第24話

夕立の話


 目の前にいる翠さんは私を見ているのだろうか。


「…私に?」


「そう。こんなかわいいことをしてくれる小人さんに会いたくなって」


「鈴音ちゃん…じゃなくて?」と確認してしまう。


 軽く笑って、翠さんは話し始めた。


「最初はすごく几帳面な泥棒かと…思ったけど。泥棒が洗濯して干してくれるわけないし、冷蔵庫には麻婆豆腐が入ってるし、炊飯器にはご飯が炊かれてて、床は片付いてた。会社の電話には非通知の着信が何回かあって…。気づかれたくないんだろうなって…慌てて帰ったのかなとか、いろいろ考えると、どれも可愛かった」

 それで翠さんはわざと不在日を書いて、私を安心させたらしい。不在日にのんびり過ごしている様子を思い浮かべると楽しかったと言ってくれた。


「冷蔵庫にアイスティが作られてるのを見たら、あぁ、今日はのんびりして帰ったんだなって。それだけで癒された」


 自分が飲みたくて作ったけれど、多めに作って残ったアイスティは翠さんが飲むだろうとガラスのピッチャーに入れておいた。


「後、アイスが減ってるのも何だか可愛かった」


 翠さんが食べていいって言ったアイスを私は遠慮なくベランダで堪能していた。全て知られていたと分かると恥ずかしくなる。


「翠さんが…もう来ない方が…いいって言ったから…こっそり…来て…それで…少しでも役に立てたらって…」と言い訳を並べる声が震える。


「すごく有難かったよ。洗濯も掃除もご飯も…何より、本当に想像するだけで、癒された」


「癒された?」


「俺のいない間に、働き者の小人がパタパタ仕事してるって…考えてみるとね。それで時々休んだりって…。そんなこと考えると、疲れも飛んだよ。だから…だますような形で申し訳ないけど、ありがとうを言いたくて」


「翠さん…。でも今日はいてくれて良かった」


「ひどい怪我してたもんね。…何かあった?」


「そんなひどい怪我でもないです…けど」と言いながら擦り傷の腕を後ろに回した。


「ハンバーグひっくり返さないと」と翠さんが立ち上がって、フライパンを開ける。


 美味しい匂いがふわっと流れてきた。


「あー、いい匂い」と言いながらひっくり返してくれる。


 翠さんの背中を眺める。


「焦げ目もいい感じ」


 白いTシャツの広い背中。


「また蓋しとく?」と振り向かれた。


 鈴音ちゃんの愛した人。


「あ、はい。もう少しだけ」


 鈴音ちゃんを愛した人。


「分かった」とフライパンの蓋をしてくれる。


 私にそっくりな人を好きになった人。


 みんなから「やめた方がいい」と言われたけど、私はまだ何も始まっていないと思ってた。


「絹ちゃん、もう痛くない?」と私の怪我を心配してくれる。


「…はい。…あの、これ…押されて」


「え?」


「元カレの彼女に押されて。元カレは…よりを戻したいって…それで…。今更って…ほんと、思うし…」


 翠さん相手に私は何を言ってるんだろうと思いながら、どんどん話した。


「急に後ろから押されて、倒れて、カゴから飛び出しちゃうし…。水羊羹…鈴音ちゃんの好きなの…持ってきたのに…。卵も大分割れてしまって…。それで…ここに来て、翠さんがいて…」


 とりとめなく話しているけれど、言いたいことは


「だから…今日、翠さんがいてくれて…良かった…です」


「大変だったんだな。ここまで来るのに」と言って、翠さんは私の側に来る。


 そして怪我の様子を見ようと私の手を持ち上げる。


「あー、大分、広範囲だね。せっかく綺麗な肌してるのに」


 触れられているところが熱く感じる。


「反対は?」


「こっちは大丈夫。かすり傷です」と慌てて返事をして、手を後ろに隠す。


「俺は…本当はもう…会わない方がいいと思って。この間はあんなことしてしまって。ごめん」


 いきなり前回の話をされる。


「会わない方が…いい?」


「絹ちゃんがどういうつもりで来てくれてるのか分からないけど…。鈴音の顔で笑いかけられたり、話しかけられたり…。でももう二度と誰かを好きになるつもりないのに、苦しくなって。それにあの日、鈴音の服を着るって言い出して…。本当は着て欲しいって思った。もう一度、鈴音に会いたい…、いや、何度でも会えるなら会いたい。外見だけでも…とか考えて、ちょっとはっとした。やっぱりそれは…現実じゃない」


「夢…だったら?」


「夢?」


「夏の夢です。今だけ…。私、鈴音ちゃんになってもいいです」


「…どうして、そんな」


「私、愛が知りたい。そんなに深く愛されてみたい。鈴音ちゃんとしてでも」


 あの時から。鈴音ちゃんのお葬式の日に見た翠さんの姿からずっと私は惹かれていた。暑い日差しを受けて、俯いた背中はひたむきな愛を語っていた。


 ハンバーグがそろそろ焼けそうだ。


「お昼ご飯は鈴音ちゃんと食べませんか?」と私は言って、フライパンの火を止める。


 奥の部屋に行って、押し入れから鈴音ちゃんの物が入ったカラーボックスを開ける。良く来ていた、朱色の金魚のようなワンピースがあった。


「これ…」


 私も見おぼえがある。




『ちょっと恥ずかしいけど…金魚みたいに可愛いから…買っちゃった』とひらひらゆれるスカートと後ろのバックリボンを見せてくれた。


 私は珍しいと思いながらも、色白の鈴音ちゃんにとっても似合っていて、自分も欲しくなった。


『一緒の買う? 二匹の金魚になろう?』と鈴音ちゃんは笑っていた。


 結局、まだ小さかった私のサイズには合わなくて買わなかったけれど…と今手にしてみる。




「翠さん、ちょっと洗面所借りますね」と言って、私はそこで着替えた。


 鈴音ちゃんはいつも大抵、ハーフアップをしていた。私みたいに暑いときはポニーテール、寒いときは下したままじゃない。暑くても、寒くても可愛くみつあみしたりして、ハーフアップにしていた。髪の毛もしようとしたけど、何だか不器用なので上手く行かない。仕方なくポニーテールにして、朱色のワンピースを着た。軽くてシフォンのような生地感はふわふわしている。


『鈴音に会いたい』と言っていた翠さんは喜んでくれるだろうか。ちゃんとハーフアップもいつかチャレンジしようと思う。


 私が洗面台から出ると、翠さんは何か言おうとして、そしてそのまま固まった。


「翠さん…」


「…金魚」と勢いよく立ち上がって、椅子が倒れる。


「そう。金魚になれるって、鈴音ちゃんが」


 抱きしめられていた。


 強くて、でも息はできるけど、強くて。思いが強くて、どれほど翠さんが待っていたのか分かった。


「鈴音。ごめん」


 私は今、鈴音ちゃんだから何も言えなかった。鈴音ちゃんなら、なんて言うだろうと考えながら、私はじっとしていた。翠さんの温かい体温が心地よくて、切なくなる。


「ごめん。…絹ちゃん」と体を離される。


「私は平気。翠さん…大丈夫?」


 首を横に振りながら、もう一度抱きしめられた。


「その服…プロポーズした日に着てた」


 この服を着て、この部屋で二人だけのささやかなパーティをしたらしい。


 その時も鈴音ちゃんは洗面所で着替えて出て来たと言う。


「嬉しくて、嬉しくて。お金も何もかもなくなったけど、そんなことどうでもいいくらい嬉しくて…何もかもに感謝したくなった」


 この部屋で鈴音ちゃんと翠さんが二人で寄り添っていたことを想像する。


「似合ってた。可愛くて…金魚みたい。かわいいリュウキンって笑ってキスして」


 ずっと抱きしめられたまま話される。


「鈴音の手作りケーキを二人で食べて。本当に幸せだった」


 翠さんが体を離して「ごめん」と言う。


「謝らなくていいです。だって、これは…レッスンだから」


「レッスン?」


 そう思わないとこの先辛くなることは経験浅い私だって分かってた。


 聞き返したことに応えずに私はお昼を用意しようと思って、慌てた。


「ハンバーグ…このワンピースを汚さずに食べる自信がなくて。さっき鈴音ちゃんとお昼食べましょうって言いましたけど、…Tシャツの絹に戻っていいですか?」と言うと、翠さんは思わず吹き出した。


しばらく笑い続けるので、どうしたものかと首を傾げる。


「もちろん…もちろん、着替えていいよ」と涙を流しながら笑う。


(だって鈴音ちゃんのワンピース汚したくない…だけなのに)とちょっと軽く足音を立てて、洗面所に向かった


 素早く着替えて、Tシャツと短パン姿に戻る。ワンピースは綺麗に畳んで、部屋に出ると、翠さんがハンバーグをお皿に並べてくれていた。


「おかえり、絹ちゃん」という声が優しいから何だか嬉しくなった。


 ハンバーグを食べ終えると、私が作ってきたオレンジ寒天と水羊羹を出す。


「水羊羹は鈴音ちゃんが大好きで…」と言って、ガラスの器に入れる。


「ベランダ行こうか」と翠さんが言ってくれて、二人でお茶の用意をして運んだ。


 大きな扇風機をかける。


「ベランダが広いのを、鈴音が気に入って…」


「サンルームみたいですね」と言うと、翠さんは笑った。


 透明な素材のトタン屋根が張られているので、雨にも強い。さっきまで晴れていたのに、入道雲が広がっていて空が暗くなる。


「もうすぐ雨かな」と翠さんが言う。


「じゃあ…雨が止んだら帰りますね」


「うん。じきに降り出すと思う」


 言ってるうちに急に風が強くなって、風鈴が音を立てる。ぽつぽつと雨がトタン屋根の上に落ちる。大粒の雨で次第に勢いが増していった。


「わー。すごい。雨のカーテン」と私は少し楽しくなって、強い雨を眺めていた。


「怖くないの?」


「あ、鈴音ちゃんは雷とか怖がってました? 私も怖くないことはないですけど…。安全な場所にいるから」と勢いを増す雨を眺める。


 鈴音ちゃんの好きだった水羊羹を口にいれるとつるりと甘さを残して溶けていく。


「鈴音…妊娠してて」


「え?」


 翠さんの横顔を眺める。


「本人がどうしても治療したくないって。お腹の子を諦めないといけないから。でも俺はいいからって…。それで鈴音を怒らせて」


「…で、どうなったんですか?」


「結局、鈴音は譲らなかったんだけど、流産して…でも治療が遅れてしまった」


 その話は誰も知らなかった。翠さんだけが知っていたことだった。


「だから…罪深い人間だなって思ってる」


「そんな…」


「あの時は鈴音に本気で嫌われた…」


「じゃあ、病院に行けなかったって…」


「…お金は何とでもするつもりだった」


 行けなかったんじゃなくて、鈴音ちゃんが行かなかったんだ、と私は呆然となった。雨音が強くて、何か伝えたくても届きそうにない。


「自分は助からないって分かってて…だから、残したかったのかもな」と翠さんは遠くを見る。


 閃光が走る。


「鈴音ちゃん」


 どおんと雷の落ちる音がする。


「結局…二人とも亡くしてしまった。流産した鈴音は…もうこれでもかっていうぐらい泣いて。俺に『何も残してあげられない』って」


「そこからでも病院に行かなかったのは…残りの時間を翠さんと…過ごすため?」と私は鈴音ちゃんの愛の深さを知る。


「…俺は病院に行って欲しかったよ」


「でも鈴音ちゃんが断った。余命を知ってたから…」


「まぁ、余命は知ってた」


(最後まで…鈴音ちゃんは一緒にいることを選択したんだ)と私は涙が溢れた。


 また閃光が走り、今度はすぐに音が鳴った。


 近くに雷が落ちたようだった。


 激しい雨の打ち返しが跳ねて足元を濡らす。


「…誰も幸せにできなかったな」


 翠さんがそう言うのに、涙を零しているのは私だった。


 鋭い閃光と爆音が同時に空を走る。


 あぁ、どうか翠さんを誰も責めないで欲しいと私は祈った。


「中に入ろう。雨が激しい」


 そう言って、少しも動こうとしない翠さんに私は抱き着く。


「雷…怖いの?」


 何度も頷く。この人は傷を抱えて、ずっと生きてる。自分を責めて、ずっと。


 頭上に光と音が走った。

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