」と言うと、漣君は喜んだ。


 一緒に買い物に出かけることにする。


「あ、これ、使って」と翠さんにお金を渡された。


 何だか本当に子どものお遣いみたいになってしまった。


「絹ちゃん、行こう」と明るく呼ばれるから、複雑だった気持ちも軽くなる。


 スーパーまで近い道なはずが、子供と一緒だと時間がかかる。歩道のコンクリートの段を歩いたり、変な草を取ろうとしたり、急に走り出したりする。


「漣君」と私は追いかけたりして、スーパーまでが遠くて汗だくになる。でも漣君も汗だくなのににこにこしている。


「絹ちゃん、楽しいね」


 そう言われたら「うん」としか言えない。


「晩御飯の準備もしたいから、何がいいかなぁ。漣君は何がいい?」


「晩御飯も絹ちゃんと一緒?」と嬉しいことを言ってくれる。


 漣君が好きなのはスパゲッティということのなので、ひき肉とパスタソースを買う。そしてまた帰り道との格闘だった。

 家に着いたら、疲れてしまう。疲れつつも漣君とゼリーを作った。桃を向いて、四角く切って入れて固める。


「わー、楽しみ」と漣君は目を輝かせている。


「漣君、固まるまでお昼寝しよう」と私はもうスーパーに行っただけで疲れたので、漣君をお昼寝に誘う。


「えー。もうお昼寝する子どもじゃないのに?」


「でもほら、起きたらゼリー固まるよ? タイムワープできる」と言って、私は翠さんに断って、布団を出した。


 何より私が横になりたかった。


「絹ちゃんがお子様だなぁ」と漣君は言いつつも、横になってくれる。


 そして漣君は機関銃のようにいろんな話をしてくれる。学校の出来事、夏休みにお母さんの実家に帰ることも楽しみだと言っていた。子供らしい夏休みの計画を懐かしく聞いているうちに私は眠ってしまった。 




 夢の中で鈴音ちゃんに会った。


 私は何か言おうとして、それでものすごく罪悪感を感じる。


 鈴音ちゃんは微笑ながら、涙を零していたから。




 上半身を慌てて起こす。


「起きた?」と翠さんに声を掛けられた。


 横で漣君もすやすや眠っている。時計を見ると一時間寝ていた。


「…あ、寝てました」


「ぐっすり眠っていたから…。二人で可愛かったけど」と翠さんは笑う。


 鈴音ちゃんの映像が薄くなっていく。ふわっとカーテンが掛けられたように朧気になる。


「どうかした?」


「あ…。いえ。あの…。せっかくの旅行に行けなくて、ごめんなさい」


「あぁ…。仕方ないよね」と言いながら、翠さんは私の方に来て「お水飲む?」と聞いてくれた。


 頷くと冷蔵庫から水を取り出してくれる。


 あっさりといつもそんな感じだから翠さんにとって、どうでもいいことだったのかな、と哀しくなった。私もテーブルの方に行って、翠さんが入れてくれた水を飲もうとしたら、手を取られて、キスをされる。


 こんなに急に求められて驚いたけれど、抵抗できないまま受け入れた。腰に手を回されて引き寄せられた。これ以上は、と私は体を離そうと思っても力が出ない。


 これ以上は…。


 このまま…。


 両方の想いがある。


「ごめん」と言われて、顔を離されたけれど、腰はしっかり引き寄せられたままだった。


 でも私は泣いていたみたいで、翠さんの指で涙を拭かれていた。


「翠さん…パスポート取ったんです」


 思ったより苦しかった。好きな人と一緒にいることは幸せなことなのに、周りが受け入れてくれないことが苦しい。


 ――鈴音ちゃん。


 鈴音ちゃんもそうだったはず。


「旅行…行きたかったです」


「俺も」


 強く抱きしめられた。


「絹…」


 初めて呼び捨てされた。


「ずっと側にいて欲しい」


 その言葉が嬉しくて、でも後ろめたい。


「はい」と何度も頷きながら、私は不安になる。


 鈴音ちゃんのように何もかも投げ出して、ここにいれるのだろうか、と。





 お盆になった。家では特に何をするわけでもないけれど、鈴音ちゃんの家にお母さんと向かう。私を見ると、向こうの両親はやはり似ているからか、涙ぐむ。


 用意してくれたお寿司を食べて、持ってきたケーキを食べる。


「鈴音も生きてたら…もう二十七歳になるわねぇ」と鈴音ちゃんのお母さんは言う。


「本当に…」と私のお母さんは相槌を打つ。


 私は視線を落とした。


「あの子は…大人しくていい子だったから、困らせられたこと一つもなかったのよ」


 鈴音ちゃんはそういう女の子だった。


「だから…最後は辛かったかなって。苦しかったんじゃないかなって。本当は頼りたかったんじゃないかなって。親が…見捨てたようで…。ちゃんと話を聞いてあげれたらって…やっぱり後悔してる」


 鈴音ちゃんのお母さんは一度も翠さんのことを悪く言うことはなかった。ただ思う事はあるだろうけど、一切、口にしなかった。


「絹ちゃんはちゃんとご両親を頼ってね」


 言えない。


 私も同じだから。


「…はい」と私は左手で右手を握った。


 言えないことを抱えた私はこの場にいる人を裏切っている。


「でも…あの…」と私は口を開いた。


 私は本当のことは分からないけれど、鈴音ちゃんの想いを伝えたかった。


「きっとご両親に捨てられたなんて思ってないと思います。家を飛び出したのは…勝手だったかもしれないですけど…。きっと幸せで、短い人生を…精一杯幸せになろとしていたと思います」


 言ってからまるで自己弁護のように聞こえた。


「あぁ、そうね。そうかもね」と鈴音ちゃんのお母さんは涙ぐむ。


 赤ちゃんを産んで幸せな家庭を作ろうと思っていた鈴音ちゃんはきっと両親のことを愛していたと思うから―。でもその話を伝えることもできない。自分の保身のために言えなかった。


「でもね。絹。親は心配なの。ずっと心配なのよ」とお母さんに言われる。


 何もかもが背中に乗って重く感じた。


 ちりんと風鈴の音がする。


「あ…」


 それは私が鈴音ちゃんとデパートで作った風鈴だった。


「こんなところに」と私は立って見に行った。


 鈴音ちゃんのお母さんが


「何だか鈴音が気に入って…。絹ちゃんがくれたって言ってたわよ」


 そうだったんだろか。その記憶は曖昧でよく分からない。黒猫と月が浮かんでいる。


 でもどっちにしろ、鈴音ちゃんが手直しして、ほとんど鈴音ちゃんが描いたのだから、鈴音ちゃんの物ではある。


「もう一つ、風鈴あっただろう」と鈴音ちゃんのお父さんが言う。


「あ、そうね。どこ行ったのかしら?」と鈴音ちゃんのお母さんが首を傾げた。


 その場所を私は知っている。

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