第27話
秘密の場所
重たさを伴って、黄色い西日が体にまとわりつく。眩しくて、私は目を閉じた。
「絹ちゃん…。行こう」
そう言って、手を取ってくれる。私の想いはスルーされたようだけど、返事が欲しいわけじゃなかった。答えは聞かなくても分かってる。でも温かい手で繋がれたのは救われた。そのまま駐車場に向かう。車に乗ると
「美味しいカレー屋さんがあるんだけど、行く?」と言われた。
「はい」
「インドカレー好き?」
「好きです。チーズナンとか大好物です」
「良かった」
車がさらに、丘を登っていった。そこも住宅街にある一軒家だったけれど、インドカレーと書かれた看板が立っている。駐車場も三台ほどあった。
「ここも鈴音ちゃんと来たところですか?」と車から降りて言うと、翠さんが止まった。
別に思い出の地を回るのは少しも嫌じゃないけど、何気に言ってしまって、翠さんを困らせてしまう。
「…別のところが良かった?」
「いいえ。あの…鈴音ちゃんって呼んでください」
「え?」
「あ、ちょっと待っててください」と車のドアを開けようとするけど、ロックがかかっている。
「…忘れ物?」と聞き返されて「あの…。車開けてください」と扉を引っ張る。
ドアロックが解除されたら、私は車に乗り込んだ。そして鞄からゴムを取り出す。一番手っ取りばやくハーフアップをすると、ゴムで括り、括ったところに髪の毛を一度通す。それだけで、何だかいい感じになるとこの前、ネットで勉強したのだった。鏡でチェックして、左右に少し後れ毛を出す。鏡で見る私は自分でも鈴音ちゃんに見える。二、三回、遠慮がちに笑顔を作ってみるとそっくりだった。ただその笑顔を再現するには鏡が必要そうだ。そこは諦めて車から出た。
翠さんは背中を向けて待っていた。私が車のドアを閉めると、振り返る。
無言でこっちを見ていた。
「翠さん」
呼びかけると弱弱しく微笑む。
「参ったな」
そう言って前髪をかき上げる。私は残酷なことをしているんだろうか。もう会えない人のフリをして、それは何の救いにもならないんだろうか。むしろ傷をえぐっている――。
「そっくりで…」
でも違う、と聞こえた気がした。翠さんは声にだしていないけど、聞こえた。
「食べに行こうか」と背を向けられた。
その背中を見て、私は何をしているんだろうと思う。振り返って、こっちを見て欲しいと思うけれど、それは鈴音ちゃんとしてではない。鈴音ちゃんを言い訳に使っているだけだった。
「…ごめんなさい」
振り返って「そんな顔させたいわけじゃないんだ」と翠さんが哀しそうに笑う。
「ここ、鈴音とは来てない。辛いの苦手だから」
「え?」
「設計して、たまに工事見に来て、ひとりで来た。辛いの食べたい時…」と言ってため息を吐く。
「鈴音ちゃん…確かに辛いの苦手でした」
「それに付き合わせるのも…悪くてね。でも店には連れてきてあげたかったな」と言って扉を押す。
まだ早い時間だったので、お客はいなかった。
「あら…。お久しぶり」と女性の店主が出てきた。
「久しぶりに食べたくなって」
私を見て「デート?」と聞くと「そう」と簡単に答える。
その言葉で体温が二度上がった。
「じゃあ、いつもの席にどうぞ」と奥まで案内してくれると、ガラス戸を開ける。
テラス席があった。
「ちょっと待っててね。蚊が多いから」と店主は言う。
テラス席から街の明かりや、さっきの病院が見える。店主は蚊取り線香を持ってきてくれて、テーブルの上のろうそくに灯りをともしてくれた。
「チーズナンと普通のと…それからおすすめのほうれん草カレーとチキンカレー…絹ちゃんは?」とさっきからメニューを眺めている私に聞いてくれる。
「エビカレーで」
辛さの度合いを店主は聞いてくれて、ラッシーもつけてくれると言う。
「最近来ないから…元気してるのかなあって思ってたのよ」
「工事、終わったからね。なかなかここまで来れなくて。でも美味しかったから…」
「まぁ、彼女まで連れて来てくれたんだからありがたいわね。また来てね」と言ってお店に戻って行く。
「彼女設定ですか?」と私は訊いた。
「いいかな?」と聞き返される。
私は頷いて夕日に包まれている街を眺める。
「ここでカレーを食べながら、街を見て、家を見て…いろんな家を考えてた。どんな家がいいかな…とか。頼まれた家の間取りはどうしようかなとか」
「そう…なんですね」と私は翠さんに目を向けた。
翠さんは遠くを見ている。
「…鈴音も一緒に来て、この景色を見て欲しかったけど。まぁ、甘口カレーでもいいのかもだけど、連れて来てないんだ。だから鈴音も知らない場所だよ。俺の知らない鈴音の写真を見せてくれたお礼」
本当は鈴音ちゃんと来たかった場所――。高台のカレー屋さん。
「あ、チキンティッカ頼むの忘れてた」と言って、翠さんは店に入って行った。
私は一人で街を眺める。
「鈴音ちゃん…」
あの優しい鈴音ちゃんが好きになったのも分かる。どんなに反対されても、諦めなかったのも分かる。赤ちゃんも…。翠さんとの赤ちゃんも…。
(でも大胆だなぁ。私にはできないよ)と俯いた。
当時、翠さんは既婚者で、親に反対されてたのに、それでも赤ちゃんを産もうとした。あの時、まだ鈴ちゃんは大学生だったはず。結局、卒業もしないままだった。
短い人生だったけれど、恋に生きた。
あの鈴音ちゃんが必死で生きた。
同じ顔だけど、鈴音ちゃんはおしとやかな綺麗な女の子で、私は頑固で不器用だったから、親からは鈴音ちゃんを見習うように言われていた。でも同じようにできなくて、バレエも全然だめだった。それに鈴音ちゃんは私より勇気があった。
今となってはそう思う。芯の強さがあって、その内面の美しさが優しい笑顔になっていた。
同じ人を好きになっても、当然のように同じように好きにはなってもらえない。
鈴音ちゃんとは比較にもならない。
ハーフアップしても、焼石に水だ、と私はゴムを外して、ポニーテールにする。首筋に風が通った。
「あれ? 髪の毛…括ったの?」
戻ってきた翠さんが少し驚いたように言う。両手にラッシーを持っていた。
「あ、ちょっと暑くて」
「店内に行く?」
「ううん。あの…暮れていく景色が見たいから」
「俺も」と言うから、私は微笑んだ。
「絹ちゃんらしくて、可愛いよ」
慰めの言葉を頂いて、私は街を眺めた。もうすぐ夕暮れになる。街の明かりがきらめきになって輝き出す時間だ。
運ばれてきたエビカレーにチーズナンをつけて食べると、まろやかさとスパイスさが相まって本当に美味しい。
「んー」と私は唸ってしまった。
「美味しいだろ?」と翠さんが言う。
「はい。間違いなく美味しいです」
翠さんが自分のチキンカレーとほうれん草カレーも分けてくれる。
「どれもおいしくて、また来たくなります」と美味しさで頬が膨らんでいるので両手で押さえてみる。
翠さんは笑いながら
「いいよ」と言った。
「え?」
「また連れてきてあげる」
そう簡単に言ってくれるからドキドキしながら、私は小さな声でお礼を言った。
「キーマカレーも美味しくて…」
「キーマカレー」と思わず声を上げたら、また笑われてしまった。
「また来よう」
笑いながら言われたけれど、叶わない約束だったとしても、未来があるような気がして、私は嬉しかった。
食事後にトイレに行って帰ってくると、翠さんが微笑みかけてくれる。
「どうかしましたか?」
「あの、前に言ってたコンペ…二次通ったよ」
「えー、すごい」
私がトイレに行ってる間に連絡が来たらしい。
「ほっとした。…本当はそういう大きな仕事がしたいわけじゃないけど…。やっぱり経歴になるからね。小さな家を建てる人だとしても」
「…おめでとうございます」と私は一人で拍手をした。
陽は暮れて、街がきらきら光りを放っている。
「翠さんが希望するお家ってどんなのか見てみたいなぁ」
「お金があったらね。自分で作りたい」
「今のアパートも素敵ですよ」
「ありがとう」
街の明かりと空を見上げると星が見える。
「やっぱりちょっと丘の上とは言え、星はそんなにたくさん見えないなぁ」
「冬は少し良く見えるけどね…。星、好きなの?」
「天の川見たことなくて、一度見てみたいなぁって」
「行ってみる?」
私は翠さんをじっと見てしまった。これは一緒に行こうと言われているのだろうか、と。私にしては脳をフル回転させて、素早く考えた。
「行きたいです」
なりふり構っていられないくらい私は翠さんと一緒にいたかった。
「行こっか」
「夏休み…だから、どこか行きたいです」
「探しとくよ」
思いもかけない提案をもらって、私は胸が苦しくなる。鈴音ちゃんの代わりでも構わない。それでも翠さんと一緒に旅行に行きたかった。
もう引き返せない、と自分に言った。
翠さんは家の近くまで車で送ってくれた。私が家の前で止めるのは…と言って、家の道に入る前の大通りで降ろしてもらうことにする。万が一、親が出てきたら、ややこしくなるし、車で帰ってきたことが音でばれたら、嘘を吐くのが面倒だ。
「また不在日に来る?」と翠さんに聞かれた。
「…はい。不在日にお邪魔します。お仕事の邪魔にならないように」
「ならないけどなぁ…。でも好きにしていいよ」
「あの…旅行…お忙しかったら…」と少し遠慮する気持ちが出てくる。
「…たまには俺もどこか気晴らししたいよ」
「あ、はい。じゃあ、行きましょう」と何故か力が入って手をグーに握ってしまった。
また翠さんに笑われた。シートベルトを外すのにあたふたしていたら、翠さんが外してくれる。
「固いね」と言って外れたベルトをそっと私の体の向こうへと渡す。
かなり接近するので、私は思わず体を固くした。
「おやすみ」と翠さんに言われる。
「おやすみなさい」と返事しながら、私は「キスしていいですか」と内心思っていた。
思っていたけど、言えずに翠さんを見た。
目が合って、軽く微笑まれると、私のおでこに軽いキスくれる。
「翠…さん」
そこじゃないです、と翠さんに必死に視線を送る。翠さんは明らかに視線を逸らした。
「…絹ちゃん。今日はありがと」と視線をあわされることなく車のドアロックを外されたから、諦めるしかない。
「いえ。こちらこそ。翠さんの作った建物も素敵だったし、カレーも全部おいしくて…」
情けない事に涙が溢れてしまった。私はそのままドアを開けて出ようとしたら、軽くロックが閉まる音がした。
振り返ったら、翠さんの手が肩に置かれて、私を引き寄せる。
「ごめん」
そう言われてキスをされた。
謝らなくてもいい。
鈴音ちゃんの代わりでもいいのに。
そう思って、私も手を翠さんの首に回した。
全部、食べて欲しい。通り過ぎる車の音を聴きながら、キスを繰り返す。キスだけじゃ足りなくなりそうで、自分が怖かった。こんなこと思ったのは初めてだった。
唇が離れると、私から口を寄せる。
頭ではそんなことしたら、駄目だと思うのに、離れたくなくなってしまう。息が上がって苦しいのに止められない。ついに翠さんに頭を胸に抱え込まれた。しばらく翠さんの心臓の音を聴く。
どっどっどっと大きく鳴っている。
「絹ちゃん…。毎日おいで」
私は心臓の音を聴きながら、頷いた。
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