第39話

愛情と辛い思い


 パスポートの取得はなかなか大変だった。必要書類を用意して、申請して、ハガキが届く。家に。つまり親にばれてしまった。


「絹? これ、なあに?」


「あ…えっと。海外旅行に行こうかなって思って」


「フーン。誰と?」


「えっと…。それは…あの」


「絹、言えない人なの?」


「あの…そうじゃないけど」


「どこ行くの?」


「マレーシア…」


「マレーシア? グアムとか韓国とか台湾とかじゃなくて? マレーシア? バリ島?」


「多分、バリ島ではないと…思う」


 背中に汗が滲む。


「ちょっと、許可できないなぁ」とお母さんが言う。


 私は俯いた。もしここで言ったところで、翠さんと会うことすら反対される、と私はパスポートは諦めることにした。


「…うん。分かった」と俯いた。


「絹? 頭ごなしに反対してるんじゃないのよ? 誰と行くか、ちゃんと言ってくれたら」


「ううん。いいの。海外なんて…やっぱり」と言って、私は部屋に籠った。


 そろりそろり階段を上る音がする。ドアはノックされずにパスポート受領の際に必要なハガキが床から差し込まれる。私はそれを拾い上げると、小さなポストイットが入れられていた。


『絹のこと信じてる』


 その一言は重たい。私はお母さんを裏切るようなことをしているのだろうか、自問してみたけれど、分からなかった。





 翠さんとの国内旅行は素敵だった。長野の高原の方に連れていってもらって、初めて満天の星を見た。天の川も見える。でもあんなに見えすぎると怖くなってしまって、私は翠さんの腕にしがみついてしまった。空に割れ目があるように見えて、星が無数に空に広がっている。


「怖い。落ちて来そう」


 宇宙にちりばめられた星は果てしない広さを教えてくれるけれど、それが自分の小ささを分からせるので体の芯からぞっとした。


「天の川見たいんじゃなかったの?」


「想像以上で…怖くなります」


 軽く笑い声が聞こえた後、翠さんも空を見上げる。怖がっている私の肩を抱いてくれたままじっと眺めていた。その横顔を見て、少しだけ安心できた。


「翠さん、怖いけど、連れて来てくれてありがとうございます」


「怖がらせちゃったけど…大丈夫?」


「折角来たので、しばらく眺めてていいですか?」


「もちろん」


 翠さんの温かさを感じながら、無言で眺めていると宇宙の中でたった二人だけ存在しているような気がしてくる。不思議なことだけれど、さっきまで怖いと感じていた宇宙が不意に心地よくなってくる。


「あの夏…」と私は切り出した。


「え?」


「前にも話したんですけど…鈴音ちゃんのお葬式の日、ずっと外で立ってる翠さんを見かけて、声をかけたかったんですけど…。お母さんに呼ばれて何もできなかったこと、ずっと後悔してて」


「後悔?」


「鈴音ちゃんに最後に会わせてあげられなかったこと」


「あぁ。でも絹ちゃんのせいじゃないよ」




 鈴音ちゃんの葬儀の時に周りの大人が話していることを聞いていた。


『外にいるのが鈴音ちゃんの…』『まぁよく来れたわね』『鈴音ちゃん、若くて亡くなったのあの人のせいでしょう?』『可哀そうに病院にも連れていってもらえないなんて』


 そんな会話を聞いて、私はこっそり表に見に行ったのだった。鈴音ちゃんの話しぶりで素敵な人だと知っていたから、単純に興味があった。


 外に出る前に分かった。門のところで頭を垂れて立っている男の人が一人いた。その瞬間、音が消えた気がした。セミの声も、通りを走る車も一瞬音がなくなって、その人だけが浮かびあがる。私も日差しの中で汗ばんできたが、あの人はどれくらいそこで立っているのだろうと。日陰に入ってもらって冷たいお茶でも持って来ようかと思っ

た時、お母さんに呼ばれた。


 私は結局、何もできずにそのまま式場に戻った。




「…それでも日陰くらいには入って欲しくて」


「え?」と私の方を見る。


 あの時項垂れていた姿は斜め後ろ姿で、顔も良く見えなかった。ただひどく傷ついた男性を見ただけだった。


「私、その時から翠さんが気になって」


「心配してくれたの?」


「それも…少しはあります」


 でも私は強く心に残った。光と影のコントラストと翠さんの傷――。


「触れたい…て思いました」


「同情で?」


「それもあるかも」


 夏の暑さと厳しい陽射しを感じるたびに私は翠さんを思い出した。


「でも好きです」


 一度も話したことのない人、一度だけしか見たことない人。それなのに私の心にずっと残っているあの人。


 私はずっと翠さんが好きで、思い続けていた。


 翠さんが不思議そうな顔で私を見る。


 信じてもらえないのはよく分かる。


 鈴音ちゃんが持っているものは何でもよく見えた。それだから翠さんへの評価も高いのかもしれない。


 でも私はあの夏の後ろ姿が忘れられなかった。


 ほんの一瞬で、世界が変わったような気がした。扉が開いて、何かが見えた。でもそこに行こうとして、扉ごと消えてしまったようだった。それから日常を過ごしていた。時間も経って大学生になって、そのまま夏の記憶は残ったまま湊と付き合った。


「俺はあの日のこと全く覚えてないけど…。絹ちゃんは優しいから…かわいそうに思ってくれたんじゃない? それで…」


「私が翠さんを好きなの…そんな気持ちじゃないです」


 震える声で「好きです」と何度も伝える。


「傷って…魅力的に見えるのかな」


 翠さんがまた空を見上げる。


 私はその横顔を見て、こんなに近くで体温も伝わっているのに遠く感じた。




 その夜、私から翠さんを求めた。


「かわいい。好きだよ」


 そう言ってくれるけれど、私は首を横に振る。


「どうしたの?」と髪を撫でてくれる。


「首の運動です」と言ったら、翠さんは軽く笑う。


 おでこにキスされた。また首を横に振る。


「また運動?」と呆れたように言う。


「今のは拒否です。おでこは嫌。子ども扱いしないで」


「子どもってわけじゃないんだけど…」と困らせてしまう。


「私がするから、翠さん下になって」と言うと、驚いたような顔をしつつ、下になってくれる。


 翠さんを見下ろして、何からしてやろうかと企む。私は少し出ている首とその横の筋が好きだったから、そこにキスする。鎖骨も綺麗で、そこにも唇をつけた。厚い胸板に埋まっている心臓の上にも。


「…変な気分だ」と翠さんに言われた。


「え? 良くないですか?」


「それは…良いけど」と言う口にもキスをする。


 そしたら翠さんの手が私の後頭部を掴んで離さないから息苦しくなって、思わず胸をとんとんと叩いた。


「絹ちゃん…好きだよ」


「え?」と聞き返したら、キスされた。


 胸を叩いていた手は翠さんに握られてしまう。怖いくらいキスが激しい。口をまるごと食べられるかと思ってしまう。首を振りたくてもがっちり後頭部をホールドされていて、動かせない。苦しくて喉がぐうっと鳴る。そしてようやく離してくれたと思ったら、そのまま翠さんの胸に頭を付けられる。


「好きだから」


 翠さんの声を聞きながら、私は目を大きく開ける。


「私を?」


「うん。絹ちゃんを」と言いながら優しく頭を撫でてくれる。。


「私だから?」


「そうだね。顔は似てるけど、前から言ってるけど、鈴音とは全然違う」


 それは分かってる。


「鈴音の代わりって言うのも否定しなかったのは、苦労するの分かってるし…」


「苦労って…」


「それに自分に自信がなかった。だれかを愛して幸せにすることに自信がない。それは今でも」


 翠さんの気持ちはよく分かる。鈴音ちゃんを愛してたから、そして私を側に置いてくれてるのは鈴音ちゃんの代わりだと思ったから。


「でも…絹ちゃんといて、なんか…今までにない感情が出てきて…抑えてたけど」


 私は翠さんの首に腕を巻き付ける。


「好き」


「辛い思いさせると思う…けど、ごめん。もう…無理だ」


「好き。離れる方が辛いです」


「鈴音のこと…気にしてしまうかな?」


「それは、翠さんもでしょう?」と私は頬に口をつけながら言う。


「そんなことないよ」と優しく自然に嘘を吐くから、軽く歯を頬に当てる。


 翠さんが私を下にして、嘘を本当だと思い込ませる。優しい口づけを全身に受ける。嘘でもただの気遣いでも甘くて溶けてしまいそうになる。愛されてる。私がそう感じられるのなら、それは幸せな時間だ。


 翠さんとつながる時もきつく閉じた瞼にキスをしてくれる。


「絹ちゃん…大丈夫?」


「うん」


 私は翠さんで満たされる。不思議な気持ちになる。


 セックスって何のためにあるのか分からなかった。子供を作るためというのは知っている。愛情を伝える手段というのも今一つ分からなかった。そんなことをしなくても愛情は伝わると思っていたから。


「絹ちゃん、可愛い」


 繋がったままキスをする。


「好き…ずっと前から」


 ゆっくりした動きに合わせて、私も揺れる。


 心がこんなにも欲しがっている。そんなこと知らなかった。


「好きでいてくれて、ありがとう」


 そんなことを翠さんに言われた。少しは傷が癒せただろうか、と思って、私は翠さんの顔を見る。翠さんが私を愛してる。突然、そう思った。


 その瞬間、何の前触れもなく私の声が出た。快楽の波が押し寄せる。


「可愛い」


 大切にされている。


 愛されている。


 気持ちが身体と繋がって、震えた。


 そのホテルにも窓があるけど、翠さんの名前を呼ぶのに必死で、私は見ることもなかった。


 明け方近くに眠ったから、起きたのは昼過ぎだった。


「翠さん」と起き上がると、すでに翠さんは起きて窓際の椅子に座ってスマホを見ていた。


「おはよう…。こんにちは…かな」と笑う。


「だって、翠さんが…」と言って、私は恥ずかしくなって、ベッドに潜った。


 ベッドのどこかに私の下着があるはず、と探したけれどどこにも見当たらない。


「絹ちゃん、サイドテーブルに置いたから」


「え?」と顔を出すと、私の下着が綺麗に畳まれて置かれている。


 軽い悲鳴を上げると、ベッドの中で着る。翠さんはもう服に着替えている。下着姿で出るのは抵抗あるけれど、仕方ないとベッドから出ようとすると、翠さんが着替えのワンピースを持ってきてくれた。


「どうぞ」と渡してくれる。


 私は頭からかぶって顔を出す。


「ファスナー止めようか。お腹空いたよね? 何か食べて出かけよう」と言ってくれる。


「翠さん…私、朝起きて…ベッドの中でいちゃいちゃしたかったです。せっかく泊まったんだから」と言うと「ごめん」と少しも反省してないような笑顔を見せてくれる。


「今からでもいいけど?」


「お腹空きました」と頬を膨らませる。


 ちょっとした言い合いも楽しい。


 楽しい時間だった。ようやくちゃんと恋人になれたと私は浮かれていた。




 私は今、お母さんに言えない相手との旅行を反対されて、翠さんが「辛い思いをさせる」という意味がはっきりと分かった。翠さんと付き合ってるなんて絶対言えない。


 ましてマレーシアに行きたいなんて言えなかった。ハガキを何度も見ながら涙を手の甲で拭く。


 暑すぎてセミも鳴かない昼下がりだった。

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