第26話

アベマリア


 翠さんの不在日に翠さんの部屋に私は出かける。洗濯機を回して、ご飯を用意して、掃除機をかける。そしてベランダで翠さんが買ってくれたアイスを食べながらのんびりするのだ。アイスはいろんな種類を買ってきてくれている。今日はマンゴーシャーベットにした。


 食べながら、ここでキスをしたことを思い出す。翠さんは私のこと、かわいそうに思って、キスに応えてくれたのかな、と。過ぎてしまうとネガティブになる。


 マンゴーアイスを口にいれると甘味ととろっとした舌ざわりがする。スプーンのアイスを舌で掬いながら、私は翠さんとのキスを反芻していた。


「あー、駄目だ。駄目になる」


 私は自分が欲情するなんて思いもしなかったから、今になって、湊の気持ちが少し分かる気がした。


 そしてあの頃の私を反省する。もっと受け入れてあげれば良かった…かな? と思いつつ、でもやっぱり無理なこともあった、と思ったりもする。


 私の性欲は置いておいて、翠さんは楽しいことが好きだから、ちょっとした仕掛けをしておく。玄関に入ってすぐのところに封筒を置いておいた。その中には「宝物の在りかのヒント」と書いた紙を入れる。


 ヒントはトイレ、ベランダ、冷蔵庫と書いておいた。それぞれにまたメモを残しておく。最終的には青いソファにたどり着く。その下に宝物を置いた。


 それは小学生の鈴音ちゃんと私の小さい頃の写真だった。庭でおままごとを二人でしている写真だ。鈴音ちゃんは小さい頃から綺麗ににっこり笑っている。その横で私は眉間に皺を寄せて、機嫌が悪そうに写っている。



 鈴音ちゃんが遊びに来たから、写真でも撮ったのだろう。せっかく二人で遊んでいたところにお父さんが入ってきて、急にカメラを向けたのだった。


 写真を撮る時、お父さんが


「二人とも笑って」と言うのだけれど、何も面白い事がないのに、それよりおままごとを中断させられていささか面白くない状況だというのに、どうやって笑えばいいのか分からなくて、そんな不機嫌な顔になっている。


 その対比が面白くて、私のお気に入りの写真だ。



 その写真を封筒に入れて、ついでに「宝物を得た人はできればでいいので、他の何かを置いておいてください」と書いて入れる。


 きっと翠さんは何か置いてくれるはずだと思うと、私も楽しみになる。


 まず玄関で封筒を開けて笑い出す翠さんが目に浮かぶ。私はそういう仕掛けをして、部屋を出た。夕方はまだ暑いけれど、帰りにコスメでも見て帰ろうかな、と足取りが軽い。



 次の不在日に行くと、玄関に封筒が置かれている。私は嬉しくなって飛びついた。


「素敵な宝物を発見しました。ありがとう。二人とも可愛いです。宝物を用意する時間がないので、もしよければ昼寝でもして、夜まで待っていてくれませんか?」と書かれていた。


 その手紙を受け取って、私はクマのように部屋の中をうろうろした。


 嬉しいけれど、今日は昼過ぎから夕方までバイトが入っていた。休みたいけれど、不埒な理由で休むことはできない。翠さんに会いたい、でも…と私は手紙を書いた。


「小人は今日はバイトがあります。せっかくなのですけれど…」と書いて、紙をくしゃくしゃにする。


「小人は今日、バイトがあります。でも夜にまた戻ってきます」と書いて封筒に入れた。


 そして大急ぎで洗濯をして、サンドイッチを作って、掃除機をかけて、家を出る。そして駅までの道でお母さんに「夜は友達とご飯食べます」とメッセージを送った。

 


 バイト先に着くと、オーナーが「知り合い来てるよ。最近、絹ちゃんいない時も来てたよ」と教えてくれる。


「え?」と思って店内を見ると窓際に新太君が座っていた。


 一応、挨拶だけしておこうかと思って、近寄る。


「あ、絹ちゃん。ここのケーキおいしいから、通っちゃって」と言ってくれる。


「ありがとう。でも…」と私は小声で「お店、近々閉まるの」と言った。


「え?」と新太君は驚いた顔をする。


「そうなの…。せっかく気に入ってくれたのに」と何だか申し訳ない気持ちになった。


「わー、全種類食べれないなぁ」と残念そうに言う。


「ごめんなさい。私も新しいバイト探さなきゃって思ってて」


「え? そうなんだ。俺のところに来る? 居酒屋だけど。いっつも募集してる」


「えー。できるかなぁ。あ、時間だから仕事入ってくるね。」と言って、カウンターに戻った。


 しばらくすると新太君が「またね」と言って店から出て行こうとして、また戻ってきた。


「湊…別れる努力してるみたい」


「え?」


「簡単にはいきそうにないみたいだけど」と出て行った。


 湊のことを聞かされても、もう何も思わない自分がいて、薄情だな、と自分で思う。それよりもバイトを終わって、ダッシュで翠さんのところに戻ることばかり考えていた。


 バイト終わりにケーキを買って帰る。翠さんが喜ぶかもしれない、と思って、どのケーキが好きなのか分からないけど、このお店の一番人気のマロンパイを買う。生クリームとマロンが程よい甘さで美味しい。


「オーナー、ケーキだけでも作ればいいのに」と言うと、オーナーは「もう疲れたんだよ」と言う。


 オーナーは一部のケーキは手作りで作って、後は菓子会社に依頼してるものもあった。


「オーナーの手作りだけ販売するお店を駅の小さい店舗借りて、するのは?」


「絹ちゃん、働いてくれるの?」


「まぁ…行ける時は…」


「うーん」とオーナーは悩んでいるみたいで、とりあえず私は「お疲れ様です」と言って店を出て、駅に向かった。


 翠さんより早く着くかな、と思いながら電車に揺られる。私は翠さんが何を用意しようとしているのか考えても分からなかった。わくわくしながら鏡を取り出して前髪を確認する。制服の帽子でペタンコになっている前髪を指で何とかほぐす。


 駅について、小道まで歩いていると、後ろからクラクションを鳴らされる。自分だとは思わず、そのまま歩いていると、軽くまた鳴った。驚いて、振り返ると翠さんが運転していた。


 車を止めて、降りて来た翠さんが助手席のドアを開けてくれる。


「乗って」


「え?」


「サンドイッチありがとう。バイト、お疲れ様」と言われた。


 助手席に座ると、翠さんはレンタカーを借りて来たら、私が駅に向かって歩くのが見えたから、と言って、冷たいペットボトルの水を渡してくれた。


「ありがとうございます」


「今から病院に行くんだけど」


「え? 病院?」


「うん。そこに院長の希望で小さな…なんて言うのかな。礼拝堂? 別にキリスト教ではないんだけど、そういう建物を建てて欲しいって言われて、設計したのがあるから見に行こう」


「翠さんが設計した?」


「そう。翠さんが設計した」と繰り返して言うから、私も笑ってしまう。


 その院長は「医療も完璧じゃない。治る病気だけならいい。でも救えないと諦めるんじゃなくて、何かできるんじゃないかって思ったんだって。それで…そういう場所を作って、心の支えになれたらいいって」


「礼拝堂? ってことは牧師さんがいるんですか?」


「ううん。たまに牧師さんも来るし、お寺のお坊さんも来るし、末期がんの人が語りに来たりするし、簡単にワークショップをする人も来るんだって」


「患者さんが聴きに来られるんですか?」


「患者さんじゃなくても誰でもいいって」


「へぇ…」と私は不思議な気持ちになった。


「鈴音を診てもらってた病院で。亡くなったとことは違うんだけど」


「…鈴音ちゃんが通ってた?」


「そう。だから声かけてくれたのかな」と翠さんは言う。


 そんな病院だから鈴音ちゃんの希望を優先したんだろうな、と私は思った。鈴音ちゃんは翠さんとの子を出産して、そして本当は自分も生きたかった。


 まだ夜になるまで少し余裕のある時間だった。車は住宅街を通っていく。少し丘になっている場所に大きな病院があった。翠さんはそのまま入って駐車場に車を止めた。


「こっち」と言って、病院の横を通り抜けるとブロックガラスの壁と白い壁でできた四角い建物がある。


「勝手に入っていいんですか?」


「いいよ。夜に閉めに来るまでは」と言って、扉を開けようとすると、中から老人が出てきた。


 何をしていたのか分からないが、随分皺のある手が扉を押している。


「こんにちは」と言うと頭を軽くさげて「あぁ、こんにちは」と言って出ていった。


 中に入ると、他に人はいなかったようで、静かだ。木で出来た背もたれ付きの長椅子が並べられている。ブロックガラスから夕陽が滲んで差し込んでいる。


「綺麗」


「良かった。お宝写真に相当するものかな」


「はい」


 白い壁は高くて、音が響く。隅に小さなグランドピアノが置かれていた。


「翠さんみたい。静かで透明で…心地良い」


 翠さんは何も言わなかった。でも私はここにいて、何だか優しいものに包まれている気分になる。しばらくその場に座っていると、扉が開いて高校生の女の子二人組が入って来た。


「あ、すみませーん。ちょっと練習していいですかぁ」と聞いてくるから、私は「あ、はい。ここにいてもいいですか?」と聞き返す。


「もちろんです」と言って、一人が前に立ち、一人がピアノに座る。


 何だかコンサートでも始まるのかと思ったら、びっくりするような声量で歌い出した。


「アベマリア」を繰り返す。


 後で聞いたら、カッチーニのアベマリアという曲だった。


 悲しくて、美しい曲で、私は涙が出た。女の子は細いのに、体全部が楽器になったように声を出す。音が建物の中を響いていく。


 悲しさが空間に充満していく。


 鈴音ちゃんは自分の命と引き換えに赤ちゃんを選択したのに、結局、何も手にできなかったし、翠さんは止められずに全て失った。


 夕日がゆっくりと色を失っていく。


 もうすぐ日が落ちる。


 涙がぽろっと落ちた時、鈴音ちゃんが最後に会った時に言った言葉を思い出す。



 駅前のカフェで会う約束して、鈴音ちゃんのお母さんに頼まれたものを持って行った時だった。私はパフェを食べていたけれど、鈴音ちゃんはアイスクリームだけだった。少しやせた印象を受けたけれど、それが一層綺麗に見えた。


「絹ちゃん。…今日、いいお天気ね」


 そう言われて、私は空を見た。いつもの青空だ。特に素晴らしい青空でも変わった青空でもなく春の淡い空だった。


「雨が続いたもんね」と私は不思議に思いながら、鈴音ちゃんを見た。


 鈴音ちゃんは空を見て目を細めていた。


 私は何も分からなかった。どれほど、鈴音ちゃんが毎日を慈しんで生きていたか。誰かを愛して、自分にも正直に生きてたか。


 そしてその日々は辛くて悲しいだけじゃなかった。きっと美しい時間だった。


 翠さんが泣いている私の肩を抱く。


 二人は短い期間だったけれど、愛しあっていた。


 私の入る隙なんて無いほどに――。

 


 歌い終わったから私は拍手をしたら、歌っている時とは雰囲気が変わって、二人は飛び跳ねるように頭を下げてお辞儀をしてくれた。また何か歌い出しそうだったけれど、翠さんに促されて、私は表に出た。涙を手の甲で拭ってなんともないフリをしようとするけど、無駄だった。。


「絹ちゃん…大丈夫?」


「…歌が哀しくて、綺麗だったから」


「上手かったよね。突然でびっくりしたけど」と翠さんが少し先を歩く。


 大きな背中を眺めて、隣にいるはずの人がいない淋しさを感じる。


「ここで、鈴音と二人だけで結婚式しようって言ってた。あの赤いワンピース着て」


 その約束を果たす前に鈴音ちゃんは倒れた。スーパーにいる時だったからそのまま救急車で受け入れてくれた病院に運ばれた。そして入籍していなかった翠さんは連絡されることもなかった。


「絹ちゃん…お腹空いたなぁ」とのんびりした声で翠さんが言う。


「…はい」と私は返事をしながら、鈴音ちゃんと翠さんの結婚式を想像する。


 美しい光の溢れる建物で、ベールをつけた鈴音ちゃんと二人で歩く。ベールをそっとあげる翠さん、そして見つめる鈴音ちゃん。二人だけで誓いのキスをする。


(実現させてあげたかった)と私は心から思った。


 でもその時は何も知らない子供だった。何もできない子供だった。


「ごめんなさい」


「え?」


 振る返る翠さんが夕日の逆光で眩しくて見えない。


「好きになって…」


 そう二人に言った。


 西日が痛い。

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