第29話

傷に触れる


 元奥さんはみなみさんと言って、同じ学部の二つ上の先輩だった。


 学生の頃から知っていたけど、付き合ったのは南さんが卒業してからだった。南さんが先に就職していたから、頻繁には会えなかった。半年も過ぎると、社会人と大学生では世界が違い過ぎて、自然消滅かな、と翠さんは思っていたらしい。でも翠さんは本気で建築家になりたかったから、自分の勉強に忙しくて、あまり会えないことに不満もなかった。でもそれがすれ違いの素だとは思ってもみなかった。



 国内外の建築を見に行ったり、充実した日を送っていたある日、南さんに呼び出された。


「赤ちゃんできたの」と突然言われた。


 翠さんは就職も決まっていたけれど、まだ学生だったから、双方の親を含めて話し合いが行われる。翠さんの親は平謝りして、なんでも要求を聞くと言った。


 南さんの希望は結婚と出産で、翠さんは言われたことを飲み込むしかない立場だと思って、そのまま受け入れた。


 生まれる子供のために、先に籍だけいれることになる。大学は卒業した方がいいと双方の親が言うので、とりあえず、翠さんの卒業までは南さんは出産しても実家で過ごすことになった。


 出産後、色素の薄い赤ちゃんが生まれた。


 翠さんのお父さんがクオーターなので、赤ちゃんを見た時、少し違和感を覚えたが、先祖返りしたのかもしれない、と孫ができた喜びに翠さんの両親は深く考えなかったらしい。


 生まれたら、一緒に暮らすつもりだったけれど、南さんの両親に産後は大変だとか、卒業しても初めての就職も大変だからと、なんだかんだと理由をつけて、別居の日々が続いた。


 別居しつつも、翠さんは休みの日は必ず会いに行ったが、違和感がぬぐえなかった。先祖返りがあるかもしれないけれど、あまりにも自分に似ていない。


 明るい茶色の髪と目の色、白い肌。


 はいはいする頃にはさすがに違和感が大きくなり「誰の子?」と聞いた。


「あなた以外にいない」と南さんが言ったが、翠さんは子供のためにもはっきりさせたかった。


 再び双方の両親と話し合うことになる。南さんの両親は生まれた頃から、分かっていたらしく、ひたすら頭を下げていた。南さんが友達とイタリア旅行した先で出会った人との子どもだと言う。


 真実が分かったが、翠さんは漣君のことを捨てる気になれなかった、と言う。



「…じゃあ、本当のお父さんは?」と私が訊くと、


「海外旅行先のバーで知り合った人だったから…連絡も取れないって」と言う。


「そんな…」


「彼女にしてみれば、どっちの子か生まれてくるまでは分からなかったから、掛けに出たんだろうね」


「あの…翠さんは…えっと、避妊」


「してたよ。だから確率は低い掛けだったと思う。でも…それでもしなければいけなかったんじゃないかな」と翠さんは軽く息を吐いた。


「…そうですか」


「赤ちゃん、堕ろす選択をしなかった彼女も…ある意味、尊敬できたしね」


「そうですか?」と私は不思議な気持ちになる。


「漣、可愛いだろう?」


「はい。とっても」と勢い込んで言う。


「色々悩んでる間にも子供は育っていって、抱き上げて…パパって言われた時は嬉しくて。…親に離婚するように言われてたけど、できなかった。漣の父親になりたくて」


 乳母になりたいと思った私なら分かる。


「でも、これは双方が悪いんだけど、夫婦仲っていうのはもう最悪で。俺は彼女を信頼できないし、向こうは…それで辛かったと思う。俺は仕事に逃げた。必死で仕事して、独立もして…。でも夫婦の会話は冷めてて…。そんな時に鈴音がバイトに来たんだ」


 翠さんの事情は何も知らなかった。ただ鈴音ちゃんと不倫して、何もかも清算して離婚したとしか知らなかった。


「当時…俺、かなり荒んでたから、鈴音も怖かったと思うよ」と思い出し笑いをする。


「でも…鈴音ちゃん、きっと頑張ったと思います」


 鈴音ちゃんはそう言う人だ。会った人の本心を理解して、優しくできる人間だから。


「かなりね…。最初はコピー頼んでも震えてたし」と懐かしそうに思い出す。


 鈴音ちゃんはそれでも何とかバイトに来ていたらしい。


「怖がってるの分かってたから、いつ辞めるかなって思ったんだけど、案外根性があるっていうか…、一生懸命に仕事を覚えようとしてくれたり、本当はインテリアデザインに興味があるのに、建築についてもなんとか勉強しようとしてくれたり…。震えながらでも、微笑んでくれたりと…ほんと、一生懸命で、なんかこっちが申し訳なくて」


「翠さん…怖かったんですか?」


「そん時は独立したばっかりで、すごくぴりぴりしてた」


 そんな人をどうして鈴音ちゃんが好きになったんだろう、と思った。


「一緒に仕事していくうちに、鈴音の優しさで癒されてて…家にいるより、仕事場にいる時の方が落ち着くようになってしまった。離婚の話も出てたよ。鈴音関係なく。レスだったし」


 レス? と思ったが、何となく聞き返せなかった。


「仕事のせいにして、泊まり込んだりして…。ろくに家に帰らないこともあった」


 心配した鈴音ちゃんがお弁当を作ってくれたりしたと言う。奥さんは逆に久しぶりに帰っても言葉を交わすこともなかったらしい。


「漣の父親になろうと決めたのに、漣の前でも喧嘩ばかりで…。その一方で、鈴音の存在も大きくなって、大人気ないけど、何もかも捨てて、鈴音を選んだ」


「でも…慰謝料とか、そういうのは…必要だったんですか? もともと奥さんが嘘をついて結婚したってことですよね」


「うーん。…なんて言うか。早く鈴音と一緒になりたいっていう気持ちもあったけど、漣の父親になるって決めたのに途中で逃げ出したことが自分で許せなくて。贖罪の気持ちが大きかったかな」


「…でも翠さん、今でもパパやってますよ」


「パパって…漣が呼んでくれるから…」と言って、翠さんは俯いた。


 かける言葉がなかった。


 漣君がいつか全てを分かった時、傷つくのは本人なのに、と私は思う。


 結婚継続を決めた翠さんは若かった。優しい気持ちで自分が何とかしてあげようと思って、でも…現実はそれはかなり難しい道だった。


「それでも…自分に優しくしてくれた人がいるってことは…いつか力になると思う」と言っていた。


「え?」


「血が繋がってなくても、こうして時間を割いてくれてること、いつかは思い返す日がくると思うんです。今はまだ分からないと思うけど…」


「そっか。…ありがとう」と言って、私を見る。


「いいえ。そんな…」


「絹ちゃん。浴衣可愛いね」と翠さんが言ってくれて、私はこの姿を見て欲しくてわざわざ来たことを思い出す。


「…ありがとうございます」


 そうお礼を言いつつ、私は自分が本当に子供っぽいと自覚した。浮かれた気持ちでわざわざここまで来て、笙さんの気持ちに応えることもできないまま――。


 本当に私は翠さんにはふさわしくないし、笙さんとだって不釣り合いだ。


「あの…帰ります」


「駅まで送るよ」


 翠さんが立ち上がる。


「一人で帰れます」


「もう遅いし」


「大丈夫です…。本当に」と言って、私は立ち上がった。


「コンビニに行くついでだから」


 私はそれ以上、拒否できなくなる。二人でアパートを出る。私の下駄の音が小さくカランコロンとなる。


「変な話聞かせて…ごめん」と翠さんに謝られた。


「え? いいえ。私の方が」


 ――悪い。


 大した覚悟もないくせに、夏の間だけ、翠さんのところに来ると勝手に決めて、ずかずかと入り込んで、そのくせ笙さんにも優しくされて、帰る場所を用意していて、ずるくて、最低だ。


 鈴音ちゃんは何もかも失ってもいいという覚悟だったのに、私は全然違う。


「鈴音ちゃんと会えて幸せでしたか?」


 翠さんが立ち止まる。


 私は何が聞きたくて訊いてるのだろう。


「…これまでにない幸せと二度と味わいたくない不幸だった」


 翠さんの傷。


「ごめんなさい」


 今もまだ血が止まらない。


「どうして?」


 私はその傷に触れたくて、手を伸ばした。


「…顔が似てて」と言うと、翠さんは軽く笑った。


 私ならその傷を塞げると驕っていた。


「そうだね」


 でも私は血を流し続ける翠さんに惹かれてしまった。


「顔が違ってたら…、話すこともなかったですか?」


 何の覚悟もなく。


「…かもしれないね」


 あなたの血が流れていくのを見ているだけ。



 空を見上げると、まばらな星が浮かんでいる。私も翠さんも比べれば小さな存在なのに、どうしてこんなに胸が痛いんだろう。


「…じゃあ、ここで」


「え? まだ」


「明日、来ます。また…」と言って、私は頭を下げた。


 もう翠さんは追いかけて来なかった。でも振り向かなくてもずっと私のことを見てるの分かっていた。


 明日は、来ません。

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