第37話
日陰と日向
翠さんの匂いと体温とそして湿度を感じながら、泣けなかった哀しみは一体どうしたらいいのだろう、と考えていた。
「絹ちゃん」
そう呼ばれて、顔を上げる。
「お別れ…しよ」
その言葉を聞いて反射的に首を横に振った。
「しません。翠さん、まだ…泣いてないし」
「え?」
「私はまだ好きだし…。好きなだけいていいって言ったじゃないですか。そう。そうだ。お別れじゃなくて、カレー、カレー食べよう。翠さんが作ったカレー」と私は翠さんのシャツをぎゅっと握って、涙が零れるのもそのままでしゃべり続けた。
「私のために作ってくれたんでしょ? だから食べなきゃ。翠さん…は私が作るの食べて…って言っても八宝菜。野菜たくさん取れるから。八宝菜の素も買ったし…」
(嫌だ、嫌だ、嫌だ)
私はもうあの頃の私じゃない。
何もできずに遠くから見ていた子供じゃない。
「翠さん、お願い…。私を見なくてもいいから」
少しだけこっちに来てくれたら、日陰があるから。強い日差しを遮る日陰のところまで来て欲しい。私のところじゃなくてもいいから。ここで終わるなんてできない。
「翠さんが鈴音ちゃんのことで泣ける日が来るまで…」
いつかその傷が癒える日まで。
「側にいたい」
何も言わずにじっと私を見ていた。
その瞳に私が映っている。少し色素が薄い気がしていた。お父さんがクオーターとか言ってたな、とこんな時に思い出す。
「綺麗な…」
目の色の感想を言おうとしたら、翠さんに口を塞がれた。背中に回った大きな手のひらが優しく撫でるのを感じる。愛されてると勘違いしてしまいそうになる。でも今は幸せな気分になれるのなら、嘘でも思い込みでもいいかな…なんて思いながら、舌が触れ合う。頭では割と冷静にいろんなことを考えているのに、舌を絡める毎に切なくなる。
唇を離して、言われた。
「絹ちゃんは…こんな場所じゃなくて、もっと光ある場所で息をして、笑いながら時間を過ごすべきじゃないかな…って。何で俺なんかと…」
「翠さんだから一緒にいるんです。もし光のある場所でって言うなら、一緒に来てください。でもまだ翠さんには眩しいでしょ? だから一緒に日陰でゆっくりしませんか?」
日陰で日向を見ていたら、きっといつか目がその眩しさに慣れるはず。
もう何も言わなくなった翠さんに「カレー食べたいです」と私が言うと、「可愛いわがままだな」と翠さんは笑った。
「わがままでも側にいますからね」といーだという顔で言う。
「…嬉しいけど。それでいいのか分からない。」
「もし翠さんに好きな人が出来たら、哀しいですけど…お別れの話はちゃんと聞きます。それ以外は断固拒否、受け入れません」
殊勝なことを強気で言ったら、翠さんが「ないない」と言う。
まぁ、それそうだ。翠さんは鈴音ちゃんを愛してるから――。
顔が似ててよかった、と心から思った。半分くらいは好きになってくれるから。
その日から、バイトのない日は翠さんの家に行って、疲れた翠さんにマッサージをして、キスをした。家事も軽く行い、その後は本を読んだりして静かに過ごす。そして日が暮れる前にはお暇する。お仕事の邪魔をしてはいけないし、私も親のいる実家暮らしの手前、そんなに外泊できない。
桃ちゃんたちとの旅行の話も進んでいるし、私は意を決して笙さんにもメッセージの返事を送った。
『返信に悩んでる間に時間が経ってしまいました。ごめんなさい。元気に過ごしてます。毎日、暑いので、笙さんもお体気をつけてくださいね』
すぐに返事が返ってきた。
『ごめんね。なんかプレッシャーかけてたみたいで。返事にも気を遣うよね。でも正直、返事は嬉しい』
笙さんは本当に素敵な人だ。
『私、男友達がいなくて、どう距離を取っていいのか分からなくて』
『そうなんだね。そんな考えなくていいよ。スタンプ一つでもいい。何かあったのかなって、いろいろ思っただけだから』
私は『はい』と言っているウサギのスタンプを送った。
『可愛い』と言うスタンプが返ってくる。
そう言うのでいいのか、と少し気が楽になる。本当に笙さんは私の気持ちを軽くしてくれる良い人で、それでこのまま甘えてるのが、辛い。
それでも何も言えないままスタンプを送ったり、メッセージのやり取りをする日々が続いた。
翠さんとは連絡先を交換したものの、メッセージは一度も送らなかった。いつも会っていたし、何だか夜にメッセージを送って返事が来ないと気になって眠れなくなりそうだったからだ。そんな翠さんからバイト終わりにメッセージが届いていたのに気が付く。
「仕事が区切り付いたから、前に言ってた旅行に行こう。八月入ってすぐぐらいの予定を教えてください」
嬉しくて何度も読み直した。
すぐにバイトのない日を送った。
「泊まりでも大丈夫?」
スマホを落としそうになる。
「二泊でも大丈夫です」と震える指で返事を書いた。
送信してから、ちょっとずうずうしかったかなと思った。
「良かった。ゆっくりできるね」
そんな即レスに眩暈がして、その場に座り込みそうになる。急いでバイト先のエプロンを脱いで、自分の服に着替えた。
そして裏口から出て、自転車に乗ろうとしたら後ろから声を掛けられた。振り向くと新太君が立っていて、思わず
「ひっ」と変な声が出た。
「そんな警戒しないでよ」
「…何」と言いながらも逃げる方法を考える。
「湊…やっぱり学校辞めるって」
「え?」
「それから…麻衣の妊娠騒ぎも嘘だったって…。俺も騙されてたわ。妊娠してなかったって」
やっぱり桃ちゃんが言っていた通りだった。
「湊…いいやつだったけど、なんか、いつも幸せそうで、ちょっと苛っとして。…それでなんて言うか」
「ひどいよ。湊が幸せなのと新太君は関係ないじゃん」
「…まぁ、そうだけど。顔も良くて、可愛い彼女もいて、それでいてモテて、何でもできて…。ってそんな奴が優しく俺にも接してくれて…。苛ついた」
新太君の心の歪みについては誰もが持っているよくある話のようにも思えた。それでもそこまでする人は少ない。
「…それで何の用? まだいじめ足りなくて、ここまで来たの?」
「いや。そうじゃなくて。湊…明日、もう引き払う予定にしてて。きっと絹ちゃんにも言ってないだろうから」
「明日? 家を引き払うの?」
「もう…二度とここには来ないって」
湊の傷の深さを知った。
「それだけ…言っておこうかと思って。今日いなかったら、お店に連絡してもらおうかと思ってたけど。会えたから。…ごめん。今更だけど」
私は何時に引っ越すか聞いてみた。
「朝から引っ越し業者が来て、お昼には…って言ってたかな」
「…教えてくれてありがと」
自転車に乗って、私はそのまま走り出した。夜の風が生温かくて、湿度を感じた。
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