第38話

哀しみと喜びと


 翌朝、意を決して湊のアパートに向かった。小さな引っ越しトラックが来ていて、荷物を運びだしている。私は見慣れた家具や冷蔵庫が運ばれていくのを少し眺めて、部屋まで行った。


 暑い日の引っ越し作業は大変だろうな、とぼんやり思っていると、玄関先に湊が立っていた。すぐに気がついてくれる。


「絹…ちゃん」


「実家に帰るの?」


「…うん」


「お手伝いすることない?」


「ないよ。もうほとんど荷物積んで…後は机だけ」


「そっか。湊も今日、帰るの?」


「うん」と返事をしたら、最後の机が運びだされていった。


 それを見送って、業者さんに湊は挨拶をした。


「最後に部屋入る?」と言うから、よく来ていた部屋に入った。


 がらんとした部屋は見慣れた場所と違和感がある。ベッドが置かれていた窓は私がセックスをしている時、ぼんやり見ていた窓だった。初めては痛くて泣いてしまった。何がいいのか訳が分からなくてずっと「痛い」って言って、湊が「ごめん」って言って、でも止めてくれなくて…。そんな思い出が少し胸を軋ませる。


「後、軽く掃除して…出るから」


「あ、手伝うよ」


「いいよ。掃除道具、ぞうきん一つだから。何もないところだけど、ゆっくりして」


 そう言うと何もかも消すように湊はぞうきんがけを始めた。


 この部屋で笑ったり、ささいな喧嘩したり、よく分からないままセックスしたり、お互い初めて付き合った人同士で、二人とも幼くて、上手くできなかった。


 ――違う未来もあったのかな。


 まだここで笑い合ったり、相変わらず分からないセックスを窓をぼんやり見ながらしていたのかなと思うと、不思議だけど涙が零れた。


 湊が端から端まできっちりぞうきんを走らせている。


 胸が軋む。


 湊をちゃんと愛せなかった後悔が、もっと上手く付き合えたんじゃないかという苦さが溢れて来る。


 ふと湊が止まる。


「絹ちゃん…」


 そう言って、湊は大の字になって、床に寝転んだ。


「幸せだった。ありがとう」


 涙が止まらない。


「…泣かなくていいよ。俺…本当に幸せだったから」


 少しもこっちを見ない。


「そ…んな」と私は膝を抱えて、顔を埋めた。


 家具がない部屋は音が響く。鼻をすする音が頑張っても隠せない。


「可愛くて、可愛くて…大切にしたかったのに…できなくて…ごめん」


「私…こそ…ごめん。ごめんなさい」


「あー、もう…俺が馬鹿だった。だから謝らないでよ」


 そして湊は起き上がると、私の横に来て座る。


「泣いてもらう価値のない男だから」


「そんなことない」


「後悔って言葉を今ほど実感したことない。でも絹ちゃんは俺のこと、いい思い出になんかしなくていいよ。弱ってたとは言え、やっぱり裏切ったのは俺だから」


 ふと気になって顔を上げて聞いてみた。


「麻友さんとの…は良かった?」


 驚いた顔をしてから、笑い出した。


「なんか…いろいろ…すごかった」


「え?」


 思わず詳しく聞きたくなる。


「でも幸せを感じたのは絹だったし、幸せにしてあげたいっていつも思ってた」


「うん」


 私がよく分からないと思っていたことは最後まで言わないことにする。


「最後に…ハグしていい?」


「いいよ」


 そっと横から手を伸ばされた。久しぶりに湊の匂いに包まれて、なつかしさを感じた。


「あー、絹の匂い。なんか…ミルクみたいな匂いするんだけど」


「え?」


 みんなに赤ちゃんって言われてるけど、と思って自分の肩あたりを匂ってみるけど、分からない。


「牛乳臭いの?」


「違う。少し甘くて…やっぱりミルクって感じがする」


「えー?」ともう一度自分で匂いを嗅ごうとしたら、湊にぎゅっと抱きしめられた。


「ミルクキャンディみたいな匂い」


 そう言われたけれど、頷くこともできなかった。お別れの時間が来た。


「ありがとう」


 そう言われて体が離れた。


 湊は不動産屋さんとの待ち合わせがあるから先にご飯を食べに行くと言う。私は苦しくて、食べられないから、一緒に駅まで歩いて、そこでお別れをした。今日は翠さんの家には行けなかった。


 何度と駅で「バイバイ」と繰り返したのか分からないけれど、もう二度と会えないお別れは今日が初めてで最後だ。


「元気で」


「うん。湊も。体に気を付けてね」


「じゃあ。行って。俺からは…行けないから」


 私は頷いて背中を向ける。振り返りたくなるのを我慢した。私が湊にできることはもう何もない。唇をぎゅっと閉じて、そのまま歩いた。


 嫌いじゃなかった。好きだった。


 でも上手く行かなかった。


 こうして何人の人と出会って、別れるのだろうと思うとため息が出る。


 青い空が眩しいけれど、空気が重くて足取りも重くなる。




 私はお母さんに旅行の話をするのに、二度三度練習した。まずは翠さんと行く旅行について


「三日から二泊で奈々ちゃんたちと旅行に行くから」と一気に言う。


 少しでも澱みがあってはいけない。


「後、月末にも桃ちゃんたちと行くの。グループで」


 これも男の子がいることを悟られてはいけない。覚悟を決めて、階下に降りる。


「お母さん、あのね。旅行に…」


 リビングでテレビを見ていたお母さんが振り向いて「旅行? いつから?」と聞くから、さっき練習した台詞を淀みなく言う。


「そう…。よかった」


「え?」


「絹、湊君とのことで落ちこんでたから…」


「あ…うん。だから友達が連れ出してくれて。後、八月末も予定があって…」と言いいつつ、胸が苦しい。


「彼氏でも出来た?」


「ううん。そんなんじゃ…」


「そう? 上手く行ったら、また連れてきてね」とお母さんが微笑むから、私は口角を上げながら、頷いた。


 翠さんを連れてくることは絶対にできない。


「後…絹、分かってると思うけど、自分の体は大切に」


「…あ、は…い」


 うっすら分かられているのが怖い。でもこれで肩の荷が下りて、私は後は楽しみだけが残った。




 お昼過ぎに翠さんの家に行くと、突然抱きしめられた。


「絹ちゃん。嬉しい」


「え?」


 こんなテンションの翠さんは初めてだったから戸惑った。


「コンペ、通った」


「え」


 前に言ってたパビリオンのことだ。


「わー。おめでとうございます」と私も抱きしめ返した。


「ありがとう」


「え? 私何もしてないですけど」


「絹ちゃんはラッキーガールだから」


 そうかな、と思ったけれど、言われて嫌な気持ちにはならなかった。


「でも、忙しくなるんですか?」


「…なるね。旅行は行けるけど、月末にはマレーシアに行くかな…」


「マレーシア」


「自分が設計した建物が建つのって、すごく嬉しい。一軒家でも嬉しいし…。でも今回のは、たくさんの人が来て、見てくれるから…」


 こんな翠さんを私は初めて知った。子どもみたいな、わくわくした気持ちが伝わってくる。翠さんの好きなもの…。カレーと鈴音ちゃんと、建築。一つ増えた。


「私もマレーシア行きたいなぁ…」と呟いた。


「行く?」


 そんなこと言う人じゃないのに、と驚いて顔を上げる。


「…翠さんはどれくらいの期間行くの?」


「二週間くらい行こうかなって。一週間は仕事で、後一週間はせっかくだからマレーシアの建物見ようかなって。まぁ、度々行かなきゃ行かないんだけど」


「行きたい!」


「パスポートある?」


 そんなものはなかった。用意しなければいけない。


「飛行機代は出すよ。いつも家事してくれてるから。アルバイト代」


 私は親に申告するのに国内旅行よりハードルが上がったけど、翠さんとどうしても行きたくなる。


「あの…後から行くのでもいいですか? 流石に二週間は言いづらくて」


「一人で来れる? 空港までは迎えに行くけど…」


 力いっぱい頷いた。


 初海外旅行。私は幸せな気持ちで背中に回した手をぎゅっともう一度、力を込める。私がラッキーガールかは分からない。それでも翠さんの未来に明るい兆しが見えた。

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