第30話
隠された指輪
八月に入って、鈴音ちゃんのお母さんがやってきた。
「暑いわねぇ」とお母さんとリビングで話してる。
私はお茶だけ出して、部屋に戻ろうとした。
「絹ちゃん。ちょっと…」と声をかけられた。
「はい」
「もういい加減、捨てようと思ってるんだけど…。もし欲しいものがあったら…」と言って、白いビロードの箱を渡される。
「あ…これ」
その箱はオルゴール付きの宝石箱だった。小さなバレリーナの人形がついていて、音楽に合わせてくるくる回るのだった。二人で何度もネジを巻いて、人形がくるくる踊るのを見ていた。そのうち、鈴音ちゃんが踊り出したりした。私はそれを見て、ぼんやりと綺麗だなと思っていた。
中を開けると、おもちゃの指輪や、ペンダント、ブローチ、高校入学時の証明写真、そしてずっと使っていた腕時計が入っていた。
「良かったら…でいいの。いらなかったら、捨てるから」
「おばさん…。全部もらっていい? 箱ごと全部」
「いいの?」
捨てるって言って、きっと捨てられなくて持ってきたのだろう。
「絹ちゃん…。ありがとう。あの子の分も幸せになって」と涙ぐむ。
言えなかった。言えなかったけど、鈴音ちゃんは私よりうんと一生懸命に生きて、幸せだった。
その夜、私はオルゴールを開けた。久しぶりにバレリーナの人形が踊るのをみたくなって、ネジを巻く。
カリカリカリと軽い音を立ててから、蓋を開ける。音楽が鳴り始めたかと思ったら、途中で引っかかっているのか音楽が止まった。私はオルゴールの蓋を開けて中身を確認する。オルゴールの器械に何か挟まっていた。軽く箱ごと振ると、何かが床に転がり落ちて、音楽が始まった。
拾い上げると、柔らかい布に包まれた小さなダイヤがついた指輪だった。中に文字が彫られてあった。
『S to S』
それが翠さんから鈴音ちゃんへ贈られたことを意味していた。見つからないように、こんなところに隠していた。
鈴音ちゃんがまだバイトとして翠さんのところに通っていた時期かもしれない。プレゼントされた指輪をオルゴールに隠して、部屋でこっそりつけて、一人で眺めていたのかもしれない。それくらい傷一つなかった。
時計は十一時。
私はパジャマからワンピースに着替えた。指輪を布に包んでカバンに入れる。父はお風呂に入って、母はもう寝室に入っている。私はそっと家を抜け出た。
駅に向かう。最終までまだ時間があった。ホームはまばらな人影で、こんな時間に電車に乗る人がいるんだと私は思った。
到着した電車もガラガラで座れるのに立ってしまう。
翠さんの連絡先を知らない私はもし部屋が真っ暗で寝ていたら、ポストにこっそり入れておこうと思った。
その後はどうしようかな。カラオケに行こうかな。奈々の家が近いから連絡してみようかな。色々考えてみる。
楽しいことをなるべく考えてみる。
そしてふっと
(起きてたら…どうするの?)と思った。
自分のやたら緊張した
夜の道を歩くのに少しも怖いと思わなかった。それよりも心臓の音が大きく打っている。脳まで脈を打ってるような気がしてきた。小道を通り、アパートの前に出る。二階の二番目の窓から明かりが漏れていた。
(起きてる)
震える足をゆっくり動かして階段を上る。勇気がでなくて、ポストに指輪を入れようかと思った。
ポストの扉をそっと指で押す。ふわっとカレーの匂いが漂ってきた。指輪を鞄から取り出そうとして、指を離すとポストの扉がカタンと音を立てる。
「あ」と思って、慌てて、私は後ずさった。
足音が聞こえて、扉が開く。
翠さんが私を見て言った。
「今日、来るって言ってたもんね。入って」
何事もないように言われて、私はそのまま吸い込まれるように部屋に入った。
「カレー食べる? 絹ちゃんが来るかと思って作って待ってたんだけど」
「あ…。ごめんなさい」
「いる?」
「大丈夫です」と言うと、翠さんはアイスティーをすぐに作ってくれる。
氷一杯のグラスとマグカップに熱いお湯とティーパックを用意して、紅茶が出来たら、氷のグラスに注ぐ。
「どうぞ」と目の前に置かれた。
カランと音を立てて、氷が解ける。
「翠さん…。私…あのお渡ししたいものが…」と慌てて鞄を探る。
小さな布の物を探すのに、両手で荷物を探る。小さいから化粧ポーチや、財布、生理用品が入った巾着、スマホ、のど飴、ティッシュケースにまみれて探しづらい。
「何?」と翠さんがのぞいた瞬間、奈々ちゃんからもらっていたあの四角い銀のフィルムに入った避妊具が飛び出す。
どうしてこうも飛び出す仕掛けになっているんだろう、と私は慌てて拾おうとすると、翠さんが先に拾った。
(奈々ちゃん…)と私は心の中で友達の名前を呼んだ。
「これ…」
「あ、それ、奈々…友、あ…」
「これが渡したいもの?」と言う翠さんの顔を見れなくて、俯く。
死んだような顔をした後、本当の用事をと鞄の奥底に手を入れる。もう私は翠さんが手にしているものの存在を否定することにした。指輪を包んだらしい布がようやく指に当たってくれる。それを引き出して、翠さんに見せようとした。
翠さんが顔を赤くしていて、驚いた。
「…」
でも私はその存在を無視することに決めたので、見えないことにした。
「今日、鈴音ちゃんのお母さんが家に来まして…鈴音ちゃんの宝物を譲り受けて…ですね」
目は微妙に翠さんの後ろの壁の方を見て言う。
「そのケースが私も大好きなオルゴールで、鳴らしてみようと思ったわけです」
明らかに挙動不審だと思うけれど、視線をかたくなに逸らして、目の端に映る四角い銀色のものは気にしないことにする。
「オルゴールに付属の小さなバレリーナの人形が音楽に合わせてくるくる回るんです。それは飽きなくてですね。鈴音ちゃんもバレエを習ってらしたので」
布を指でつまんで開けて、指輪を取り出す。
「鈴音ちゃんも踊ったんですけど、それが立派で、素敵で。で、この指輪が鳴らないオルゴールの中から出てきたというわけで、深夜にも関わらずお持ちしたんです」
四角いものを持つ反対側の手に指輪を渡す。
「…絹ちゃん」
「はいー」と背骨を伸ばす。
翠さんは指輪をテーブルに置く。そして私の手に銀色の物を乗せた。
「返すね」
私は目を横にして、そんなもの知らないという顔で、鞄に放り込んだ。そうするから、また何かに引っかかって落ちるのだ、と思ったけれど、いち早く隠してしまいたい。そして鞄のどこかに消えたのを確信すると、私は何事もなかったふりで微笑もうとしたら、翠さんが笑いを堪えていた。
「あははは」と私は力なく乾いた笑いを浮かべた。
(死んだ)
「こんな夜更けに来るから…一瞬、悪い事考えた」
(うん。そう、そのつもりもあったようななかったような…ん?)
「悪い事?」と私は聞き返す。
翠さんはそれに答えず、テーブルの上に置いた指輪をつまんで目の高さで確かめた。
「鈴音にあげた指輪…。全然つけてくれたなかったんだけど…」
「つけてたと思います。でも大事にしてて、布に
「…そうかな」
「そうです。誰にも見つからない場所に隠して。…お付き合い反対されてたのなら、なおさら…」と私は言った。
「そっか。鈴音の両親には一度しか会ってないし、その時は…別れるように言われて」
きちんと説明もさせてもらえなかったようだった。鈴音ちゃんの両親にしたら、どんな理由があるにしろ、まだ離婚してないのなら、不倫にしかならない。奥さんから慰謝料請求されたら、鈴音ちゃんは払わなければいけない。
鈴音ちゃんは翠さんのバイトにも行かせてもらえなくなり、会えなくなった。その時、この指輪がどれだけ力になったんだろう、と私は思った。きっと指に嵌めては翠さんを思っていたはずだった。
「…鈴音が家を出て来たのも、こんな夜中で、慌てて来たのか、小さな鞄一つだけだった」
愛おしそうに回想する翠さんの目が優しかった。
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