第25話

夏の間だけ


 とくとくとくと心臓の音が聞こえる。


 これは翠さんの心臓の音。私のはもう少し早い。


 とっとっとっと早打ちしている。


 翠さんにしがみついたら、そのまま抱きすくめられた。激しい雨でトタン板の屋根はドラムのように激しい音を立てている。


 翠さんの匂いと雨の匂いが混ざる。


 私を鈴音ちゃんと思って、そうしているのか分からない。それでも私は彼を愛する予感がしていた。初めて見たあの時から――。


 あの夏のお葬式。直射日光が翠さんの短い影を作ったあの日から。



 顔を上げると翠さんと目が合った。私から唇を寄せる。一瞬、戸惑うように瞳が揺れるのを見た。でも次の瞬間、背中に回っていた手がぐっと私を引き上げ、一瞬、唇が重なる。離れたかと思うと、掬いあげるように唇が触れる。私から舌を求めた。背中に置かれた手が汗ばんでいるのを感じながら、私も手を翠さんの首の後ろに回す。舌を擦りあわせながら、私は目を開けた。翠さんは鈴音ちゃんとのキスをしてるのだろうか、とふと思った。


「どうしたの?」と翠さんも目を開ける。


「もっと」と言って、私は目を閉じる。


 翠さんは私の瞼にもキスをしてくれる。頬、鼻、顎、耳、柔らかいキスが降ってくる。


 雷は少し遠くなる。


 私は翠さんの頬に手を当てて、自分から翠さんの口に舌を差し込んだ。キスは嫌いじゃないけど、こんなに積極的にしたのは初めてだった。


 優しく応えてくれる翠さんがもっともっと欲しくなる。息を整えようを一瞬、口を離すと、干してあった私のワンピースが揺れているのが目の端に写る。雨で濡れてたら良かったのに、と思いながら、また口を寄せた。キスを繰り返しても繰り返しても足りない。


 ――欲情してる。


 キスをしながら考えていた。この行き着く先になにがあるのだろう、と。翠さんとセックスするのだろうか、と考える。指で翠さんの首筋を辿る。雨の衝動で私はキスをしているけれど、どうしていいのか分からない。


 背中に置かれていた手が私の後頭部を優しく、でもしっかりと包み込んだ。


 翠さんは私のこと好きじゃないのに、まるで恋人のよう扱ってくれて大切にキスしてくれる。私を拒否しないでくれた。優しくて、苦しい。


 雨音も次第に優しい音に変わっていく。


 離れたくないのに、私はゆっくり舌を離した。


「ごめんなさい」


「どうして…謝るの?」


「だって…鈴音ちゃんのこと好きなのに…私なんかと」


「そんなこと…」と言って、私の頭を胸に抱き寄せてくれる。


 翠さんの心臓の音もとっとっとっと走り始めていた。


 雨が止んだら熱を冷ますように少しは気温が下がるだろうか。そんなことを思いながら、翠さんの心地いい心臓の音を聴いていた。


「帰ります」


 そう言って、自分の服に着替えて、私は翠さんの部屋から出てきた。コットンワンピースは薄手だったので、大分、乾いていた。


 セックスは「してください」とも言えなかったし、翠さんに選択権を与えることは私はできなかった。翠さんが鈴音ちゃんを裏切るようにそそのかしたのに、それ以上はできない。唇にキスの感触がひりひりと残ってる。あんなに長い間、キスをしていたから唇がいつもより赤くなってるかもと電車の窓に写る顔を見るけれど、分からない。

 翠さんの唇はきっと今頃、後悔している。



 家に帰った時、お母さんが私を見て


「どうしたの」と驚いた声を上げた時、思わず唇を触ってしまった。


 腕の擦り傷をお母さんは心配していた。




 夜、ベッドの上で私は唇をずっと触っていた。スマホが鞄の中で震える。メッセージを受信したようだ。帰宅してからスマホも取り出すことなく、キスのことで頭が占められていた。鞄からスマホを取り出すと、バクテリアの写真とメッセージが届いていた。


「すごい雷、大丈夫だった?」


「大丈夫」と打って「じゃない」と呟いた。


 今日の夕立について、上手い返事もできない。


 翠さんのためにも私は笙さんと付き合った方がきっといい。そう思うのに、頭では分かっているのに…と私は意を決してメッセージを送る。


「お会いして、お伝えしたいことがあります。お時間ある時、教えてください」


 お付き合いできないことをメッセージで伝えるのは、と思ったけれど、でもわざわざ時間を取ってもらって…良いお話ができないのも、と悩んで送信取り消す。すぐに電話がかかってきた。


「絹ちゃん?」


「あ、はい」


「それって、返事もらえるってこと?」


「…はい」


「今ので分かったけど、いい返事じゃなさそうだね」


「…ごめんなさい」


 笙さんの声は少しも怒っていない。


「それって、俺のこと苦手だから?」


「違います。笙さんは素敵だし、本当にいい人で…」


「じゃあ…もしかしてあの人のことで?」


 私はビデオ通話でもないのに、頷くしかできない。


「…だとしたら、待つよ」


「え?」


「ごめんね。…でもきっとうまく行かないと思うから」


 笙さんの言う事はまるで予言のように響いた。私も翠さんとの未来なんて想像つかない。


「笙さんは…でも」


「だから言ったじゃん。忙しいからそんなに出会いもないし。待つって言ってもそんなたいそうなことじゃないんだって。だから友達として考えてて。きっと辛くなったり

するだろうから。その時はバクテリアと一緒に話聞くから」


「そんな…都合のいい」


「絹ちゃん、まじめか」と言われた。


「だって笙さんは素敵だから、いくらでも彼女出来ると思います」


「…絹ちゃん。絹ちゃんがどうしてもその人が好きなように、俺も同じだから。他の人って…簡単に言わないで欲しい」


 私はどう返事していいのか分からなくて、変な音を出してしまった。それで、笙さんが笑って


「友達でいさせて」と言う。


「本当にいいんですか?」


「いいよ。辛くなったらいつでも電話しておいで。バクテリアのこと待たしてもいいから」


「じゃあ、笙さんは男友達第一号ですよ」


「第二号は作らないで欲しいな」


「初めての男友達です」


「まぁ、今はね」と笑いながら言う。


 何だか腑に落ちない気もしたけれど、私は電話を切った。男友達ってどう付き合っていいのか分からないなと思いながら、少し気持ちが軽くなって、目を閉じる。




 今日は桃ちゃんと奈々ちゃんの三人で浴衣の髪飾りや手提げを買いに来た。神社の夏祭りに浴衣を着ていくことにしたからだった。みんな、お母さんのの浴衣があるので、小物だけ見る予定だ。笙さんも夏祭りに来ることになったので、二人にこの前のいきさつを説明することにした。


「きーぬー。やっぱりか」と奈々ちゃんに言われる。


「本気なの? 見込みないでしょ?」と桃ちゃんにもさらっと言われた。


「見込みは…ないけど。…でも初めて、欲しいって思ったんだもん」と言うと、二人がぎょっとした顔でこっちを見る。


「絹?」と奈々ちゃんに両肩を掴まれる。


「ねぇ、まさか…したの? スキンシップ」


 スキンシップはキスも含まれているのだろうか、と思いつつも咄嗟に嘘をついてしまう。


「え? してないよ。え? あ、欲しいっていうのは、気持ちが欲しいってことだよ」


 欲情したなんて、さすがに友達にも言えない。


 両肩が急に楽になる。


「あー、そうね。それはね、無理だから」と奈々ちゃんが言う。


「絹。冷静に考えて。顔が同じなだけで、中身が違う。ね? もし付き合えたとしても、身代わりじゃないかって…きっとずっと不安が付きまとうよ。それにね、親御さん、絶対、賛成しない」


「分かってる。分かって…。あの、夏休みの間だけ…」


「は?」と奈々ちゃんが再び両肩を掴む。


「夏休みの間だけ、家事しに行くつもりだから。後は…もう行かない」


「はぁ。…絹? 好きにしていいけど、辛くなるよ?」と奈々ちゃんに言われる。


「…どうして? 止められないの?」と桃ちゃんにも言われる。


「分かんない。会いたくて、ずっと気になって…」


 二人が深いため息をついた。


「ねぇ、簡単に手が届かないから欲しくなるってこともあるのよ?」と桃ちゃんが言う。


「そうかも…」


「後、絹は優しいから、かわいそうな人が好きなのかも? 私がいないとって思ってたりして。でも絹じゃなくても、その人はきっと大丈夫だよ」と奈々ちゃんが私の肩を揉む。


「そうかも。そうだと思う。でも今は一緒にいたくて…」


 また二人がため息ついて「重症です」と言った。


 それでも見放さない二人が私は好きで「ごめんなさい」と言った。


「まぁ…看取ってあげるから」と奈々ちゃんが笑う。


「私は末期の水を取ってあげる」と桃ちゃんも諦めたように言う。


 失恋確定だけど、私の気持ちも固まった。夏の間だけ、私は翠さんを好きでいる。


「じゃあ、笙さんはどうするの?」と桃ちゃんが訊く。


 お断りの連絡をしたら、待つと言われたことを説明すると、奈々ちゃんが


「わー、めっちゃいい人」と驚く。


「そうね。私なら、そんな人、ごめんだもん。面倒くさいし」と桃ちゃんはそう言って


「だから笙さんは本当にいい人なのよ。分かってる?」と付け加えた。


「…はい。とりあえず友達でって」


 二人は顔を見合わせて、何だか笑っている。


「何? どうしたの?」


「笙さんって、意外と」と奈々ちゃんが言って、桃ちゃんが「策士」と答えた。


 策士なのは知ってるけど、と思って首を傾けた。


「なんか、安心したー」と奈々ちゃんが言うから、私はますます分からなくなる。


「じゃ、行こ」と桃ちゃんが腕を取って、和装のお店に向かった。


 夏の日差しが容赦なく降り注ぐ。いっそ焼かれてしまってもいいと思いながら、でも日差しが強すぎて、見えないこともたくさんある。

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